第九章
言われた通りに腕を伸ばす。
長い袖が揺れる。
一歩踏み出す。
裳がサラリと後を追う。
指先までピンと伸ばす。
気を抜かずに、それでいて優雅に。
ホウチョウは細身の剣を片手に舞う。
瑪瑙にも似た艶のある瞳は真剣そのもの。
唯一、許された武芸であったから。
読み書き、書に算術、天文まで娘に教えた破天荒な父ではあったが、剣術、槍術、棒術といった実戦に役に立つことは、ホウチョウに教えなかった。
むしろ禁じたぐらいであった。
だから、ホウチョウは一人で馬にも乗れないのだ。
さすがのホウチョウも、父の扱いに泣いて抗議した。
その当時、十歳であった。
兄たちと同じモノがやりたかったのだ。
しかし、願い叶わず……。
今、ホウチョウが握るのは細身の剣。
少女の体力と腕にあった、通常よりもしなやかで軽い剣。
それは舞の道具。
勝利を祈願するための儀礼用。
それが無二の許された武芸であった。
真剣なはずのそれが、宙を切る剣先が微妙に鈍る。
少女の持つ剣は、儀礼用だ。
これは人を傷つけることはない。
神に捧げられるものだ。
剣ではあるが、剣ではないのだ。
人を傷つけることもできるが、人を傷つけることは決してありえないのだ。
定められた一定の動作を、乱れなく、不変に、なぞる。
舞。
右手に握られた剣は祈りのためにある。
幼い少女の脳裏に掠める記憶。
小さな剣の切っ先。
つい先だっての、兄と友だちの打ち合いの姿。
何とはなしに、気がついてしまった。
小さな少年の剣は人を傷つけたことが、ある……と。
自分とは違う、剣の重み。
身を守るためには仕方がないこともある。
他人の命を犠牲にして、生き残らなければならないことがあるのも知っている。
良くないことではあるが、仕方がないことなのだろう。
争いのない世の中が来れば良い、と思う。
小さな手が握る銀の光が冴えを失う。
ほんの少しのずれ。
「それではせいぜい蛾だ」
不意に声をかけられ、ホウチョウは舞を中断した。
声の主を見上げる。
シユウの次子、ホウスウが微笑んでいた。
父にあまり似ていない青年は、ホウチョウの前まで歩いてくる。
「雑念があると、どんなものも濁る」
ホウスウは静かに言う。
この兄が声を荒げたところを見たことがない。
「はい」
ホウチョウはうなだれる。
ことに文に秀でると評される兄。
彼の前では小手先の芸など看破されてしまう。
「何か、気になることでもあるのか?」
ほんの一通り見ただけで、少女に迷いがあるとホウスウは気がついたのだ。
「たいしたことじゃないの……」
ホウチョウは言った。
そう、たいしたことではない。
少女は美しく整えられた石畳を見つめる。
ホウスウは息を細く吐き出した。
「仮にも刃を扱う。
しばらく、練習を禁じようか……」
「え!」
「……迷いがあるときの刃は、己をも傷つけるものになる」
「でも、舞よ」
「だが、刃を使う。
これも武芸だ」
ホウスウは言った。
この兄に言われてしまったら諦めるしかない。
剣舞を習うことができるのも、次兄のとりなしがあってこそ。
ホウスウは剣舞の教師でもある。
「迷いを断て」
ホウスウは冷徹なぐらいに言い切った。
少女は七つ離れた兄を見た。
チョウリョウの民としては、薄すぎる色合いの瞳。青にも近い灰色とも、茶ともつかない瞳。
「雛兄。
……どうして、戦うの?」
問うてみる。
「身を守るためだ」
簡潔な答えが返ってくる。
「でも……。
それで、新しい戦いが始まっちゃたら……。
意味がないよね」
ホウチョウは呟くように言った。
「いつの世でも、そんなモノだ」
辛辣なことを飛ぶ機会を待つ鳳は言った。
「どちらが悪い、ということは決められない。
ただ、してしまったことが残るだけだ。
戦のない世など、人の世になってから一度たりともない」
ホウスウは言い放った。
「でも……」
考えるのは、一つ年下の少年のこと。
彼の剣は自分の身を守るために、人を傷つけた……。たぶん……。
もしも、シキボに兄たちが行かなければ、彼の剣は人を傷つけることなどなかった……かもしれない。
「絲一族の件は過ぎ去ったものだ」
きっぱりと兄は言った。
心の中を見透かされたような気がして、ホウチョウはビクンッと肩を揺らした。
「今更、気に病んでも仕方があるまい。
ソウヨウは望んではいないだろう。
悲しむ十六夜を見たくないはずだ」
「……うん」
ホウチョウはうなずいた。
が、納得したわけではない。
「舞の練習を禁止する。
必ず、誰かと一緒でなければ駄目だ。
……ソウヨウでも、兄上でも、誰かと一緒ならばどれだけ練習してもかまわないが、な」
ホウスウはそう言い残すと立ち去った。
それが兄の優しさだと気がつくのは、ずっと後になってからだ。
少女は院子で一人立ち尽くしていた。