The Gift 02
美術館が一通り見終わって、雰囲気の良さそうな喫茶店に入った。繋がれていた手は解かれる。これもいつものことだった。
座り心地の良さそうなソファに座りながら、BGMを耳を澄ます。古典的なクラシックが静かに流れていた。個人店なのだろうか、間隔が開けられた座席は常連客らしい人物たちが、ゆったりとした時間を過ごしていた。
こういう時の《黄昏》は黙っている。メニューをめくって確認している。
「どうして、毎年、白なんだ?」
沈黙に耐えきれなくなって私から切り出した。
「白が嫌いなのか?」
メニューを見たまま《黄昏》が尋ねる。
「だったら今の仕事には就いていない。
その点に関しては《黄昏》には感謝している」
「あの時は、大変だったからな」
《黄昏》は微かに笑う。
「で、白の理由は?」
「俺の見立てが気に入らないのか?
似合うと思って選んでいるつもりなだけだ」
《黄昏》は顔を上げた。
「こんなに高い物を毎年もらっていると知られたら……」
「稼ぐために仕事をしているわけじゃない。
消費するために仕事をしているんだ。
それに一年に一度の俺の誕生日だろう?
感謝しているのなら一日ぐらい付き合ってくれ」
《黄昏》が言う。
それから思案したような顔をして言葉を続ける。
「《shi》がバッサリと髪を切ったり、髪を染色したり、カラコンを入れたり、派手な化粧を始めたら考え直す」
「その手のことを禁じたのは《黄昏》だったと記憶している」
「だいぶ前の話だな。
……もう独り暮らしできるぐらい大人になったんだ。
価値観を変えてもかまわないと思うぞ。
今の仕事的には、髪を切ったり、ある程度までの染色なら許されているはずだろう?」
《黄昏》は失笑する。
「何故だかわからないが、その手のことをしようとすると注意される」
「だろうな。
そこまで長い髪を切るのは嫌がる人物が大多数だ。
しかも一度も染色したことがない。
それを知っている者は止めるだろうな」
「《黄昏》も大多数なんだな」
私は感心する。《黄昏》が本質がどれだけドライであろうと、私よりも社会的なのは間違いないようだ。大多数であることを願っている。私とて群衆に紛れたいからこそ、そうありたいと日々願っているので、この調子だと現状維持になりそうだった。
「当然だろう?
そうだなぁ。《shi》の価値観を変えるような男ができたら、やめるさ」
《黄昏》は言う。
「『結婚』なら申し込まれた」
「いつ?」
《黄昏》は驚いたように尋ねる。
「《黄昏》がログインしていない時」
「ああ、なるほど。
どうせ暇つぶしに遊んでいたんだろう?
ずいぶんと気を持たせたな。
今月に入ってから何件目だ?」
《黄昏》が半分納得したように、質問した。質問というよりも確認だろうか。あいかわらず心配性だ。
「数えていないからわからない。
《グングニル》なら知っているかもしれない」
「一人で対処できたのか?」
「かなり食い下がられた。
だから運営にメールをしておいた。
気に入っているゲームだからやめたくはないんだが、悩んでいる」
私は正直に話した。
「『結婚』にメリットがないわけじゃないだろう?
それに今時ネット恋愛も珍しくない。
気に入らない相手だったのか?」
「気に入ったら『結婚』するものなのか?
チャットする分には悪くはない相手だと思っていたが……個人情報を話すほどの相手だとは思えなかった」
「個人情報か。
ネットストーカーでもされたのか?」
「《黄昏》との関係を散々、問われた。
不愉快な一件だ」
何故、他者は介入してこようと思うのだろうか。インターネット上で個人情報を流失するのはデメリットだと思う。慎重なぐらいでちょうどいい。特に私と《黄昏》の関係は注意すべき点であろう。世間的にも大問題だと私ですら感じるのだから、インターネット上ではたやすく話せない。いつスクリーンショットを撮られて、拡散されるかわからない。もちろん私自身も不利益になることかもしれないが、《黄昏》の方が社会的損失は大きいだろう。少なくとも《黄昏》のいない場では語ってはいけない、と私は考えている。
「もうちょっと自分の立場を考えろよ。
どう考えてもヒーラーで、立ち回りが上手くて、親切にされたら思い上がるだろう」
《黄昏》は忠告めいたことを言う。怒るのとは違う。諭すという方が近いだろうか。おそらく私の将来のことを心配しているのだろう。常に《黄昏》は先回りをする。それだけ《黄昏》の方が人生経験が広く、知識が広いのだ。
「親切にした記憶はない」
私は断言する。
「……《shi》にとっては暇つぶしだろうが、普通は誘われたからってダンジョンに行ったり、辻でヒールをしたりはしないもんだ」
「最初に教えたのは《黄昏》だろ?」
「……ヒーラーは単独では育てづらいからな。
ある程度、立ち回らないとお荷物になる職業でもある」
《黄昏》は的確なことを言う。どこのオンラインゲームでもだいだいヒーラーという職業はそんなものだ。だからこそ重宝されていることも知っている。気がついたのはだいぶ大きくなってからだ。
「そんなに立ち回りがいいか?
