第六十三章
青年はためいきをこらえた。
「我慢なさってください」
半歩後ろを歩く壮年の男性が言った。
「わかってます」
前を向いたまま、ソウヨウは小声で言った。
それでも窮屈さに、ためいきが零れそうになる。
ソウヨウは今、官服をまとっている。
非公式な謁見と言うことで、文官のそれだが肩が凝ることこの上ない。
仰々しく衣を重ね、錦の帯を締める。
何となく、腰に重みが足りなくて落ち着かない。
剣と剣帯は取り上げられてしまっている。
なくても、ある程度の事柄なら切り抜けてみせる自信はあったが、常に持ち歩いている物がないとそわそわするものだ。
「この先にいらっしゃいます」
道案内役の下官が立ち止まり、頭を垂れる。
ソウヨウは宮の区切りである柱を見上げて、ためいきをついた。
モウキンもまた、同様であった。
「どうぞ。
お付の方も」
下官に促されて二人は歩を進める。
しばらく歩いて、人の気配がないことを確認すると、モウキンは呟いた。
「ここは、もしや」
「ご想像通りです。
後宮です」
ソウヨウは険しい顔で答えた。
現在、皇帝には后妃がおられない。
侍る女官もいなければ、全く機能していない宮である。
かなりの部屋数を歩いたが、使われている様子もない。
何の目印もないので、二人は真っ直ぐに突き進んでいく。
どれほど歩いたのだろうか。
部屋の入り口に鈍い青色の布が下げられているのが見えた。
「多分、あそこですね」
ソウヨウは言った。
あの色は特に鳳が好む色だ。
部屋の前に下官すらいないので、非礼だと思いながらソウヨウは声を掛ける。
「右将軍シ・ソウヨウ。
只今、参りました」
「やっとか。
入れ」
艶のある声が入室を許可する。
その声が紛れもなく皇帝のものだとわかり、モウキンは恐縮した。
二人は部屋に足を踏み入れた。
馥郁たる南渡りの香木の香り。
室内に入る春の日差し。
二人は跪拝する。
「立ってかまわない。
堅苦しいのは、朝議だけにして欲しい」
ホウスウは笑った。
皇帝が着る物としては簡素な、官吏が着るような衣をまとい、椅子に腰掛けていた。
その側に威儀を正した官服姿の宰相のエンジャクが控えている。腰に一振りの剣を佩く……宰相。フェイ・シユウの代に軍功を挙げ続けた武人だ。
油断のできない相手だった。
皇帝に言われ、二人は立ち上がる。
「ご苦労だった、ソウヨウ」
皇帝直々の労いの言葉にソウヨウはニコリともしなかった。
「約束どおり。
列将軍に任じよう」
ホウスウは言った。
光栄どころの騒ぎではない。
ごく普通の人間であれば、感涙するような場面だった。
あいにくと、この空間にはそんな人間はいなかった。
「いりません」
キッパリとソウヨウは断った。
予測通りの行動に、モウキンは苦笑を浮かべる。
宰相のエンジャクはぎょっとした。
まさか、断るとは思わなかったからだ。
「何故だ?
そなたは役目を果たした。
私はそれを報いようと、思うが」
それはホウスウも同じこと。
人は皆、他の人間より高い場所で下を見下ろしたいもの。
ホウスウは眉をひそめた。
「行将軍にこそ、その役職は相応しいと思われます。
此度の戦は、行将軍の功績が大きいかと存じます。
私のような若輩者が、行将軍の手柄を横取りすることができましょうか?
君主たるもの公平な目で臣下を見、その功に見合う褒賞を与えるべきかと思います。
よって、大変恐れ多くございますが、過分にてお受けすることはできません」
ソウヨウは礼儀正しく言った。
まるで礼を教える古書のような、お手本どおりの謙遜。
礼を正し、儀を正す。
それ故に、礼儀と言う。
「千里には違う褒美を与えた。
本人たっての願いだったからな。
だから、遠慮せずに良い」
ホウスウは言う。
「経験も、その武勇も、徳も。
私よりも素晴らしい方々がおられます。
その方をお引き立てになってはいかがでしょうか?」
ソウヨウは言った。
賢君と呼ばれるに相応しい若き皇帝に見出され、教えを受けた聡明な臣下。
その役割通りの言葉、に聞こえる。
「誰にもなしえなかったことをした者にこそ相応しい地位だ。
私は約束を守る質でね」
ホウスウは優しげに微笑む。
彼の中身を知らない者なら、感動のあまりひれ伏したくなるほどの見事なもの。
完璧な皇帝。
「いりません。
いいじゃないですか。
本人がいらないって言ってるんだから、無理に押し付けなくっても!」
とうとう、化けの皮がはがれた。
ソウヨウは子どものように言う。
「私は有言実行なのだ」
気に留めず、ホウスウは言った。
「別に、信念曲げてくれても良いと思うんですけど」
ソウヨウは不満そうに唇を尖らせる。
「約束事を反故にするのが、一番嫌いなんだ!」
猫を被っていたのはこちらも一緒。
ホウスウは怒鳴った。
エンジャクとモウキンは盛大なためいきをついた。
「ちょっとぐらい、いいじゃないですか。
ケチ」
「それが君主に向って聞く口か?」
「怒りに任せて、首を刎ねますか?」
ソウヨウはニコニコ笑う。
「位なんていくらあっても、いいものだろうが」
「本当にそう思ってらっしゃいます?
