第四章

 季節は美しい初夏。
 煌めく光の仙女たちが水面に舞う。
 本格的な暑さが来る前の、駆け足で過ぎ去っていってしまう季節。
 穏やかな日差しの中、ソウヨウは立ち尽くしていた。
 眩しそうに、緑がかった茶色の瞳を細める。
「……豊か、ですね……」
 誰に聞かせるわけでもなく、少年は呟いた。
 新年に九つを数えたばかりの童子が口にするには、いささかばかり大人びた台詞だった。
「シャオ〜!」
 明るい声が彼を振り向かせる。
 十六夜姫と異名を冠する少女が走ってくる。
 心を惑わせる、とは良く言ったもので、男装をしているのにも関わらず、その美しさは損なわれることはない。
 肩に掛かる程度の明るい茶色の髪は、十にしても短すぎる。
 色こそ鮮やかな染めのものを選んではいるが、作りはソウヨウと変わらない衣。
 それだというのに、不思議と少女には良く似合っていた。
「おはよう!」
 ホウチョウは満面の笑みを浮かべる。
「おはようございます」
 ソウヨウはペコッと頭を下げる。
「今日は忙しい?」
 ホウチョウは可愛らしく小首をかしげる。
 明るい茶色の髪が肩口でサラッと揺れる。
 花の香りがふわりと広がる。
 思わず、暇だと答えたくなってしまうが。
 しかし……。
「長閑様に呼ばれているのです」
 ソウヨウは答えた。
 長閑宮は、鳥陵が鷲居城の蔵書室を指す。その蔵書量は国の大図書館をも上回るとされている。
 書が好きな、シユウの次男ホウスウを敬して呼ぶときの名でもある。
 まだ、彼は字を持たないのだ。
「雛兄に?
 仕方ないね」
 ホウチョウはがっかりする。
「何か、ご用だったんですか?」
 聞いたところで、少女の用を優先するわけにはいかないが。
「んー、別に……。
 たいした用じゃあないし」
 少女はしょげる。
 そんな顔をされると、余計に願いを叶えたくなる。
「後、ではダメですか?」
 ソウヨウは聞いた。
「うん、いいよ。
 急ぐ用じゃないし。
 明日でも、全然かまわないし」
 ホウチョウは言った。
 少し残念そうな表情。
 ソウヨウは、どうしたらいいのかわからなくなる。
「雛兄のところへ、行かなくていいの?
 急ぐんじゃないの?」
「え。
 ……はい」
 その通りなのだけれども。
 ソウヨウは困っていた。
「一緒に行ってもいい?」
 ホウチョウは訊いた。
「もちろんです」
 ソウヨウがうなずくと、少女に笑顔が戻る。
 少年は安堵した。
「最近、ソウヨウって雛兄に用事を頼まれること多いね」
「はい。
 気にかけていただいております」
 ソウヨウは答えた。
 少年がチョウリョウに慣れてくると、ホウスウは自分の書生のように、あれこれと仕事を任せることが多くなってきた。
 才能がある者を見出して、教育を施すことが趣味だと公言している青年ではあるので、ソウヨウに対する教育の一環なのだろう。
 ソウヨウが受けている講義や鍛錬と言ったものの全ては、ホウスウが取り仕切っているのだ。
 少年に、選択権はない。
「……楽しい?」
「え?」
「雛兄の用事」
「大変、だと思います。
 責任がありますから。
 ですが、裏を返せば信頼をいただいていると言うことですし……。
 誇らしく思います」
 慎重に言葉を選びながら、ソウヨウは話す。
「つまり、楽しいのね?」
「……、嫌いではありません。
 楽しい、と言うのかもしれませんね」
 嫌な予感がした。
 こういった予感は、外れたためしがなかった。
 ソウヨウが言い終わると、ホウチョウの機嫌は急転直下した。
「ふうーん、楽しいんだぁ」
「あ、あの」
 やたらニコニコ笑う少女に、少年は途惑う。
「シャオの馬鹿っ!」
 ホウチョウは怒鳴ると、クルッと踵を返した。
 ソウヨウはあっけにとられる。
 少女はその間に、ドンドン走っていく。
 残され少年は、困惑した。
 それは、あってはならないことだ。
 九つにして絲の当主になった少年は、迷っていた。
 少女を追いかけるべきか、ホウスウの元へ行くべきか。
 二つの間に心が揺れていた。
 答えは明確だというのに、迷ってしまう。
 このことは、本人に大きな衝撃を与えた。
 生れ落ちたそのときから、次期当主として育てられた。
 絶対の律を叩き込まれた。
 常に、最大の利を選ぶことができるように。
 教えられたはずだった。
 どう考えたって、どこへ行くべきかは明瞭だ。
 迷っては、いけない。
 この場合、迷うことがおかしい。
 でも、迷っているのだ。
 少年は走り出した。
 理性はわかりきったことしか言わない。
 馬鹿なことをしていることはわかっている。
 ソウヨウは全てをかなぐり捨てて走った。
 庭園を逃げる蝶を追う。
 ヒラヒラと翻る鮮やかな衣。
 咲き乱れる薔薇に満天躑躅、鉄線に木槿。
 蝶は花から花へ、ヒラリヒラリと。
 見失うはずもなく、少年は全力で追う。
 追いつく。
 あと少し、もう少し……!
