第百四章
史書曰く、
沖達は笛の名手である。と。
しかし、海月太守は一度たりとも文帝の前で、その腕前を披露したことがない。
史書にどこにも記述がなく、上記したことだけが、唐突に書かれているのだ。
管弦に精通していた文帝の前で、披露したことがないというのは、それほどの腕前ではなかったのだろうと、邪推してみたくなる。
彼は本当に、笛の名手だったのだろうか。
答えは、今のところ、どこにもない。
楽器というのはどんな楽器であっても、その人物の内面を表現してしまう。
同じ楽器を使っても、出す音色は人それぞれ。
同じ譜面を使っても、表現するものは各々違う。
華月の琴は、とにかく一生懸命だった。
覚束ない指先が、譜面を追いかけるので精一杯になっていた。
けれども、すでに個性が宿り始めている。
そう、一生懸命である、ということ。
物事に常に真摯であるということ。
少女の内面が照らし出されている。
それに添う笛の音は、実に豊かで饒舌だった。
竹の柔らかさを差し引いたとしても、とても優しく、激しかった。
見落としてはいけないのが、その笛は琴に対してとても『優しかった』。愛しむと言い換えても、おかしくはない。
そんな音色だった。
ホウチョウは二人の合奏を聴きながら、実に冷静に感想を抱いた。
直感的な部分が表面に出すぎているため、誤解を受けがちだが、ホウチョウは打算的かつ沈着な判断ができる一面も持つ。
ことに芸術方面に関すると、そちらの面が強く出るぐらいである。
彼女らしく、一言感想を述べるなら『面白くない』であった。
予想外なことは起きずに、順調そのものの宴。
それが、面白くなかった。
確かに、沖達は笛の名手だ。
兄よりも上手いぐらいだ。
どこか感性を置き去りにしてきた婚約者の正確すぎる音色よりも、情深い。
万人受けする音色だ。
隠す必要はどこにもなく、謙遜する理由もない。
ホウチョウは昼間のやりとりを思いだす。
「笛ですか?」
驚いたように海月太守は顔を上げた。
「持ち合わせがございません」
申し訳なさそうに沖達は言った。
「こちらで用意させるわ」
ホウチョウは微笑んだ。
「私のような音色は人様に聞かせるようなものではなく。
その、多分に耳障りかと思われます」
沖達はやんわりと辞退しようとしていた。
「私が聴いてみたいのよ。
気にしなくて良いわ」
ホウチョウはにっこりと言った。
「かしこまりました」
沖達はほんの一瞬、間を空けて、返事をした。
礼儀に則って、一度は断る。
実に海月太守らしい、物言いだったが、ホウチョウは気がついた。
何か、隠している。
彼は何かを警戒しているのだ。
そして、ホウチョウはそれが何だったかわかった。
二人の合奏を聴きながら、婚約者を見遣る。
いつも通り、穏やかな表情で公主の警護も兼ねて出入り口の辺りで控えている。
茶色とも緑ともつかない曖昧な色の瞳と、出会う。
ホウチョウはニコッと婚約者に笑いかける。
大司馬であり、計略の奇才と謳われる、白厳の君は、年頃の青年らしい笑顔でそれに答える。
考えてみれば、とても簡単なこと。
ホウチョウは上機嫌になった。
後日。
海月太守は皇帝から楽を望まれた。
皇帝の再三の願いを固辞した。
『陛下に聞かせられるような音ではございません』
それを、理由に。
皇帝は諦めず、一つの条件をつけた。
『では、三年の猶予をやろう。
その期間、精進するが良い。
三年後の笛の音を聴かせてもらおう』
何ゆえの、三年なのか。
周囲の者はいぶかしんだ。
答えは、三年後に出る。
そして、海月太守が固辞した理由はもっと早くわかる。
彼は笛の名手である。
陸よりも海での生活が長い海月の民なら、皆自然と笛の名手となる。
笛は海の女神に捧げる楽器である。
荒れ狂う波の中、笛の音を捧げれば、海の女神が無事陸に返してくれる。
海月ではそう信じられている。
月の女神の守護しか受けていない、海月太守は笛を精進した。
だから、彼は海月一の笛の名手になった。
海月太守の通り名『鉄鎚』は、彼が泳げないという揶揄も含まれているが、もう一つ意味がある。
彼は鉄扇の使い手であり、鉄笛の使い手である。
つまりは暗器(暗殺用の武器)の使い手である。
それゆえ、皇帝の前では笛を吹かなかったのだ。
暗器は隠してこそ、価値がある。
悟られたら無意味なのだ。
海月太守は皇帝の前では、決して笛を吹かなかった。