第二十三章
「お嬢様。
今日は綺麗な月が出ておりますよ」
そう言って古くからこの家に仕える中年の女性が、木戸を開ける。
柔らかな光が、室内に入り込む。
それを見て、リョウジは眉をひそめた。
今年十二を数えた少女は、閉月羞花と言わしめるほどの美の片鱗を見せていた。
黄金色の髪はサラリと背を流れ、冥い青い瞳は星のごとく輝いている。日の光を浴びてもなお白い肌はシミ一つなく、しっとりとしている。
その美しさは衆目の認めるところだ。
「戸を閉めて」
リョウジは静かに言った。
「……月を見たくないの」
王家の小姐は悲しげに呟いた。
雨に打たれてしぼむ花のような風情であった。
「そうですか?」
残念そうに女性は戸を閉めた。
「美しい月ですよ」
諦めがたく、言う。
リョウジは床を見つめる。
月は、嫌い。
明るすぎる月は、大嫌い。
怖い。
思い出すたびに、震えが走る。
養父が楽師であれば、自然と月は欠かせぬものとなる。
管弦が映えるのはやはり月の夜であろうし、月を題材とした曲も多い。
この屋敷の者たちは、当然月を好んでいた。
リョウジも二年前まで、月の出ている夜が好きだった。
月のない夜は、どこか不安になったし、細い月は味気ないと思っていた。
しかし、今は月を見たくなかった。
「退ってちょうだい。
用があったら、呼ぶわ」
リョウジは言った。
「今日はお客様が多くいらしていて、これから小さな宴を開くそうですよ。
皆、楽にはうるさい方ばかりで。
お嬢様もお行きになられたら?
旦那様も是非にとおっしゃっていましたよ。
最近、人前で琴を披露なさっていませんでしょう?」
女性はニコニコと言った。
「今日は遠慮しておくわ。
お養父様によろしく伝えて」
「そうですか。
かしこまりました」
女性は丁寧にお辞儀をすると部屋を後にした。
リョウジは一人になると、部屋の片隅においてある琴にふれた。
一本摘まんで、放す。
音が空気に溶ける。
温かな音がはじけて、幅を残して、やがて消えた。
満月のたびに開かれる宴。
管弦に自信のある者たちばかりの宴は、刺激的な演奏が披露される。
拙い腕前のリョウジにとって、大変勉強になる場所だった。
出席しなくなって、もう二年。
月を見るのが怖くなったときから、ずっと宴に出ていない。
子どもじみたことだとはわかっている。
けれど、踏ん切りがつかない。
月が怖いのと同じ理由だ。
リョウジは違う弦を鳴らす。
僅かに高い音が、部屋を反響する。
きっと、この琴とて皆の前で思う存分歌いたいだろう。
リョウジには、勿体ないと思うぐらいの名琴であれば、その欲求は高まるばかりだ。
稚い少女の唇からためいきが零れる。
弦の余韻が消える前に、違う弦をはじく。
音と音が重なっていく。
途切れ、途切れに、琴をはじく。
次第に、それは曲になる。
一つの音が呼び水のように、次の音を呼ぶ。
音は重なり合い、新しい音になる。
白い手が琴の上を走る。
思うより前に、体が動く。
繰り返し練習したものだから、体に染み込んでいる。
音は、音という範疇から飛び出して、聞く者の情感に訴える。
少女の白い顔に、幸福にも似た満足感が浮かぶ。
リョウジは楽が好きだった。
楽の方も、同じぐらいに彼女を愛していたのだろうか。
少しでも、楽を親しむ者は彼女の音を聞いて絶望したであろう。自分では到底たどり着けない高みに、少女がすでに到達していることに気がついて。
素直な心を持つ者は、天の楽師が奏でる音は斯くのごときであろうと感じたであろう。
十二の少女が奏でているとは思えない、見事な楽であった。
宴を開いていたはずの大人たちも、夜風に紛れて微かに響く楽の音に耳を傾けた。
自分たちの楽器を床に置き、ある者は陶酔とし、ある者は涙した。
オウ・ユも己の養い子の才に感嘆した。
そんなことは、リョウジにとってはどうでもいいことであった。
彼女は楽が好きだった。
他人の評価のために奏でているわけではない。
好きだという思いが、弾かせるのだ。
その無欲さが、素晴らしい楽の糧であった。