 二人の距離が縮まっていく。
 ……追いついた!
 少年は少女の白い手を掴んだ。
 どちらも勢いがついていたものだから、体制を崩してその場に座り込む。
「捕まえた」
 肩で息をしながら、ソウヨウは言った。
 手は離さない。
 逃げられたら困るから。
 本当にごく傍にある赤瑪瑙の瞳が信じられないものを見るように、ソウヨウを見ていた。
「どうして……?
 ……どうして、追いかけてきたの?」
 少年以上に息も絶え絶えになっている少女は、どうにか言葉を紡ぐ。
「あなたが逃げたから」
 緑がかった茶色の瞳は、少女を見つめ返す。
「わたしのせい?」
 ホウチョウは、きょとんとする。
「いいえ。……違います。
 追いかけたかったんです。
 あのまま、姫と別れるのがイヤだったんです」
 ソウヨウははっきりと告げた。
 それが、理由だ。
 迷ったときは、心に従う。
 人間が迷うのは、理に適わぬことを心が望んでいるとき。
 してはいけないと心を律しきれないとき。
「雛兄のトコ、行かなくてもいいの?」
「……。
 後で、行きます」
 この後のことを考えると、頭が痛い。
 さぞかし、怒られることだろう。
「後悔しているでしょ」
 鋭いことを少女は言う。
「良いんです。
 選んだのは自分ですから」
 ソウヨウは強がりを言う。
 ホウチョウはニコッと笑った。
「それって、シャオはわたしのことを選んだってことだよね」
「はい」
「良かったぁ!
 シャオは兄さまのことの方が好きなのかな、て心配だったの。
 わたしのお土産にって、シャオはここに来たのに、わたしと一緒にいることよりも、他の人と一緒にいることの方が多いんだもん」
 十歳らしい、子どもじみた独占欲。
 ニコニコと笑いながら言う。
「私は姫の方が好きです」
「ほう?」
 ホウチョウはソウヨウの目を覗き込む。
「姫が好きです」
 ソウヨウは言った。
 言わされたほうが、正しい。
 ホウチョウは笑った。
 全開の笑顔だ。

 沈魚落雁 閉月羞花

 ソウヨウの脳裏そんな言葉が浮かび上がってきた。
 見蕩れるなと言う方が無理なほどに、キラキラしい笑顔だった。
「わたしもシャオのことが好きだよ」
 無邪気に少女は言った。
 ソウヨウは嬉しくなって、自然と顔をほころばせた。
 長閑様に怒られても全然かまわない。
 この少女の笑顔のためなら、悔いはない。
「あの。……姫。
 ご用件はなんだったんでしょうか?」
「あ! あれのこと?
 本当に大したことじゃないよ」
「?」
「この前、シャオ言ってたでしょ?
 ソウヨウって名前は、チョウリョウに来たときにもらったって。
 って言うことは、それまで違う名前だったんでしょ?」
 ホウチョウは聞いた。
「え、ええ」
 ソウヨウは目をそらす。
 敷き詰められた色石の上、黒い影が二つ。
 まるで抱き合うように重なっている。
「その名前が気になったの」
 明るく澄んだ声が耳朶を打つ。
 その名は、捨てた。
 故郷とともに、家族とともに、失ったモノ。
「……もう、二度と呼ばれることのない……名前です」
 呟くように、言った。
「私は絲・蒼鷹です」
 少年は顔を上げた。
 ぴんと背を伸ばして、答えた。
「教えるの、イヤ?
