守護


「司馬懿様って先代からずっと曹魏に仕えているんですよね」
 能天気な明るい声が尋ねる。
 青年にとっては、楽しくはない話題だった。
 立身出世を目指したわけではない。
 乱世で名を挙げたかったわけではない。
 父親がたまたま先代である曹操を推薦した結果、曹操は官位を得た。
 その礼代わりに、司馬家は仕官させられた。
 司馬懿もまたその才を買われて、無理やり曹操に召し抱えられることになったのだ。
 もっとも亡き兄ほど好ましい性格をしていたわけではなかった司馬懿は、早々と裏切り者の顔をしていると、首を切られそうになったのだが。
 すでに曹丕の教育係をしていたので、何故か曹丕に庇われて、現代に到る。
 嬉しくもないのに曹魏に仕え続けている。
 先代である曹操が亡くなり、曹魏は代替わりとしたというのに。
 このままな己の生命が尽きるまで、逃れそうにはなかった。
「私、ずっと司馬懿様を守っているつもりだったんです」
 は言った。
「護衛武将だったのだから、さほど外れてはいないだろう」
 司馬懿は言った。
 真夜よりも無欠な完全色の色の瞳は無心に司馬懿を見る。
「私が護衛武将に仕官する前から、司馬懿様は曹魏の軍師で武将でした。
 負け戦はなかったんですよね」
 は確認するように尋ねた。
「負けていたら、死んでいるわ」
 敗将に待つのは『死』だけだ。
 後続で救援が来る方が稀であろう。
 司馬懿自身が本国で献策をするのではなく、最前線で戦場に立つ戦なのだ。
 容易くは勝てない戦だ。
 負けたら被害は全滅という可愛らしい単語ではすまないだろう。
 全滅とは、部隊の構成員、つまり補給を含まない兵士たちの三割以上が喪われた数だ。
 残存兵力から部隊を再編成するなど、優秀な指揮官が残っていなければやっていられない。
 損壊が多すぎる。
「ずっと司馬懿様は曹魏を守ってきたんですね。
 だから、私って司馬懿様に守られていたんだな、って気がついたんです。
 今だって、こうやって生きているのも、司馬懿様が頑張っているからなんだ、って思ったら、司馬懿様ってスゴいなって思ったんです!」
 は嬉しそうに笑いながら言った。
「守ったつもりはない。
 ついでやおまけのようなものだ。
 私は自分の生命が惜しかっただけだ」
 司馬懿はから視線を逸らして、否定をした。
「それってやっぱりスゴいですよ。
 ついで、とか。
 おまけ、とか。
 司馬懿様にとっては、それぐらい簡単なことで、ずっとこの大地を守ってきたんですね。
 普通の人にはできませんよ♪」
 は力強く断言した。
 自己保身や利己的な発言を全肯定された。
 少女は調子の狂う存在だ。
 考えた方も価値観もまったく己とは異なる。
 誰にでも平等に熱を届けるような真夏の太陽のように。
 嫌でも確かめさせられる。
「普通か」
 司馬懿はそっと息を吐きだした。
 過去に描いた夢はありふれた平凡なものだったような気がする。
 戦火など知らずに、政治的な駆け引きなども知らず、すべて本の中の知識として、ただ青草のように凡庸に生きていく。
 そんな甘いことを願えるような状況下ではなくなった。
 父親が乱世の奸雄を見出してしまったために。
 それとも漢王朝が堕落したことが発端だったのか。
 徳が尽きて朝が変わるのは、いくらでもあったことだった。
 易姓革命。
 千年以上前の春秋時代からくりかえされてきた事柄だ。
 形骸化しているとはいえ、神話のように禅譲された曹魏は幸いであり、正当なる後継者であろう。
「できたら、普通になりたかったものだな」
 司馬懿は言った。
 三国鼎立している今、戦が終結するのが先か。
 己の生命が尽きるのが先か。
 天意は読めない。
「普通じゃない司馬懿様なんて想像ができませんよ」
 真昼の照明器具と呼ばれるほど明るい声が弾んで告げる。
「お前が普通の範疇から掛け離れているのだ。
 その価値観で、他人を巻きこむな」
 司馬懿は憮然と言った。
「巻きこんだつもりはありませんよ。
 だって司馬懿様は司馬懿様じゃないですか。
 私ひとりの力じゃ、どうにもできません。
 そういう司馬懿様だから、私は大好きなんです」
 は幸せそうに言った。