第十八章

 フェイ・シユウがまだ若いときに臣下に降り、信頼を得た忠臣は、コウレツの御代となりますますの忠義を尽くした。
 その者の名はヨク・エンジャク。
 槍の使い手としては、今もってなおチョウリョウ一の武人である。
 老いてはますます盛んである。
 さて、エンジャクの屋敷はシキョ城の南。
 功臣たちの屋敷が並ぶ一角の中でも、端の方。
 つまりは庶民たちの家々が立ち並ぶ一帯に、川を挟んで隣り合っていた。
 エンジャクほどの武人であれば、城に程近い街の中心部に屋敷を持ったところで、誰も文句は言わないのだが、本人が「ここが良い」と言い張るので仕方がない。
 おかげでエンジャクの屋敷は貧困に苦しむ人たちがよく扉を叩いた。

 ヨク・エンジャクは朝の日課で、庭園を供もつけずに歩いていた。
 さして広いだけで何もない庭は、一刻もかけずに見て回れてしまう。
 梅林を回り、エンジャクはいつも通り屋敷に戻ろうとして。
 壮年の男性は、目をゴシゴシと拳でこすった。
 美しい女性が立っていた。
 秋の足音に色づいた庭の中、天女が佇んでいた。
 天から誤って落ちてきた。
 そう言われればうなずいてしまうほど、美しい。
 空気のような、澄んだ、清らかな、女性。
「助けていただけませんか?」
 天の楽師が奏でた楽はこうであろうか。
 美しい声が懇願した。
 何ともいえない双眸がエンジャクを見た。
 美女の手の平には、巣から落ちたのだろうか、雀が乗っていた。


 エンジャクは屋敷に連れ帰ると、あれやこれやと召し使いに指示を出した。
 困っている人間を見ると、放っておけないのだ。
 素性の知れない人間を屋敷に連れ込むなど、良識のある人間なら眉をひそめるところだが、エンジャクの屋敷の人間は幸か不幸か、慣れきってしまっていた。
 旦那様が得体の知れない人間に施しするのは「趣味」と、割り切っている人間ばかりのだ。
 しかし、この美女には召し使いたちも扱いに困ったようだった。
 男性物の、着古してはあるが、素晴らしい着物をまとう美女。
 チョウリョウでは地味とされる色合いではあったが、染めも、織りも、裾に施された刺繍も、さりげなく一級品であることを示していた。
 趣味が良すぎるのだ。
 美女を入浴させるという名目で、それをひん剥いてきた古参の侍女は旦那様に困り顔で告げた。
「貧民や、流れ者ならば、別にいつものことですが」
 ためいき混じりに、ジャッキは言った。
「名のある家のお嬢さんでしょうかね?」
「ああ、そうかもしれないが……」
 エンジャクは着物を手に取る。
 鶯茶の絹の着物。
 これほどまでの高級品。
 この渋い色合い。
 この着物をまとう人間はかなり絞られてくる。
 チョウリョウの民は老いも若きも鮮やかな色を好む。
 くすんだこのような色合いのものを好む……。
 一人だけ思い当たる若者がいた。
 その若者ならば、これほどの高級品を身につけていてもおかしくはないし、このような色合いを身にまとったとしても地味どころが品があるように見えるだろう。
 エンジャクは顔をしかめた。
 とんでもないものを拾ってしまったのかもしれない。
「どうなさいますか?」
 心配顔で、ジャッキが訊く。
「ああ。
 いつも通りに、もてなして欲しい。
 落ち着いたら、二、三問いたいことがあるからここに通してくれ」
「かしこまりました」
 慇懃にジャッキは一礼すると、退出した。
 書卓に肘をつくと、エンジャクはためいきをついた。


 一刻後。
 チョウリョウの年頃の乙女たちが好んでまとう衣に身を包んだ女性が、エンジャクの書斎にやってきた。
 華やかな衣よりも、先程の野暮ったい男物の着物の方が似合っていたような気がする。
 渋い色合いの方が、似合うのだろう。
 後で、言っておこうとエンジャクは思った。
「ありがとうございました」
 美女は床に膝を着くと、礼をした。
 叩頭礼だ。
 エンジャクから見ても仰々しい。華麗なる礼である。
 見るのは初めてではない。
 捕虜に捕らえられた武将が、盟主に引き合わされるとき大抵この礼を取った。
 自分に対して、されたのは初めてではあったが。
 エンジャクは驚いたが、女性の滑らかな動きに驚いたと言った方が正しい。
 その動きには何の卑屈さもなく、典雅であった。
 それだけ、この女性が叩頭礼をしなれているということだ。
「立ち上がって、椅子に腰掛けなさい。
 これでは、話ができない」
 エンジャクは苦笑いを浮かべた。
 女性はすっと立ち上がると、手近にあった椅子に腰をかけた。
 長い裳をすっと退いて、音もなく椅子に腰掛ける。
 ためいきが出るほどの美しい動作だ。
 宮廷の妃たちも羨むような、無駄がなく、洗練された立ち振る舞い。
 今日、明日で身につくものではない。
 生れ落ちたときからの厳しい鍛錬の賜物だ。
「名がないと不便だ。
 何と名乗る?」
 エンジャクは言った。
 女性がかなり訳ありだとわかったので、本当の名を知りたいとは思わない。
 通り名でも、愛称でも、偽名でもかまわない。
 そういうつもりで訊いた。
 女性はマジマジとエンジャクを見た。
 瞳が、綺麗な色だと感心した。
 チョウリョウの民が、いや鳥の名を冠する者が決して持ちえない色だということも、わかった。
 深い、森の奥の木々の葉よりも深い、緑の瞳だ。
「私は。
 シキボの絲一族を守る布の一族が娘、紅梨と申します」
 はっきりと名乗った。
 エンジャクはまたもやびっくりさせられた。
 何と、豪胆であろうか。
 澄んだ瞳が、エンジャクを見据えた。
 美しい乙女の心の中には、武士(もののふ)の魂が宿っている。
 エンジャクは笑った。
「なるほどな。
 美しい名前だ。
 しかし、ここでそんな名を名乗ればどうなるかは、知っているであろう?」
 シキボの布一族は、反逆者。
 飛一族を根絶やしにしようと、幾つもの計画を企て、失敗した。
 成人年齢に達した男子は全員、殺されたはず。
 チョウリョウの長に逆らった罪で。
「はい」
 娘はしゃんと背を伸ばして、返事をした。
「なるほど、なるほど。
 気に入った。
 今日から、私の娘になるといい。
 ヨクの家に相応しい。
 コウリという名も美しいが、何かと問題が出るであろうから。
 ヨク・コウジャクと名乗るが良い」
 翼・燕雀の、雀亭の娘、翼・紅雀。
 美しい響きだ。
 エンジャクの娘になったばかりの、女性は驚いてエンジャクを見た。
「誰がそなたをここに連れてきたか、何の企みがあったかは、わかるさ。
 乗ってやると言っているのだ。
 あの悪戯っ子が考えそうなこと。
 なかなか、面白いことになりそうだ」
 エンジャクは豪快に笑った。


 この日、エンジャクは娘を得た。
 計画を思いついた悪戯っ子が喜んだのは言うまでもない。
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