第七部 海月視点05
まどろむような時間の中で、緊迫感が落ちた。
ロウタツの予測よりも早かった。
鳥陵皇帝が緻密に編んでいった計略が動く。
あの日に海月郡に届いた親書のごとく。
離宮である大司馬府がにわかに活気づく。
たとえ客人として遠ざけられた部屋にいても伝わるほどに。
……監視の目が強くなるのを肌で感じる。
大司馬は立場上、皇帝からの命令を断れない。
勅命により自ら兵を率いて、行将軍のいる北の大地へと救援として北伐に向かう。
残していく想い人を心配して……というわけではないだろう。
だったら、ここまで兵を割りさく必要はない。
明らかにロウタツを殺しにかかっている。
どこにいてもついて回る視線。
それはまるで静かな空気なようなものだった。
風にそよぐ葉のように、溶け込んでいた。
だから、ロウタツは与えられていた部屋で静かに書を読む。
出歩かずに、気配を隠さずに、あえてにじませる。
白鷹城の構造はすでに把握済みだ。
さすがに皇太后や公主のいる後宮は知らないが、鳳凰城と造りに差はないだろう。
あの鳥陵皇帝が後宮に妃を侍らせるとは思えない。
典型的なチョウリョウの民の反応を見てからは、確信している。
家族のための部屋になるだろう。
ロウタツは己に再度、言い聞かせる。
無難に、冷静に。
心境など気取られないように。
まるで建国祭までの暇つぶしをしているように。
幸いなところ、ゲッカは頻繁に十六夜公主の私室に遊びに行っている。
戻ってきて楽し気に話すところを見ると、だいぶ可愛がられているようだった。
物怖じを知らない幼い少女は、ぺらぺらと何でも話す。
表面上だけ見ると、婚約者の背を見送る公主の無聊になっているようだ。
鳥陵皇帝の執着にも似た愛情を受ける妹公主。
この大司馬府でもある白鷹城の麗しい後宮の主。
それらが幼い少女を守ってくれるだろう。
大司馬が歩む北伐の土地は、軍用の名馬を選りすぐっても、片道で一週間はかかるはずの距離だった。
同行の旗下として選んだのは馬操術に才があることで、有名な南城時代からの『お友だち』である翔将軍だったのは、当然の帰結だろう。
不自然さは、どこにもない。
それが三日で単騎で帰還した。
戦場からの第一報。
ロウタツはそれを知り、風通しのために開け放たれた窓の向こうを見る。
海月よりも北の大地は、まだ美しい春だろうか。
満開の花が咲き、おそらく最も麗しい景色だろう。
それが鳥陵皇帝の慈悲。
筋書き通りだとしても、どうにもやりきれない。
翔将軍も利用された一人だったらしい。
おそらく大司馬からは、口の堅さと生真面目さが買われたのだろう。
冬葉色の瞳の将軍は不器用すぎる。
大司馬という身分である間は、歳上の『お友だち』を無邪気に飼い殺しにするつもりだろう。
わかりやすい駒は必要だ。
かつて自分がそうされたように。
いや、今でも、そうであるように。
緑の瞳の大司馬はどんな顔をして帰還するのだろうか。
少なくとも婚約者である十六夜公主の前だけは、十八歳という多感な時期の年頃か、それよりも幼いか、裁かれる前の罪人であるかのような顔をしていてほしい。
そう願ってしまう。
……そうであって欲しい。
でなければ、くびきにはならない。
どうにも知りすぎたな。
ロウタツは空虚な魂に同情しているのだ。
自分を殺すかもしれない相手に。
建平三年、七月。
建国祭までのあとわずか。
鳥陵の都に訃報が駆け抜けた。
行将軍は還らぬ人になった。
もちろん国葬だった。
身分こそ違うが鳥陵皇帝の友人だったのだから。
落胆した皇帝は朝議も滞りがちになる。
どこまでも欺瞞なのだろう。
どこまでが虚偽なのだろう。
気を使ってだろう。
王都中で騒がれているはずの話題は、微かにしか伝わってこない。
母と妹を守るために造られた花園には余分な情報を与えられない。
それが鳥陵皇帝のやり方だった。
ロウタツは白鷹城の一室で、鳳凰城の方角を見やる。
鳥陵皇帝の真意など知りたくなかった。
あまりにも醒めていた。
確かにギョウエイという国は内にも外にも問題がありすぎた。
しかも年単位で、だ。
鳥陵に玉棺が併呑されてからは、特にひどくなった。
