第八十章
都を朱鳳と定めた鳥陵皇帝ではあったが、月に一度は白鷹城に訪れた。
母后のご機嫌伺い、と表向きはされていた。
先祖への礼拝と共に、親孝行は何よりも善しとされた時代であり、土地柄であったため、相談役の太師は首をすくめ、宰相は複雑な顔で送り出す。
「あら、お兄さま。
今日もお母さまにはお会いできなかったの?」
昼が長くなってきた季節。
花薔薇と詠われる妹公主は、自分の私室でくつろいだ様子で微笑んだ。
百花の園にいても霞まぬ姿とは、詩人の妄想ではない。
フェイ・ホウチョウは、独特な美しさを持つ乙女であった。
エイハンの血を色濃く映しながらも、チョウリョウの血も宿す。
氷か、冬の月のように冴え冴えとした冷たい姿かたちで、無垢で飾り気のない振る舞いをする。
「ご加減がよろしくないようだ」
鳥陵皇帝は言い、自らの手で椅子を引いた。
人払いを頼んだわけでもないのだが、妹公主の部屋には侍女や女官の姿が見えない。
「ところで十六夜。
女官は、どうした?」
男はさりげなく、尋ねた。
「遊びに出したわ」
楽しげに乙女は告げる。
ホウスウは椅子に腰掛けると、卓に肘をついた。
「お兄さまからいただいた指輪が一つ、見つからないの。
大変でしょ?」
くすくすと笑いながら、ホウチョウは言った。
純美という言葉が似合うほど、混じりけのない笑顔だった。
「ソウヨウに預けたのか?」
夏官の長であり、白鷹城の城主であり、妹の婚約者。
緑の瞳を持った異民族の青年は、何一つ疑わずに鳥陵の公主の言葉に従う。
「……どうしてわかるのかしら。
お兄さまはつまらないわ」
「お前の頼みは何でも聞いてくれるだろう」
ホウスウは言った。
どんな悪事であろうと、ソウヨウはためらったりはしない。
ホウチョウを止めたりはしない。
乙女が望んだ、という事実こそ大切なのだ。
胸を張って自分の成し遂げたことを告げるだろう。
……幸せそうに。
「ええ、シャオはお兄さまとは違うもの」
「十六夜。
お前はこの国、唯一の公主だ」
「お兄さまに、娘がいないせいね」
「だが、この国の主ではない」
「知っているわ。
鳥陵はお兄さまのおもちゃ箱だってことぐらい」
ホウチョウは悪びれずに言う。
「上に立つ者は――」
「『礼然』の巻三なら暗唱できるわ」
「ホウチョウ!」
話の腰を折り続ける妹に苛立ち、ホウスウは名を呼んだ。
「お前がソウヨウに指輪を託したのは、かまわない。
私が贈った物だが、お前のためにあつらえた物ではない」
「お兄さま、最低。
嘘偽りでも良いから最後まで騙しておく部類のことだわ」
父に似た赤茶色の瞳がホウスウをにらむ。
「私に娘も妃もいないから、当然の帰結としてお前の元へ行った品だ。
第一、趣味が悪すぎるであろう。
お前にはあのような大粒の紅玉の指輪よりも、薄紅珊瑚をくりぬいて……そうだな、花の彫りをごく浅く入れたものが良いだろう。
幅は細く」
「お兄さまはシャオそっくりね。
烈兄さまとは大違い。
女の飾り物なんて、どれでも同じようなものなのに、そんなに真剣になって」
ホウチョウは不思議そうに言う。
小首を静かにかしげる様は、母に似ていた。
さらさらと流れる長い髪の色こそ違えど、記憶の中の母とそっくりであった。
「……お前にとっても、重要ではない指輪であったのだろう?」
ホウスウは言った。
「ええ。
細剣を握るにも、琴を弾くにも邪魔ですもの」
「何故、それを『無くした』と女官に言ったのだ?」
「正確には『どこかしら?』と呟いただけ」
「同じことだ」
「私は嘘をついていないわ。
失せ物遊びをするときの合図よ。
お兄さまだって知ってるでしょ?」
悪意がない。
