第八十一章
皇帝が皇太后の見舞いに向かうのは珍しいことではなかった。
公主の『失せ物探し』の遊びを始めたのも珍しいことではなかった。
失せ物は婚約者である大司馬が預かっているのだろう。
遊びと知っているか、どうかは五分五分。
姫に頼まれて断るような青年ではないから、肌身離さず持ち歩いている可能性が高い。
というところまでヒエンは考え、急にできた暇をどうするか考えていた。
失せ物を探している振りをしなければならない。
程よい頃に、姫のところへ戻って……
「メイワ、こちらだ」
内宮にほど近い場所まで歩いてきたのが失敗だったのか。
ヒエンの小さい体は回廊から、薄暗い室内に引きずりこまれた。
琴の弦が恥じて糸を切ると言われるような麗しい声と南渡りの香木の香りがなかったら、悲鳴を上げるなり、抵抗するなりの努力をしただろう。
「誤解されます。よろしいのですか?」
ヒエンは言った。
使われていない部屋は、掃除が行き届いているのにどこか埃が舞っているような淀んだ空気が充満していた。
窓からわずかに見える明かりが心細さを強調するようだった。
「冷静な判断だな、安心した」
ホウスウはそう言うと、ヒエンを開放した。
飛一族の気まぐれを起こしたのだろうか、とヒエンは皇帝に向き直る。
幼なじみと呼んでも差し支えのない男性は、いつものようにつかみどころのない表情を浮かべていた。
「内密に頼みたいことがある」
ホウスウは単刀直入で言った。
「わかりました」
ヒエンは即答した。
穏当な打診なしの依頼には、断る権利は含まれてはいないだろう。
妹想いの皇帝陛下が、十六夜公主にとって不利益になることをするとは思えない。
それならば公主の仕える奥侍女としての選択肢は一つしかなかった。
「メイワは話が早くて助かる。
鷲居城にいる侍女、女官の中に間者がいないか調べて欲しいのだ」
さらりとホウスウは言った。
「何が起こっているのですか?」
家名を背負って仕えている奥侍女は、みな間者のようなものだった。
実家が有利になるように、みな振舞っている。
手紙や帰宅を許されているような侍女すべてが間者だとしても、おかしくはない。
それは目の前の男性は百も承知だろう。
その上であえて間者探しをするという。
「緑の瞳の、といえばわかるか?」
ホウスウは言った。
「そちらの方面ですか。
でしたら、私が最も怪しいのではないのでしょうか?」
新参者よりも古参のほうが間者としては怪しい。
近しいものほど、情報を集められるのだから。
ましてや自分は翔将軍の妻となった。
情報を横流ししようとすれば……そういう疑いをかけようとすればいくらでもかけられる。
「思うからこそ任せる。
自分であったら、どう動くか考えて欲しい」
「ずいぶんと信頼をいただいているのですね」
任されたものの重たさに、ヒエンはためいきをつきたくなった。
「私は妹の見る目を信じているだけだ。
破邪の姫君という綽名もあるそうだからな」
「まあ、ご自分の目は信頼できませんの?
皇帝陛下でいらっしゃられるのに」
現人神となっても万能にはなれないらしい。
ヒエンは微笑んだ。
「賭け事で十六夜に勝ったことがない。
いつでも天は十六夜の味方らしい。
自信のつきようがないと思わないか」
ホウスウは言った。
「お時間をいただけますか」
ヒエンはゆるゆると一礼をした。
◇◆◇◆◇
『失せ物探し』はちょうどよい口実になった。
誰もヒエンを気に留めず、大粒の紅玉をあしらった指輪を探している。
ヒエンは自室に戻ると紙にさらさらと名前を書きつけた。
ためいきを一つついてから、すでに侍女を辞めた者の名前も書く。
かつての同僚の名前、今も一緒に働いている女官の名前の上に特に怪しいと思う者に点を置く。
彼女たちは実家を大切にしていたり、己に課せられたものを必死になっているだけだ。
あるいは、とてもおしゃべり好きで人から好かれるか。
罪に問うにはかわいそうだと思うものの、時期が時期だ。
彼女たちは、安定に向かおうとしている時代の流れを乱す存在になっている。
厳しい処分がくだらないように祈るだけだ。
二つ年下の少女に心をこめて仕えると決めた日から、ヒエンの運命は決まったのだから、いまさら愚痴を言っても意味はないだろう。
紙が乾いたのを確認すると、小さく折りたたみ、衣の合わせ目に忍ばせる。
そして、あの部屋に向かった。
皇太后の見舞いが終わったのだろう。
ヒエンは待つというほどの時間を持たなかった。
「お待たせしました」
ヒエンは一礼して折りたたんだ紙を渡した。
「特にと思われる者には印をつけました」
「思い切りがいいな」
ホウスウは感心した。
「罪のないおしゃべりから大切な秘密が漏れるのは申し訳ございません。
どうか、穏便に」
ヒエンは曖昧な言い方をする。
誰かに立ち聞きされてもいいように。
『失せ者探し』中の女官が来ても違う方向に疑われるように。
「みな実家の名を背負っているのですから」
「十六夜に勘付かれるだろう。
家に戻ってもらうだけだ」
ホウスウは紙をしまう。