第六十二章
その部屋は雑然としているくせに、生活感がなかった。
竹簡は書棚に整然と積まれ、入りきらなかった一部は書卓に広げられ、さらに乗り切らず、床にだらしなく開かれていた。
広げられている竹簡は、同一の筆跡。
それ自体が芸術のような、流麗な文字が伸びやかにつづる。
驚くべきことに、その竹簡は削り跡が見つからなかった。
それは書き損じが一字もないことを表している。
竹簡の内容は、この部屋のようにまとまりがなかった。
兵法であったり、華麗な詩であったり。
床に置かれているものは竹簡だけではない。
雑多な色の衣。
拳ほどの大きさの玉。
素朴な造りの笛。
弦の切れた琴。
しかし、寝台の上には物一つ乗っていない。
あるべきはずの物、枕や掛け布団といった類たぐいの物がない。
紗の天幕が寒々と存在するだけだった。
そこだけがこの部屋の聖域のように、散らかされていなかった。
この部屋の主が見えてこない。
矛盾する物を内包しすぎている。
兵法と詩。
希少な玉とありふれた笛。
雑然とした床と整然とした寝台。
極端な二つが無理やり、より合わせられているようだった。
そして、それは間もなく破綻するように見えた。
この部屋は見る者に、漠然とした焦燥感を抱かせる。
目に入る物、全てがおかしいのだ。
幸運なことにこの部屋を見る者は、ほとんどいない。
この部屋の主と、片手で数えられるほどの人間だけだ。
だから、この部屋の主の異常性を知る者はそうはいないのだった。
「全く、少しは片付けたらどうだ?」
この部屋に出入りを許された男は言った。
そろそろ老人と呼ばれる年齢ではあるが、堂々とした体躯がそう呼ばせるのをためらわせる。
男は、人臣の栄華を極めた人間だ。
この国で最も身分のある臣民――宰相である。
姓はヨク、名はエンジャク。字は鴻鵠。
フェイ・シユウの無二の親友。
フェイ・コウレツの妻コウジャクの養父。
「相変わらず、片付けは嫌いのようだな」
エンジャクは呆れる。
床に座り込んでいたこの部屋の主は振り返る。
その手には書きかけの竹簡と筆が握られていた。
「翼爺。
何の用だ?」
部屋の主である若い男は笑う。
品のある絹の衣を適当に合わせただけの気軽な衣束姿である。
若い男の身分を考えたら、寝着にも等しいほどの枚数しか重ねていない。
色もくすんで、冴えないものばかり。
だが、若い男の魅力を余すことなく表現していた。
生まれながらの粋人。という言葉が良く似合う。
「何だ、この部屋は?
呆れて物も言えない」
エンジャクは言った。
この部屋の異常性を見てたじろがない数少ない人物だ。
部屋の主を幼い頃から知っているために、感覚が麻痺しているのかもしれない。
人はどんなものにも慣れることができる。
「だったら、言わなくても良いだろうに。
小言に聞き飽きた」
低すぎることもなく、高すぎることもない声が言う。
この声を極上の琴とたとえたのは、大司楽のオウ・ユだっただろうか。
「女官に頼んで、掃除してもらったらどうだ?」
「これが落ち着くんだ」
若い男は立ち上がり、筆を書卓の上の硯に置く。
「昔から、そうだったな。
まだ聞かん坊の方がマシだった」
エンジャクは盛大なためいきをついた。
若い男は懐かしそうに目を細めた。
「さて、用意をしてもらうぞ」
エンジャクの言葉で、来客があることを知る。
衣束を整えるのは、とても手間と忍耐が必要なのだ。
何故ならば、若い男がのらりくらりと楽な格好から着替えないからだ。
「?
暇つぶしに小言を言いに来たんじゃなかったのか?」
「それほど、宰相の職は暇ではない。
それに小言を言うのは暇つぶしではない」
「てっきり、趣味かと思っていたよ」
若い男はクスクスと笑いながら、竹簡を巻いていく。
「んな、馬鹿な話があるか!」
エンジャクは遠慮なく怒鳴る。
「で、誰が来たんだ?」
若い男は訊いた。
来客ごときで、エンジャクは職務を放置しない。
宰相の日常業務よりも重要な来客があった、と言うことだ。
「お前と同じ目をした若者だよ」
エンジャクは言った。
若い男は皮肉げに笑む。
「絲将軍の凱旋だ」
「なるほど。
では、用意をしなくてはいけないな」
若い男は言った。
この国で最も尊き、現人神。
鳥陵の皇帝、ホウスウは笑った。