注意を与えなければならない悪戯の類だが、心の底で折れてしまう。
どんなことであろうと、許してしまいたくなるのではなく、……許してしまうのだ。
胡蝶の君と呼ばれた乙女の魅力は、そこにある。
「女官はそう思わなかったのだろう?」
「そうね」
乙女は笑顔で言った。
ホウスウは額に指を当てる。
口が達者な妹に自覚を持たせるには、どうすればよいのか。
若き皇帝にはわからなかった。
「でもメイワは騙されなかったわ」
ホウチョウの言葉が終わった直後に、部屋の外で声がかかる。
「歓談中、失礼したします」
将軍の妻となっても、奥侍女として白鷹城に残ってくれた女性の声だ。
「入っていいわ」
ホウチョウは許可する。
目隠し用の衝立から現れたメイワは、茶器を載せた盆を持ち、竹細工の下げ籠を右手にかけていた。
奥侍女のお仕着せの衣をまとった女性は、主と皇帝に美しい一礼をする。
背がぴんと伸び、それでいて女性らしい柔らかさのある、ゆったりとした仕草であった。
微風すら立たない裾さばきで卓まで近づくと、さらに一礼する。
皇帝であるホウスウの前に茶碗を置き、その後、ホウチョウの前にも置く。
茶碗は蕩けるような白く丸みのある印象のもので、内側に藍ですっと線が描かれている。
竹籠からは揚げ菓子が出てくる。
小麦をごく細かくすりつぶしたものを水でよくこね、カラッと揚げてから、甘みのある雑穀を飾ったものだ。
裕福な商家で並ぶような、素朴な茶碗と菓子である。
「メイワも座る?」
ホウチョウは小首をかしげる。
「ご遠慮させていただきます。
何かご入用でしたらお呼びください。
隣で控えております」
メイワは一礼すると作法に則った美しい所作で、部屋を退出する。
朝露しか口にしないのでは、と噂される公主は丸い揚げ菓子に手を伸ばす。
「いつも、このような物を食べているのか?」
公主が食べるにしては質素なものだった。
贅沢三昧をされても困るものだが、食の細い妹なのだ。
些細なことで倒れない程度に、滋養のあるものを口にして欲しい。
「たまに、よ。
何ヶ月ぶりかしら?
お兄さまと食べようと思ったから、待ってたの。
本当は、私が起きる前にはできていたのよ」
ホウチョウは菓子を二つに切って、さらに三つに分ける。
それで菓子は、乙女の一口の大きさになる。
「兄上はこれがお好きだったな」
ホウスウも揚げ菓子を手に取る。
菓子はすでに冷めている。
保存の利く菓子のため、戦場に兵糧として送られることもあった。
「お父さまも、よ」
「そうだったな」
ホウスウは揚げ菓子を千切らず、そのままかぶりつく。
炒った雑穀はほのかに甘く、パサっとした小麦の生地部分は甘辛い。
「濃いな」
北寄りの味だった。
ホウスウには食感よりも、味付けのほうが馴染めない。
「同感だわ」
率直にホウチョウは言う。
紅がほどこされた短い爪が菓子を竹籠に戻す。
「指輪の話に戻すが」
「まだ覚えているの?」
「つい先刻まで話していた事柄だろう」
「そうね。
別に指輪じゃなくっても良かったのよ。
お気に入りの耳墜でも、手に入れたばかりの本でも。
何でも良かったの。
このお菓子を一緒に食べなくても、食べても。
どっちでも良かったの」
ホウチョウは微笑む。
赤茶色の瞳が男を見る。
兄弟の中で、ホウスウだけが持てなかった瞳が。
父親譲りの色の瞳が、静かに見つめる。
「お兄さまがかわいそうだから。
今日もお母さまに会えなかったのでしょう?
……離れて暮らしているのに、一月に一回なのに、会えないって。
悲しいことでしょう?」
「お加減が悪いなら、仕方がない。
それに、私はもう子どもではないからな」
「ねえ、お兄さま。
どうして、毎月この城に来るの?