上手というのなら《黄昏》の方が上手いだろう?
ダメージディラーで、単独狩りであそこまで経験値を稼いでるんだ。
ヒーラーよりもきつい職業だろう?」
私は事実を告げる。
「昔からやっているからな、そこそこ動けるだけだろう」
「そうか?
ギルドのメンバーは褒めていたと思うが?」
「本当に暇しているんだな。
オンラインゲームもいいが、たまにはリアルで遊んだらどうだ?」
《黄昏》は新しいことを提案する。
「間に合っている。
今の仕事が気に入っているし、リアルでも同世代に比べたら結婚願望は薄いようだ。
最近は学生時代の友人から結婚披露宴の出席を求められている」
「リアルで良い相手がいないのか?」
「友人によると理想が高すぎるらしい」
「……どんな話をしているんだ?」
「ごく普通のことだ。
私は大幅に常識知らずらしいから、その条件を飲める男性ならかまわらないと思っているんだが。
そういうのは理想が高い、と言われた」
「どうせ俺のことを基準にしただろう?」
「よくわかるな」
私は驚いた。
「その友人とやらには、話すだけか?
写真とか求められたか?」
「悪いと思ったがこの間の写真を使った。
私も映っていたことだしな」
《黄昏》の両親は実に《黄昏》を愛している。誕生日になる度に、外食をして、記念撮影する。その頭数に私も混ぜてもらっているのだが、いつまでその伝統は続くのだろうか。てっきり私が家を出た時点で呼ばれなくなると思っていたのだ。世話になっていると思う人たちから善意から頼まれるので断ることができずに、現在進行形になっている事態であった。
「世間一般でなんていうか知っているか?
そういうのを面食いと言うんだ」
「それは知らなかった。
人の美醜は理解を超える。
知ってのとおり芸能人ですら覚えられないからな。
好みのタイプを訊かれると困る。
で、何が問題なんだ?」
「一生独身だったら、うちの親が心配するだろう?」
「善良な人たちだと思うが、どうして『結婚』をしなければいけないんだ?
確かに、あの二人のような夫婦関係は、私の観点からしても素晴らしいと思うが……実践できるとは思えない。
失望はさせたくないとは思うのだが……こういう時は女性というのは不便だな。
出産を考えると、視野に入れなければならない年頃になったらしいからな」
私はためいきをついた。こればかりは性差を覆すことはできない。友人たちはみな口々に言う。それならば常識なのであろう。できるだけ社会に溶けこみたい私としては、話を合わせなくてはならない。罪悪感はあるが、それは私の感傷的な問題だ。
「子どもを産む気があったのか?」
《黄昏》が意外なことを言う。
「いや、ない。
むしろ私の場合、いくつかの障害が多いだろう。
良い親になれるとは思えないし、伴侶側に多大な迷惑をかけることになるだろう。
それは《黄昏》の方が詳しいだろう」
私は事実を告げる。私以上に私のことについて詳しい第三者だ。しかも、最も身近なというくくりをつかなければいけない。
「……まあ、それでも相手側が努力してくれれば、そこそこの家庭が築けると思うけどな」
「そんな男がどこにいるというのだ?
一般的にはムリだろう。
心配をしてくれるのはありがたいと思うが、そこまで私は同情される立場にあるのか?」
「普通は、な。
俺だって心配だ。
いつまでも面倒を見てやれるわけじゃないからな」
「そういう《黄昏》だって『結婚』しないじゃないか?