リョウジは最後の一音をはじいた。
たっぷりと余韻が残る。
夜の空気に溶けていくそれを聴きながら、リョウジは笑った。
自分のものとは思えない満足のいく、音だった。
消えていくその瞬間まで味わいつくした。
そして、気がついた。
音ばかりに集中していたために、気がつくのに遅れた。
「誰!」
リョウジは震えながら、誰何した。
言ってから、後悔した。
一人しか、心当たりがいない。
違って欲しい、とどこかに救いを求めていたのかもしれない。
衝立の向こうから現れた青年を見て、リョウジはズルッと後ろにずり下がった。
「月の綺麗な夜だね」
親しげに青年は笑った。
月よりも美しい男だ。
心臓がわしづかみにされた。
恐れで体が震える。
「素晴らしい音色に、ふらふらと光に焦がれる夏の虫のように来てしまったよ」
青年は甘くささやく。
リョウジの琴の音の美しさなど微塵も残らないほど、ぞっとするほどの美しい声であった。
逃げなければ。
リョウジはバクバクする心臓をなだめながら思った。
この部屋の入り口は一つしかない。
男が立っているそこだけだ。
窓からは逃げられない。
ここは屋敷の三階なのだ。
こんなところから飛び降りたら一たまりもない。
男はリョウジの元までやってくると、膝をついた。
ふんわりと甘い香りが漂う。
逃げなければと思いながらも、体が強張って指の一本も動かせない。
ぎゅっと握っている拳を開いてしまったら、意識を手離してしまいそうだった。
「しばらく逢わないうちに、良い音を出せるようになったな」
男は言った。
青みの強い瞳が、リョウジを捕らえる。
息ができない。
稚い少女は震えながら、時の砂が落ちていく音を聞いた。
「リョウジ?」
心配げに青年は、名を呼んだ。
小さな体に、天啓が下る。
一瞬で、理解に至った。
その事実に、恐れ慄きながら、少女は受け入れた。
唇から、艶めいた吐息が零れる。
抑えきれなかった感情が、外に表れた。
リョウジは自然に微笑んだ。
「ハンチョウ様。
いくら私が幼子といえども、女人の部屋に夜分遅く立ち入るのは、殿御としてはいかがなものでしょうか?」
可愛らしい声がさえずる。
青年はパチパチと数度瞬きして、はじけるように笑った。
「それはそうだ。
礼を欠いたことは謝ろう。
しかし、素晴らしい楽を聞かされて、近寄るなというのは無理な注文だ。
あちらで楽をかき鳴らしていた者たちも手を止めてしまったよ」
笑いながら、青年は言った。
そう言われても、リョウジの心は満たされない。
他人の評価が欲しくて、弾いたわけではないのだ。
「実に、優れた楽だった」
ハンチョウは味わうように言った。
音を思いかえしているのだろうか。
瞳が細められる。
「褒められても私は嬉しくありません。
幾万の褒め言葉よりも、格別に思うのはただ一言の批評でございます。
お養父様の音に比べたら、私の音など路傍の石。
皆様方は稚い娘が弾いておりますゆえに、絶賛なさりますが、こう見えても楽師のつもりでございます。
それ相応の評価がいただきたい」
リョウジは言った。
「玉琴よりも、琴の音は上だと言っても信じてはくれないだろうね」
愉しげにハンチョウは言った。
「ええ。もちろんです」
リョウジは言った。
玉琴は養父の字。
ことに琴に優れた養父が時の皇帝に『珠玉のことよ』と称えられたことに由る。
「嘘ではない。
もし当代一の琴の楽師を挙げよと言われたら、今後リョウジの名を挙げよう」
ハンチョウはそう言うと、満足げに笑った。
その言葉に偽りがないことが感じ取れ、リョウジの心が躍った。
手離しの絶賛よりも、目の前の人物に認められたことが、思いのほかに嬉しい。
冥い瞳に涙がにじむ。
嬉しくて、このまま消えてしまいたい想いが身の内から湧いてくる。
これからも、琴を精進しよう。
この人の期待を裏切らないように。
リョウジは思った。
王家の小姐が、月を再び愛でるようになるのはもう少し経ってからのこと。
月が怖いと泣く子どもは、どこにもいないのだ。