 ムリにとは言わないけれど。
 知りたいって……少し、思っただけだから」
 ホウチョウは聞いた。
 傲慢、だ。
 彼女は何も知らないから、名を変えられるという意味を知らないから。
 少年は何か手柄を立てたわけではない。
 誰かの家に養子に行ったわけではない。
 改名は隷属の証。
 鳥陵の民に相応しく、鷹の字を名にする。
 色墓の長家の『絲』の当主が、鳥の字を名前とする意味は――。
「手、貸して」
 少女は少年の手を取る。
 つながれていた手は、解かれ……そして、つながれる。
 少年の手の平に、人差し指が文字を書く。
 細くて、白くて、小さな指。
 その動きをぼんやりと追う。
「わかった?
 もう一度、書くよ」
 朗らかに少女は言う。
 少年は視た。
 一字目は『飛』
 鳥が羽をふってとぶさまを意味する古字。
 二字目は『鳳』
 おおとり、の意。
 三字目は『蝶』
 軽く動く意味。
 『鳳蝶』で、アゲハチョウを意味する。
 緑とも茶色ともつかない不思議な色合いの瞳は、少女を見た。
「わたし、鳳蝶と言うのよ」
 ホウチョウは言った。
「な、何考えているんですか!?」
「一方的に名前を聞くのは失礼だと思ったの」
 あっけらかんと答えた。
 事の重大さに気がついていないのだ。
 常識がなさ過ぎる……。
 彼女の周りはどうなっているんだ。
 少年は拍子抜けした。
 名には力がこもっている。
 名前を知ると言うことは、魂を手に入れると言うことと同義だ。
 女性は家を守ると言う重大な使命がある。それ故に、女性の名前は秘するべきもの。家族であっても、その名は滅多に呼ばない。代わりに字や号、愛称で呼ぶ。
 女性の名を呼ぶのは、恋人ぐらいのものである。
 真字を教えられてしまった。
 彼女をどうこうしてもかまわないと言われたも同然。
 ソウヨウは困った。
 このことを人にベラベラ話せるほどの厚顔無恥ではないが、一人で抱え込んでおくには重過ぎる。
「一回しか、教えませんよ」
 名を交し合うなんて、まるで恋人同士のようではないか。
 ソウヨウは赤面しながら、ホウチョウの手の平に文字を書く。
「これが『絲』
 一族の名前です。
 『蓮緑』
 これが、私の名前でした」
 ソウヨウは、懐かしいと呼ぶにはまだ痛々しいほどの記憶の中で、呼ばれていた名前を口に乗せた。
 もう、過去のこと。
 戻ることはできないから、捨てた名前。
「……りぇんりゅー」
 少女が呟いた。
 感傷だ。
 嬉しい、と思うのは。
「キレイな名前ね」
 ホウチョウは笑う。
「ありがとうございます。
 ……ですが、この名前はもう呼ばれません」
「呼んでほしいの?」
 十六夜姫はまっすぐにソウヨウを見た。
「いえ、そう言うわけではありません。
 私は、ソウヨウですから」
 ソウヨウは嘘をついた。
「淋しいの?」
 ホウチョウは重ねて問う。
 自分の心情を見透かされているような気がして、ソウヨウは我慢することをやめて、うなずいた。
「シャオ」
 少女は愛称を呼び、少年を抱き寄せた。
 労わるように、優しく、その樫色の髪をなでる。
 ソウヨウは肩の力を抜いた。
 今までずっとほしいと思っていたものが、ここにはあった。
 花の香りが深い。
 伝わってくる優しさとぬくもり。
 夢のようだ、とソウヨウは思った。
 きっと、目を覚ましたら、消えてしまう……。
「雛兄のところに謝りに行かなきゃね」
 ホウチョウは笑った。
「一緒に行ってあげる。
 大遅刻するの、半分以上、私の責任だもん。
 ちゃんと、話をつけてあげる!」
 少女は立ち上がる。
「心強いですね」
 ソウヨウは微笑み、立ち上がった。
「あ、名前ヒミツにしてね。
 音知っている人は結構いっぱいいるから大丈夫だけど。
 字は父さまぐらいしか知らないの!
 兄さまたちだって、知らないんだから!」
 少女は殺し文句を言う。
 とっても重大なヒミツを押し付けられて、少年の心臓はバクバクする。
「二人だけのヒミツね」
 ご機嫌の笑顔でホウチョウは言った。
「はい」
 ソウヨウは返事をした。
 まだ、夢は終わらない……。
 これからも、ずっと続いていくんだ。
 少年は、かすかに微笑んだ。
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