私よりも年をとっているのに。
この前、孫の顔が見たいと零してたぞ」
先だって実家、と呼んでいいのだろうか。そこへ荷物を取りに行った時に《黄昏》の両親から言われたのだ。親だったら当然の欲求だろう。私とはケースが違うのだ。たとえ《黄昏》の本質がドライであったとしても、社会一般的な親子から逸脱するような行動は慎むべきだと私は考える。
「年寄り扱いをされても困るんだが?」
「《グングニル》だって子どもがいるんだ。
同い年だろう?」
「あれは特殊。
結婚願望が強かったから、大学を卒業すると同時に籍を入れたぐらいだしな」
懐かしそうに《黄昏》は言う。
「《黄昏》だって人並みには結婚願望があるのではないのか?
両親のように、素晴らしい家庭を築きたいと思わないのか?
いい加減、私に構っていないで、結婚相手を探したらどうだ?
別に《黄昏》の見ていないところで死んだりはしない」
男性側の結婚は別段急がなくてはいけないものではないが、それでもある程度の年齢になったらしておくべきだと思う。少なくとも《黄昏》の社会人としての立場を考えると、独身でいるのはそろそろ咎められるかもしれない。もっとも私はネクタイを締めるような職業に就いていないので、想像の範疇にとどまる。
「めちゃくちゃ難題だな。
目を離した瞬間に男に絡まれるわ。
雨が降ったからって食事抜くどころか、水も飲まないとか。
心配の種を蒔き散らかしているだろうが」
「病院に連れて行かれた件は記憶に新しいが、いつ男に絡まれた?」
「いやゲームの中とはいえ、『結婚』してほしいと言われたんだろう?
あっちは本気だ」
「どういう基準だ?
顔を見たこともないし、チャットをしただけだ」
「多分、オフ会に行ったら、もっとモテるぞ」
「それは《グングニル》にも注意されたのだが、そんなに異性の目からして私は魅力的に見えるのだろうか?」
いまいち他者の考えることは理解できない。《黄昏》はためいき混じりに世間知らずだというし、《グングニル》は陽気に笑いながら注意をする。私よりもはるかに先に大人になった人たちが言うのだから間違いはないのだが、確信が持てない場所ではある。
「ヲタクが好む容貌だな。
しゃべらなければ、もっと一般受けすると思うぞ」
「……どこが?」
「ゲームしていて、根掘り葉掘り、俺との関係を訊かれたんだろう?
つまりは俺が排除できれば、恋愛したいと思われているんだよ。
しかも大量にな。
ちなみに、リアルでも変わらない」
《黄昏》は断言した。
「それは私の内面を知らないからだろう?
理解した上で受け止めてくれるような男がいるとは思えない」
「多分、今の格好で歩いていたらそこら中からナンパされると思うぞ」
「どうしてそんな恰好を贈りつけてくるんだ?
それこそ意味不明だろう?」
「一年に一回しかない楽しみだからな。
それなりに楽しまなければ面白くないだろう?」
「《黄昏》は男に絡まれる私が見たいのか?」
「俺の自己満足だよ。
しっかし、そんなに絡まているのか。
厄介だな」
《黄昏》がためいきをついた。
「やはり、今のゲームをやめた方が良いのだろうか?