だからといって自分が同じ立場だったら、そこまで割り切れるのだろうか。
恒久平和。
望んでいたものだろう。
だからこそ、建国祭までに片付けておきたかったのだろう。
冷徹すぎる。
ロウタツは竹簡の端を無意識に握りしめていた。
建国祭も間近に迫ってきた。
ロウタツはぼんやりと院子を歩いていた。
現在、ゲッカは遊びに行っているのだから、放置するにとどまる。
成人前の貴重な時間だ。
大人に囲まれて、未来を期待されて、重責を負わされた。
そう仕向けたのは己だ。
総領になることを選んだ少女を甘やかさなかった。
徹底的に、大人として、主君として、扱い続けた。
親を亡くしたばかりの幼い子どもに、泣くなと冷たく言い放ったのだ。
故郷を離れた孤独な二年間。
総領として振る舞うことに慣れすぎた幼い少女は、どうやら独りになっても泣かなかったらしい。
あの時の約束を頑なに守り続けたのだ。
……罪滅ぼしなのかもしれない。
話を聞く限り、打ち解けた相手は少数だったらしい。
あれだけ無垢で、懐かれたら憎めない少女だというのに。
数少ない相手は、皇帝や宰相といった国の責務を担うような相手だったなら、なおさら哀れだった。
五つ離れているとはいえ公主は、不敬罪で訴えられてもおかしくはない事柄だが、そこまで精神年齢が開いてはいないように見えない。
それに姉のように振る舞うのだから、血族の少なかったゲッカには得だろう。
甘える相手はいたほうがいい。
早く大人になることを強要された子どもには、遊び相手が必要だ。
七月となれば、海月にはないうだるような暑さだった。
人気のない院子を無意識に選ぶぐらいには、カイゲツへのこだわりが残っているのだろう。
あの月だけは綺麗に見える何もない院子を思い起こさせる。
だいぶ監視の目は緩んでいる。
行将軍が死んでから。
警戒は失われていないものの。
用件は果たされたのだ。
あとはどのように鳥陵皇帝に利用されるのだろう。
非公式の会見では、それなりの利用価値をあることを示唆されている。
用済みだと捨て去られない程度に、働けばいいだけだ。
海月太守という立場は気に入っている。
カイゲツの民が願い続けた『奇跡の子』がカイゲツに戻ってきたのだ。
弾むように高く澄んだ笑い声が海月城にこだまする。
カイゲツの民たちが居並ぶ高官たちは、押しなべて喜んでいる。
我が子を慈しむように。
敵対していたはずの近隣のクニから抜擢した群臣たちも、無邪気な振る舞いを止めやしない。
むしろ愛されている。
せいぜい任期の間だけでも、自由にさせてやりたい。
そんな取り留めないことを考えながら、太陽を見上げる。
あと半刻ほどか。
そろそろ迎えに行った方が良い頃合いかもしれない。
現在、白鷹城では派手な鬼ごっこが毎日のように、くりかえされている。
逃げるのは主である大司馬。
理由は明確。
婚約者の顔が見たいのだ。
ロウタツはそれを微笑ましく思った。
年頃というよりは子どものような幼い精神だったが、そこには欺瞞がなかった。
真っ新な純粋さ。
欲などない。
本当に顔を見て、視線を交らわせて、言葉を交わすだけで満たされる。
ままごとにも似た『恋』。
初恋なのだろう。
張り巡らされた中で落ちたものだとしても、風化せずに残った想い。
色墓らしい外見の青年は、生粋のチョウリョウの民のような『運命』の恋をしている。
その奇跡の終焉まで見てやりたいと思ったのは、どういう心境の変化なのだろう。
夢物語のような甘い砂糖菓子のようなもの。
癒されたのか。
絆されたのか。
どうにも憎めない。
自分にはないものだったからだろう。
駆け抜けていく青春時代。
ロウタツ自身は戦場に身を置き、自分を律し、カイゲツの民のために捧げた時間だった。
代償行為なのだろう。
そう結論付けた。
だから、少しばかり親切にしてもかまわないと思った。
恩を売るわけではない。
押し付ける気はない。
自分にはできなかったことを味わってほしいと思ったのだ。
あまりにも過酷な道を選択肢すらなく、操られてきた子どもに。
おそらく死ぬまで踊らされるであろう青年に。
「皆さん、探していらっしゃいましたよ」
そう静かに声をかけた。
木から落ちるように、降りてきた青年に対して。