第一話 彼女は『魔女』


 幼い女の子がひとりで深い森に入っていく。
 暗い森の中でも目立つ白いフードを目深に被りながら。
 何度も見るものだから、イアスも気になり始めた。

 ここはスプラル平野を縦断するマシュー川の程近く。
 岸辺には父であるブロダ・ソディオの城館があった。
 その城館の片隅にある小さな家に幼い少女は帰ってくる。
 女の子と遊ぶのは軟弱者がすることだとイアスは言われ続け、跡継ぎとして勉学に励んでいたものだから、接点はない。
 イアス自身が他人に強く意思表示ができない性格なのも手伝っていることだった。

 幼い女の子がたびたび立ち入る森にイアスも入ることになった。
 矢筒を背負い、自分の手にあった弓を持って。
 狩りの練習のためだった。
 イアスは人を傷つけるのも苦手なら、動物を傷つけるのも苦手だった。
 もちろん食卓に並ぶ肉料理は優れた狩人たちが仕留めた獲物だと知っている。
 あるいは城館近くで飼われている家畜だとも知っている。
 ただ遊興のような狩りで傷つける、となると自然と足が重くなる。
 生を繋ぐために、感謝して、その命を食べるために、森に入るわけではないのだから、気が滅入ってくる。
 イアスがそんな調子だから狐どころか、兎すら仕留められない。
 一緒についてきた使用人も呆れるぐらいに成果のないまま、夕方が差し迫っていた。
 そんな折に白いフードをまとった小さな影を見た。
 大きな籠を持って迷わず歩いている。

 悪戯な風が吹いた。

 森の枝を揺らして、葉たちは大きな音を立てる。
 動物たちが逃げ出すどころか、普段のイアスだったら心臓が飛び上がっていたことだろう。
 けれども、違った意味でイアスの心臓は高鳴った。
 白いフードが外れ、幼い女の子の容貌が明らかになった。
 スプラル平野では珍しい黒髪。
 茶色に近い黒髪ぐらいまではいるけれども、月のない夜のような純粋な黒髪は人目を引く。
 肌の色はやや黄みがかった象牙色をしていた。
 子兎が警戒するようにこちらを一瞬見た瞳の色も黒。
 幼い女の子は慌てて、白いフードを目深に被る。
 そしてもっと森の奥の方へと進んで行った。

「彼女は?」
 イアスは使用人に尋ねる。
「坊ちゃんも男だね。
 ファーベルルが気になるなんて」
 陽気な使用人は笑いを含んだような声で言った。
「ファーベルル?
 それがあの子の名前なの?」
 かなり変わった名前だった。
 まるで記号みたいな。
 スプラル平野で話されている言葉には近い響きの言葉はなかった。
 勉強として習っている他の地域の言葉にも、まだ出てきていない。
 遠い異国の名前だろうか。
 一体、どんな意味があるのか。
 イアスは気になった。
「名前みたいなもんだな。
 ファーベルルはファーベルルだ。
 120年以上前から決まっていることだ。
 このスプラル平野で知らない者はいない」
 使用人は言った。
「僕は初めて知ったんだけど」
 イアスは唇を尖らせる。
 勉強をしろ。
 見分を広げろ。
 そう父であるブロダ・ソディオだって言うのに、みんな肝心なところで秘密主義だ。
 120年以上前から決まっている、のに今まで知らなかったのは、仲間外れにされていた気分だった。
「ファーベルルはいつも独りなの?」
「そりゃあ、魔女だからな。
 坊ちゃんの父君やその前からの約束で、ファーベルルはここで生きていける。
 外に出たら……殺される運命だ」
 陽気な使用人であっても語尾は囁くように小さくなった。
「あんな可愛い子が!?」
 イアスは驚く。
「坊ちゃん、もしかして惚れたのか?
 魔女は俺たちと違って人間じゃない。
 人間の男に惚れ薬を作ってたぶらかしても、子どもは悪魔だ。
 托卵という言葉を知ってますか?」
「鳥のカッコウがする行動だろう?」
 イアスは習い覚えたばかりのことを言う。
「魔女は悪魔と契って子どもを作る。
 そもそもまったく違う生き物なんだ。
 だからこそ、外の世界では魔女狩りが行われている。
 坊ちゃんも必要以上に近づかない方がいい。
 スプラル平野を継ぐのは坊ちゃんなんだから」
 陽気な使用人は大真面目な顔をして言った。
「……僕は仲良くしたい」
 スプラル平野では珍しい外見と名前の女の子だったけど、悪いものだと思えなかった。
 魔女なんて言葉は似合わなかった。
 それにまだあんな幼い女の子なのだ。
 姉のイレーヌと同じ歳ぐらいか、それよりも幼くて自分と同じ歳ぐらいか。
 それなのにいつでも独りぼっちなのはかわいそうだとイアスは思った。
「必要以上、って言っただろう?
 魔女にだってルールはあるのさ。
 お互いに干渉しあわないし、慣れ合わない。
 関わりあわないのさ。
 それが嫌なら、父君に頼んでみるんだな。
 こっぴどく怒られるのが目に見えてるけどな」
 陽気な使用人は肩をすくめた。
 イアスは夜も近いというのに森の奥に消えて行った小さな女の子の名前を胸に刻む。
 いつか、仲良くなりたいと。
 120年も独りぼっちなら友だちになって色々なことを話したり、一緒におやつを食べたい、と。
 そして少女を明るい場所に連れ出したい。
 こんな陰気な森の中ではなく、明るいマシュー川のすぐ傍まで。
 10にも満たない少年はそんなことを思った。
 それはいつの日か祈りから願いになり、形になる――。
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