また一から育てるのは暇つぶしにはいいが」
「またヒーラーやるなら悪化するだけだぞ」
「どういう意味だ?」
「今は俺や《グングニル》がいるから声をかけられないだけで、一人で遊んでいたら、もっと声をかけてくる連中が増えるだろうな。
どうせ女性のヒーラーにして、キャラメイクも、選ぶファッションも変わらないだろう?」
「問題があるのか?」
「ある種の男の願望を体現しているからな。
まあ、リアルでも変わらないが。
わかりやすく言えば、清純で、清楚で、大人しくて、可憐で、無垢なイメージを異性に与えるんだ。
ギャルゲーで言うなら年下の後輩だな。
思わず守ってやりたくなるタイプだ。
しかも謙虚で、控えめで、行儀正しい、男にたかるタイプでもない」
「見た目に関しては私が保守的なだけだ。
他のキャラクターには迷惑をかけてはいけない。
オンラインゲームを始める際に《黄昏》が教えた最低限のマナーだろう?」
「正直、途中で飽きると思っていたからな……」
《黄昏》は言った。
オンラインゲームというのはどのゲームをやっていても単調なものだ。一応の世界観が与えられているが、やることは変化に乏しい。来る日も来る日も同じことをくりかえす。そのことに飽きてどれだけ課金していても引退する者も少なくない。実際、私も見送る立場であった。何度もチャットを交わしたメンバーが去っていくのを体験している。
「それはこちらのセリフだ」
「何が?」
「これだ。毎年、贈られてくる白い大きな箱だ。いつになったら飽きるんだ?」
《グングニル》にすら話したことがない二人の大きな秘密だ。誕生月なのだから多少のわがままは許されるとは思っていたし、当人からの希望だ。さすがに断りづらく、続いている習慣だ。
訊くつもりはなかった。けれども私は訊いてしまった。覆水盆に返らず、とはこういうことを指すのだろう。いつになく感情的になっているのに気がつかされる。答えなど知らない方がいいことは世の中にはたくさんある。このことは《黄昏》と私の関係性の破綻になるような予感がして、今まで訊かなかったのだ。
「今のところ予定はない」
《黄昏》は微苦笑する。ということは来年も贈られてくるのだろうか。疑問に思ったが、私は確認することをためらった。
その後、《黄昏》は手を軽くあげて、店員を呼ぶ。いくつかの食事と飲み物を注文するとメニュー表を一冊だけ残す。いつもの癖だ。私と食事をする時は常にそうである。
ほどなくて紅茶がポットで運ばれてくる。砂時計付きだ。ということは喫茶店は珍しい部類に入るのだろう。私は家でしているように砂時計をひっくり返す。サラサラと砂が細いガラスの管を通って行く。アナログであっても時間が見えているようで、好ましく感じる部類の一つだ。砂が落ち切ったところで、カップ&ソーサーに紅茶を注ぐ。香りと水色から高価なものだと知れた。普段は飲むものではない。それに《黄昏》は紅茶派ではない。実家にいる時や私の家にいる時は飲むが、普段は缶ビールを愛飲している。昼間ならばミネラルウォーターやコーヒーといったものを口にしているはずだ。
「紅茶は嫌いになったか?」
《黄昏》は尋ねる。
「好きなものの一つだが……今日は《黄昏》の誕生祝いだろう?」
私は疑問をぶつける。
「だから俺のやりたいようにやっているだけだ」
気負いもせずに《黄昏》は答えた。
私にはよくわからない感覚だ。世間一般の常識からズレていると自覚を持つようになった私でも、この誕生月の習慣だけは馴染めなさそうにない。あまりにも逸脱しすぎだと思う。
私は紅茶を口に運ぶ。良い香りがして、口の中に渋くすぎることはない、甘いフレーバーが広がる。砂糖を入れていないはずなのに、甘かった。そして高級品だということを再確認する。
紅茶は《黄昏》の母から教えてもらってから好きになったものの一つだ。《黄昏》にとって家庭を思い出させるような味わいなのだろうか。テーブルを挟んだ向こう側の《黄昏》はそれなりに楽しんでいるように見えた。だったら口に出すのは野暮というものだろう。
紅茶を一杯、飲み干している間に料理が運ばれてくる。店員が丁寧な説意をしていく。私は常に持ち歩いているメモ帳とボールペンで、それを書き記す。《黄昏》の選ぶ店に外れはないからだ。完全な再現は難しいだろうが、食材やレシピを知れば助けるになる。私は記憶力が良いといえないために紙に書き記し、何度も再確認する必要があった。一度見れば覚えてしまう《黄昏》とは違うのだ。私のこの習慣を好まない人間も多いが、黙殺されるか、気にされないような店を《黄昏》は選んでくれている。