皇帝陛下」
嫌味ったらしくソウヨウは言った。
「何で地位が上がるのを嫌がるんだ?」
「だって、行将軍じゃなくて、どうして私なんですか?
納得ができません!」
「ギョク・ライカイの首を落としたのはお前だろうが!」
「あれは偶然、たまたまです。
散歩してたら、襲われたんです。
殺すつもりはなかったんです。
情状酌量の余地はあります!」
ソウヨウは言った。
頭が足りないんじゃないかと疑われるような言い方にモウキンは、いくつついても足りないためいきをつく。
「どうして手柄を誇らないんだ?」
「私が欲しいのは平穏で慎ましやかな生活です」
南城の城主。
皇帝のお気に入り。
計略の奇才。
色墓の豪族の総領。
彼の身分にはいささか吊りあいの取れない願いである。
平穏はまだしも、慎ましやか……。
冗談にしか聞こえない。
「私が決定したのだ。
この、皇帝である私が」
ホウスウは尊大に言う。
「……。
行将軍には褒美を与えたんですか?」
ソウヨウは不満げに訊いた。
「ああ。
好きな女がいるから、結婚の許可が欲しい。と言ってたからな。
故国にその娘を連れて帰っても良いという許可を与えた」
「ズルイ!
そっちの方が、私だっていいです!」
ソウヨウは気色ばむ。
「はあ?
お前に好きな女がいるのか?」
ホウスウはいぶかしむ。
「います。
その言い方、失礼です!
私にだって永遠の愛を誓った女性がいます」
ソウヨウは言った。
モウキンは天井を仰いだ。
「でまかせを言うな。
どこにそんな女がいるんだ?」
ホウスウの言葉にソウヨウはほくそえむ。
「いたら、結婚を許してくださいますか?」
「いるんだったらな」
ホウスウの言質を取り、ソウヨウは満面の笑みを浮かべた。
まさしく豹変。
狙い通りに獲物をしとめるのは、鵬も鷹もどちらも狡猾。
ただ、今回は鷹の方が一枚上手のようだった。
「もしや……」
その表情にホウスウは嫌な予感がした。
「姫と名を交し合いました」
ソウヨウは嬉しそうに宣言した。
エンジャクは呆れ、ホウスウは嘆息をついた。
ホウチョウはこの国、いやこの世界の唯一の公主。
彼女よりも身分の高い女性は、実母である皇太后しかいない。
とても高貴な身分なのだ。
保護者の意思を無視して、ひょいひょい結婚してはいけない。
もちろん、野合なんてもっての外である。
ホウスウは渋い顔をする。
有言実行は彼の数少ないこだわりなのだ。
言った以上は責任を取らなくてはならない。
「母上からも許可が出たらな。
あの方が決定権を握っている。
なおさら、列将軍についてもらうぞ」
運命相手に賽を投げてみても詮のないこと。
ホウスウはためいき混じりに断言した。
「え、どうしてですか?」
ソウヨウはすっかり、身分のことを忘れ去って言った。
ここ最近、色々なことがあって正攻法の妻問いが頭から除外されていたのだ。
「ギョクカンも滅びましたし、もう敵はいませんよ」
ソウヨウは言った。
ホウスウは大きく息を吸い込み
「お前は一生、花薔薇でも守っていろ!!」
と、怒鳴った。
エンジャクとモウキンは揃って、ためいきをついた。
建平三年。
皇帝の名の下に、天地 悉く平安になりぬ。
功を労われ、絲蒼鷹、大司馬を賜る。
大司馬 恐れ多きことながら、皇帝に奏す。
「天下 陛下の下 安らかになりぬ。
我が討つべき 敵は居らず。
我 いずくんぞ 大司馬に就けるや」
上 曰く
「花薔薇の守り人になるが良い」と。
故に、絲蒼鷹 守護者となりぬ。