第八章
部屋に入る前に声をかけたりしない男。
それがフェイ・コウレツだ。
ご婦人の部屋ならば別かもしれないが、三つ違いの弟にそこまで気を使ったためしはない。
シキョ城のわりと上等な一角がホウスウの住居だった。十八歳の青年が持つには、贅沢な広さがある。ただ城主の次子であることを考えると、手狭な感じは否めない。
寝室と、書斎。それと、庭園を眺む居間。
幾重にも衝立ではなく、几帳で区切りをつけるのは、洒落者ゆえであろう。
ホウスウの書斎は墨の香りと南渡りの香木の馥郁たる薫りが和音を奏で、几帳のごく薄い紗を揺らしていた。
何の感慨もなくコウレツは弟の部屋に入った。
世話をする供人の姿が見えないのは、お互い様なのだろうか。
「兄上、一声かけてから入室してください」
飴色の書卓から顔も上げずにホウスウは言った。
その声は事務的で、冷たい。
「悪りぃ、悪りぃ」
少しも悪びれずにコウレツは言った。
「ご用は何でしょうか?」
用がなければお互いの居住区を行き交うこともない。
冷え切っている仲と言うわけではないが、馴れ合うことを避けているのは確かだ。
「お前んとこの、小さいのはどうした?」
勧められてもいないというのに、コウレツは長椅子に腰かける。
「本人が聞いたら気を悪くします。
小柄なのを気にしていましたから」
ホウスウは読み終わった書簡を端から巻いていく。
竹がカシャンカシャンと音を立て、心地よく響く。
「でも、小さいのは事実だ。
で、どうした?」
話を聞かない兄は言う。
「ソウヨウならば使いを出しました。
……少し遅いですが」
ホウスウは立ち上がり、窓辺による。
硝子がはめ込まれた典雅なそれを押し開く。
気持ちのいい風が室内に滑り込んだ。
「理由は決まっていますから」
ホウスウの居住区は、内宮に程近く、院子に面している。
よって、この窓からも院子がよく見える。
「ん?」
コウレツも窓辺による。
階下からは高く澄んだ子どもの声。
「ああ。
ホウチョウにつかまってんのか」
コウレツは笑う。
眼下にはじゃれあう二人の子ども。
内宮の院子を見ることを許されている者は少ない。
百諸とも言われる官のほとんどの者が、内宮に立ち入ることすら許されていない。
人目がない、に等しい。
ともすれば、話す言葉は気取らないものになるし、親しきもの同士であれば自然、威儀は薄れる。
「若いってのはいいなぁ。
人の目を気にせず」
コウレツは笑う。
「ソウヨウは気にしているようですが……。
あの通り、十六夜にかかっては」
ホウスウは苦笑する。
「ほほえましーじゃねーか。
ソウヨウが笑ってんのは、珍しい」
「いつも、笑っていますよ。
どこにいても、誰といても」
「ああ……、そうだな。
鳳、お前と同じだ。
子どもじゃねーな、アレは」
コウレツは喰えない弟を見た。
「未だ飛ばざる雛は
久遠を待ちて
舞い上がる鳳の雛なり」
そう評され、鳳の二つ名を得た青年は、いつでも軽く微笑んでいる。
あるいは、すました顔。
そのどちらかだ。
怒ることもなければ、泣くことない。声を上げて笑うこともない。
表情からでは、何を考えているのか全くわからない。
なまじっか笑っているものだから、人が好いと他人に誤解させる。
敵にもならぬと侮られ、相手が油断しきったところで、青年は牙をむき、相手の息の根を完全に止める。
獰猛な野獣を身に飼うのは、あの少年も同じこと。
「だが、今の笑いはガキの笑いだ」
コウレツは言い切った。
「でしょうね。
十六夜は、人の心を掴むのも得意ですから。
ソウヨウも好きなのでしょう」
ホウスウは微笑んだ。
「お似合いだな。
お前はどう思う?」
「決めるのは父上の仕事ですから。
私には何とも……」
「お前はずいぶんとソウヨウを買っているのに、ずいぶんな言い方じゃねーか」
「それとこれとは話が別です。
十六夜の婚は外に見るのが得策です。
このクニには敵が多過ぎます。
クニ同士の繋がりもあります。
残念ですが、現段階ではチョウリョウ内の相手とは」
ありえない。
チョウリョウの南に組み込まれたシキボの長と言っても、その広大な大地を治めていた豪族といえども、チョウリョウの唯一の姫を娶るのは難しい。
彼には後ろ盾がないのだ。
クニの貢献者でもない。
少年の方が十も上であれば話は違ってきたのだろうが。
幼い彼はまだ何も持っていないのだ。
その小さな体だけしか……。
それこそ、運命にでもならなければ――。
「じゃあ、俺の代で全部キレイにしてやるよ。
敵がいなけりゃ良いんだろう?」
凄いこと言ってのける兄を見上げる。
「したら、アレはアレで良いわけだ」
戦神は上機嫌に笑った。
「トウが立つのも困りものですから。
せいぜい十年ですね」
ホウスウは呆れながら言った。
「十分だ」
有言実行の男は、うなずいた。
「ずいぶんとお気に召したようですね」
「ああ。
アイツは面白い。
この前、打ち合いをしたんだが……。
あの剣は……面白い」
コウレツの瞳が子どものように輝く。
「アイツは確実の俺の命を狙ってきた」
「……あれは剣技ではないでしょう。
そう、呼んで良いものではありません。
……殺人。
人を殺すために、実戦で覚えた剣さばきです」
命をやり取りすることに慣れている。
彼のすぐ傍に、常に死はあった。
人を殺すことに何のためらいがない。
そう感じさせる、剣の扱い。
コウレツとホウスウの目が合う。
「ソウヨウは覚えています。
我らが何をしたか。
ソウヨウは正しく理解しています。
我らが何をしていくのか。
あの少年が仕官を決めた日は忘れられません」
ホウスウは言った。
コウレツは口の端を歪めて笑いの形を作る。
あのときの少年の言葉を思い出す。
恐怖に駆られた叫びでもなく。
己の不運を呪うでもなく。
命乞いでもなく。
保身のための弁解でもなく。
死に逝く者が口にする最期の願いでもなかった。
「鳳。どうしてお前は、アレを傍に置く?」
「絲の当主で充分、利用価値があります。
有力豪族のまとめ役である絲には、我らが飛の役に立っていただきます。
ソウヨウは頭も良く、自分の立場をよくわきまえている。
大人しくて、良い子です。
……充分でしょう?
恩を売るのに」
ホウスウは言った。
「鳳?」
弟に再度、問う。
「虚も実もありませんよ。
あるのは、糸よりも細い繋がりです」
「罪人のようだな、お前は」
コウレツは言った。
「たとえ、兄上であっても、真実は見えますまい」
ホウスウはいつものように笑った。
「ああ、そうだな」
弟の変化に気を止めたふうでもなく、コウレツはうなずいた。
二人は窓の外を見遣る。
幼い少年と少女は笑っていた。
とても幸せそうに。
仮初めの楽園で、偽りなどないように。
「あれは、一つの真実だぜ」
兄は言った。
「はい」
弟はうなずいた。
彼らは覚えている。
幸せそうに笑っている少年があの日言った言葉を。
幼い子どもが言った言葉を。
涙一つ零さず。
冷え冷えとした、おぞましいほどの澄んだ瞳で。
感情を一片たりとも見せない声で。
貴方たちを見ている。
どんな道を行くのか、一番良く見える場所で。