気遣いあふれた家庭で育ったせいか、《黄昏》は栄養学的な検知からいっても素晴らしい店を選ぶ。そして量も私にちょうどいい。成人男性には物足りない量であろう。だからこそメニュー表を一冊残すのだ。甘党な部類に入る《黄昏》は決まってケーキ類を選択する。季節限定というのは、どの店によっても誘惑の強い物だろう。食べ終わった皿は気の利いた店員が下げていった。バッシングと呼ばれるそれは《黄昏》並みに優雅であった。《黄昏》は空いたテーブルにメニュー表を広げる。自分が見たいということもあるだろうが、私にも見せるのだ。ケーキ一つを完食できる胃袋を持っていないことは《黄昏》だと知っている。私が《黄昏》と外で食事をするようになってからの習慣だ。《黄昏》の両親も知っている。そして止めたりはしないのだ。
「どれがいい?」
当たり前のように《黄昏》が尋ねる。そこには定番ケーキと季節限定のケーキの写真が行儀よく並んでいる。
「《黄昏》に任せる。初めての店だからな」
私は答えた。いつも連れ行かれる店なら迷わずに期間限定を選んでいたことだろう。
《黄昏》はメニュー表を閉じるとケーキを二つ、頼んだ。この店に来る前から決めていたのだろう。インターネットで検索すれば、あっという間に口コミで評価されるし、そういった情報を集めるのは《黄昏》の得意とするところだろう。
ほどなくレアチーズケーキと期間限定のフルーツタルトが運ばれてきた。そしていつものように《黄昏》は私の前に置く。私は姫フォークを手に取り、一口にちょうど良いサイズを削り取る。どちらも美味しかった。難点があるとすれば、タルト生地が硬かったことぐらいだろうか。あまり上手に食べられない私のせいで、ほんの少しばかり皿にタルト生地が散らかってしまった。せっかく作ってくれた人に悪いと思う。綺麗に食べられなかった。そんなことは十も承知な《黄昏》はそれを取り上げていく。
私はメモ帳やボールペンをしまい、代わりにピルケースを出す。店員がケーキの時に注ぎだしてくれた氷の入った水で白い錠剤を飲む。薬自体は無味無臭だ。だが種類の方は多い。これでもだいぶ減ってきたのだが、飲み続けなければならない薬というものはある。私が私として生きていくための薬だと知っているから、きちんと飲む。それに全部飲み終わるまで、監視するように《黄昏》が見続けるのだ。習い性というものだろうか。これは《黄昏》と初めて病院に行った時から変わらない姿勢だ。責任感が強すぎると思うが、何回か幼かった私が致命的な失敗をしているので仕方がないことだろう。私は薬を飲み終わるとピルケースを小さな肩掛けカバンにしまう。
《黄昏》の意識がケーキに向かう。誕生日はケーキがつきもののだそうだ。すでにケーキを食べているはずだが、まあ誕生月は終わっていない。
ポットの中にはぬるくなった紅茶が残っていたので、カップに注ぐ。薬は水で飲むものだ、という意識が強いので水で飲んだが、その直後にカフェインをとってもいいのだろうか。たまに思うが、《黄昏》が注意しないということはかまわないのだろう。
静かなクラシックに耳を傾ける。誰もが知っているような定番曲だし、指揮者も有名人だろう。区分としてはバロック音楽だ。音楽家はベートーベン、モーツァルト、ハイドン、シューベルト、バッハ。CM曲として良く使わる曲であり、音楽の授業で知らない者はいないだろう。私が良く知っている曲が流れ続ける。
携帯電話は鳴らない。電源を切っているのだから当然の結果だろう。私以上にインターネット依存症の《黄昏》であっても、今日ばかりは電源を切っている時間は長い。私と合流してから、私の家まで見送っていくまで決して電源を入れないのだ。私もそれにならって電源を切っている。
《黄昏》を知っている者がいたら異常事態なのだが、どうしているのだろうか。密に連絡を取っているはずの《グングニル》ですらこの習慣には口に出さないらしい。もっとも文句は言うようだが。数年前に直接《グングニル》から頼まれて《黄昏》に伝えたが無視された。誰しもこだわりというものはあるものだ。大切な聖域なのだから口に出すのは良い趣味とは言えないだろう。
食事が終わると、《黄昏》は自然と伝票を取り、さっさと会計を済ませてしまう。スマートな対応、ということだろう。ごく普通の女性であったら、紳士的な態度にときめく場面らしい。少なくとも私の友人たちは羨ましがっていた。ということは私も喜んだ方が良いのだろうか。就職して初めて給料の入った時は今までの感謝としてプレゼントを受け取ってもらえたが、それだけだ。私と外出する時は《黄昏》は割り勘にすらしない。収入は《黄昏》の方が断然に多いが、常にそうである。私の家に食事をしに来る時も材料費と手間賃としてお金を払っていく。金払いの汚くない人間というのは貴重だと理解しているが、誕生祝いであっても変わらないのはどういうことだろうか。白い大きな箱と同じように訊いていはいけないことなのだろう。
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