第五話 城主の息子イアスの秋
トントン。
4年ぶりに診療所のドアがノックされた。ファーベルルは本から顔を上げ、ためいきを飲み下した。
診療所のドアはいつでも開いていて、気軽に入ることができる。それはブロダ・ソディオの城館に住む者の常識だった。
秋風がドアを叩いただけ、ただの聞き間違い、ファーベルルは自分に言い訳しようとして……やめた。
「開いています」
ファーベルルは読みかけの本を閉じて言った。
が、ドアが開く様子はなかった。仕方なく治療師は腰を上げ、診療所のドアを開いた。
目に飛びこんできたのは、鮮やかな色づいた秋薔薇。
季節が巡り、色に深みが増して、香りも強くなったものだ。
「16歳の誕生日おめでとう」
「イアス様」
4年分、年を重ねた青年がいた。
そう変わらなかった背丈は、頭ひとつ分は違う。
リネが言ったように立派な若者になっていた。
泣き虫だった面影は見つけられない。
「わたしは130歳です」
ファーベルルは訂正した。
「130年間、ありがとう。
君たちの一族に、私たちは助けられた」
イアスは笑顔で赤い薔薇の花束をファーベルルに押しつける。
「もう必要がない、ということですか?」
視線を落として少女は確認した。
スプラル平野に流れ着いたファーベルル一族。
その知識をマシュー川の岸に住まう人々のために使うという約束で、定住をようやく許された。
祖先のように、また流れていくのだろうか。
安住の地を見つけられると信じて。
今度は独りぼっちで。
少女は悲しく思った。
「父とよく話し合ったんだ。
ファーベルルの知識は素晴らしい。
それよりも素晴らしいことは、130年間誰ひとり約束を破らず、知識を悪用しなかったことだ。
それに時代も変わった。
病気には原因があって、それを取り除けば治る。
魔女が呪いをかけたからではない」
イアスは少女に花束を持たせる。
少女は顔を上げた。
イレーヌとイアスはよく似た姉弟だ。
柔らかそうな金色の髪も、輝かしいサファイヤの瞳も。
皮膚が薄く、抜けるように透明感のある白い肌も。
少女と持つ色合いとはかけ離れている。
それが寂しいと思い、悲しいと思う。
「君は自由になっていいんだ」
真剣にイアスは言った。
「この薔薇は美しいですね」
「気に入ってもらえたかな?」
人の好い青年は、照れたような笑う。
「花を蕾状態で摘み、よく乾燥させ、水から煮だしたお茶は、胃痛、腹痛に効きます。
より効果を求めるなら、すりつぶして粉末状に。
また生花独特の芳香には気鬱を払い、女性特有の病を緩和します」
少女は言葉を区切り、イアスを見上げる。
「わたしは花をもらっても、素直には喜べません。
それが130歳の意味です」
時代が変わっても、ファーベルルは変われなかった。
一族は、最後の一人になるであろう子どもに、普通の生き方を教えられなかった。
誰ひとり、ごく普通の生き方を知らなかったのだから、当然だろう。
そして、流浪の一族の名前は、そのまま少女の名前になった。
少女はファーベルルそのものだった。
「私の目には、君は意地っ張りで、寂しがり屋の16歳の女の子に見えるよ」
イアスは言った。
「わたしはここにいたいんです。どこにも行きたくありません」
「うん。だから自由でいいんだよ。
いたいなら、ずっといていい。
マシュー川を子守唄に育った娘たちが、スプラル平野を離れていくときは、強く望まれて嫁に行くときだけというだろう?
だから、好きな人ができたなら、姉さんみたいに、君もここを離れて行ってもいいんだよ」
二歳だけ年上の幼なじみの若君は微笑んだ。
それは極上の笑顔で。
新しい約束……契約だった。
ファーベルルは……一族の名を受け継いで16歳になった少女は目が潤むのを感じた。
ずっとここにいたい、という願いが叶った。
誰からも追い立てられずに、怯えずに、自分の意思で……このスプラル平野で「自由」にいられるのだ。
「ありがとうございます」
少女は涙をこらえて礼を告げた。
精いっぱいの気持ちを込めて。
ブロダ・ソディオ卿の城館の隣の診療所には、今も治療師が住み込んでいる。
尊敬と親愛から、腕のいい治療師は『スプラルの白い魔女』と呼ばれている。