第二話 城主の娘イレーヌの冬


 スプラル平野を縦断するマシァー川。その川岸にはブロダ・ソディオ卿の城館がある。
 百年前の大戦にも陥落しなかったというご自慢の城館は、王都で見られるような美麗なものとは異なるたたずまい。堅牢な砦そのもの。
 その城館に守られるように一階建ての家が建っている。百年の歳月で洗い流されなかった砦が間近にあるためか、家はたいそう小さく見える。城館の付属品のような家は、今は住み込みの治療師がいる診療所となっている。

「ファーベルル! いらっしゃる?」
 診療所のドアが大きく開き、冷たい強風と共に花のように愛らしい女性が入ってきた。
 優しい赤のドレスをまとったイレーヌ嬢は、治療師が口を開く前に泣き出した。
 正しくは泣きながら、診療所に入ってきたのだった。
「私たちお友だちよね」
 イレーヌはファーベルルの手をしっかりとつかんだ。
 氷水のように冷たい手に女治療師は眉をひそめた。
「今、お茶を淹れます」
「お茶なんて、どうでもいいわ!」
 サファイヤのような美しい大きな瞳に涙をたたえて、ブロダ・ソディオの宝物は言う。
「いえ。よくありません。
 お話は伺います。どうぞ、おかけになられてください」
 ファーベルルはイレーヌの手をやんわりと払うと、椅子を示した。
「どうすれば良いのかしら? 助けてくださる?」
 甲高い声でイレーヌは言う。
「どうぞ、席へ」
 ファーベルルと呼ばれる女治療師は根気よく促す。
「大変なのです!」
 柔らかな金色の髪を揺らしてイレーヌは必死に言う。
 妙齢の乙女だというのに、そうして懸命に訴える姿は成人を迎える前の少女のようだった。
「……イレーヌ嬢」
「ただのイレーヌでいいわ。私たちお友だちですもの」
「オレンジとレモンは、どちらがお好きですか?」
 ためいきをこらえてファーベルルは尋ねた。
「え? そうね……」
 イレーヌは椅子に体を預け、小首をかしげた。
 ファーベルルは棚から中ぐらいの鉢を一つ取る。
 天井から吊るされた香草や壷にしまわれた粉薬を鉢に入れていく。 
「レモンかしら?」
 イレーヌの言葉に、ファーベルルはレモンの皮を干して砕いたものを、鉢の中に入れた。
 かまどにかけられたままの金属製の鍋から、湯をすくい、陶製のポットにこせば香草茶の完成だ。
 来客用のカップに香草茶を注ぐ。
「どうぞ」
「ありがとう、ファーベルル」
 カップを包みこむように持つと、イレーヌは花が綻ぶように微笑んだ。
「いえ、感謝には及びません。仕事のうちです」
 治療師は中断していた作業に戻る。
 日が昇りきる前に摘んだ草を葉と茎と根に分ける。それぞれ用途が異なり、保存方法も違う。毎日、毎月、毎年くりかえしてきた作業だった。
「ファーベルル、私はどうすればよろしいのかしら?」
「何があったのですか?」
「私はスプラル平野を愛しているのよ」
「ええ、存じております」
「マシュー川の水音を子守唄に育ったのよ」
「そうでしょう」
「それなのに、今更ここを離れるなんて!!」
 イレーヌは金切り声を上げた。
 澄んだ声は鋭く冬空を切り裂くようだった。
「ご夫君になられる方にはお会いになられたのですか?」
 ファーベルルは冷静に尋ねる。
「まさか! って、ファーベルル、あなたもご存知なのですか? 私が結婚することを!!」
「マシュー川を子守唄に育った娘たちが、スプラル平野を離れていくときは、強く望まれて嫁に行くときだけ。
 この百年、そうでした」
 治療師は手を止めた。
「ファーベルル。何でもご存知なのですね。
 夫になられる方には、まだお会いしていませんわ。結婚も、まだ先の話です。
 ですが、準備をしておくようにと、父が言いましたの。私はどうすれば良いのか、と途方にくれてしまいました」
 イレーヌはためいきをついた。来客用のカップは空になっていた。
「お気持ちのままに」
「嫌な方だったら逃げてきても平気かしら?」
 緊張した面持ちでイレーヌは告げた。カップを握る細い指が小刻みに揺れている。
「もちろんです、イレーヌ嬢」
「大丈夫かしら?」
 独り言のようなつぶやきに
「大丈夫です」
 ファーベルルはうなずいた。空になったまま本来の用途を忘れられかけていた来客用カップを、そっと取り上げる。
 ブロダ・ソディオの宝物は大きな瞳で治療師を見上げる。
「おかわりを」
「ああ、ごめんなさい」
 イレーヌはカップから手を離した。
「お気になさらずに。
 話は変わりますが新しい美容液はどうでしたか?」
 治療師は己の職分を尋ねる。
「肌のかゆみがおさまったわ。赤みも減ったような気がするの」
 イレーヌは自分の手の甲にふれ、頬にふれる。
 陶器のように滑らかなすべらかで白い肌にあった発疹は減っていた。
 薬の効果が出たようだった。
 感情豊かなブロダ・ソディオの宝物は薄い皮膚のせいか、荒れやすい。
 特にこの春が訪れる間近ともなれば。
「では、何か良い香りをつけましょう」
「次のものは香りつきなのね。素敵ね」
 イレーヌはにっこりと笑った。
 その笑顔はこれからやってくる春の陽光のように輝いていて、ファーベルルには眩しすぎた。
 きっと幸福な花嫁になって、スプラル平野を出ていくのだろう。
 子守唄だったマシュー川から離れて。
 友だちと呼んでくれる女性がそうであれば羨ましい、と思う。
 もっとも、ファーベルルはこの地から離れる気はまったくなかった。
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