お母さまには会えないのを知っているのに」
ホウチョウが尋ねる。
「それが孝行というものだ。
礼節を尽くすのは、当然の行いだからだ」
「誰かが言うわ。
まだお兄さまが戦をするつもりだって。
だから、シャオのいる城に来るって。
誰かが言うわ。
この城にはお兄さまの愛する方がいるって。
だから、供も少なくいらっしゃるって。
でも、両方、本当じゃないわ」
ホウチョウは無邪気な笑顔を消す。
水鏡のように凪いだ面。
淡い色の紅が塗られた唇が紡ぐ。
「お兄さまはお母さまに会わずにすむことを確認しに来るのよ。
だって、知りたくないことまで知ることになるから」
そうでしょう? と、ホウチョウは言った。
幼いと思っていた妹は、いくつになった?
成人して、今年の秋には夫を迎える。
それは、成熟したという意味だ。
身の丈や仕草通りではない。
「お兄さまはかわいそうだわ。
誰も信じられなくて、誰も味方がいなくて。
シャオよりもかわいそうだわ」
「十六夜。それはお前の思いこみだ。
私はこの国の皇帝で、信頼できる臣下に恵まれている」
裏切りは眠っていない。
不満がない国は存在しない。
怨嗟の声が出ないはずがない。
それでも、鳥陵は乗り越えていくのだ。
「華月も離れていったのに?」
ホウチョウはカイゲツ最後の総領の名を挙げる。
彩虹まで黒い瞳の少女は、ホウスウの理解者の一人だった。
「それは初めから決まっていたことだ」
男は言った。
カイゲツの民は、カイゲツに。
海があり、月の光が浴びれる場所に帰してやるのは、口に出さなかった約束だ。
今は鳥陵の一地域になったカイゲツの民が願い続けたことだ。
クニが滅ぶよりも、その総領が立ち去ってしまうこと。
自分の傍に、仰ぐべき存在がいないこと。
それが何よりも悲しく、辛い。
鳥陵の民となったカイゲツの民は泣き叫んだ。
民の嘆きは、子の嘆き。
親であるホウスウが無視してはいけないことだった。
「誰がお兄さまの心を埋めるの?
お兄さまは知りたくないのでしょう?
運命なんて言葉で片付けられてしまうような、事だから。
私は見つけたわ。
シャオを見つけたわ。
たくさん人がいたのよ。
名を呼ばれたわけじゃないのよ。
それでも、わかったの。
この手を二度と離しちゃいけないって」
ホウチョウは淡々と言った。
情熱的に夢見がちにささやかれるような話だというのに。
真剣な表情でいう。
それだけ重かったのだろう。
胡蝶のように夢を舞う乙女には、苦しいことだったのだろう。
「お前がソウヨウを愛しているのはわかっている。
もう二度と引き離したりはしない」
安心させるために、ホウスウは言った。
お膳立てされた運命だとしても、幼い二人は真実にしたのだ。
張り巡らされた罠であったとしても、そこに大切なものを見つけたのだ。
「違うわ。
愛してるんじゃない。
シャオは『特別』なの。
みんなとは違うの」
伝えきれない想いをもどかしく感じるのか、ホウチョウは言い募る。
「ああ、そうだな」
「だから、お兄さま。
翼夫人は幸せだって聞いたわ。
宰相も幸せだって、言っていたわ。
愛する人を伴侶に迎えるのは、悪いことではないのでしょう?」
「ソウヨウの出自は、お前が気に病むことではない。
色墓も鳥陵の一地域だ。
境界線もない」
平和になったのだ。
この国はこれから豊かになっていく。
肌の色や髪の色や瞳の色、話している言葉で区別されることなく。
一つの国として、ゆるくまとまっていくのだ。
「……お兄さま。
一つ嘘をつくと、たくさん嘘をつかなきゃいけなくなるのよ。
一つ誤魔化すと、たくさん誤魔化さなきゃいかなくなるのよ」
唐突すぎるぐらいホウチョウは話を変えた。
「正論だな。
だが、私はこれからも多くの嘘をつく。
仕事だからな」
「そうね。だから指輪のことは怒れないでしょ?」
「……そういわれると、返す言葉もないな」
ホウスウは苦笑した。
鳥陵の皇帝としての自分がいる限り、これからも嘘をつき続けるだろう。
父と兄が描いた夢の体現者として。
妹の他愛のない悪戯よりも、もっと大きく悪質な偽りだ。
「でしょう」
得意げにホウチョウは笑う。
ようやく、元のように笑顔を見せた。
ホウスウはためいきをつき、それから目を細めた。