第七部 海月視点06
ロウタツは雅やかな管弦の調べを聞きながら月を見上げていた。
管弦にうるさい鳥陵皇帝が任命した大司楽が特に選んだだけあって、先の王朝であるエイネンよりも良いのだろう。
琴の音色は鳥陵に併呑されてから耳にするようになったが、なんとなく鳥陵皇帝の声の方が良いのではないのか、と思ってしまう。
あれだけの麗しい声だ。
それだけで心酔する者もいるだろう。
海月城に来たばかりの頃、王宮の満月も美しかったけど、と言った幼い婚約者の声がよみがえる。
寒さに凍える心配のない月なら、それだけでも価値がある。
それでもなお、海月の満月の方が綺麗だと嬉しそうに笑ったのだ。
特徴のある歩き方が近づいてきた。
一人で、だ。
身分を考えたら……ありえない。
いくらその身分に似合わない若さだとしても。
そろそろ、頃合いか。
杯にある杯を一瞬、見やる。
……駆け引きの時間だな。
ちょうどよく足音が止まる。
そして、穏やかに声をかけてくる。
ロウタツはゆっくりと青年を見上げる。
鳥陵皇帝との用件は済んでいるが、それを鵜吞みにできないほど世間ズレしている。
信じていないのだ。
何もかも。
おそらく自分自身も。
常に強い理性でもって、感情を押さえつけている。
歳のわりに、自制心が強すぎる。
もう少し利己的になってもいいと思うのだが。
その箍を外してやれるような大人が周囲にいなかったのだろう。
幼少のころから叩き込まれた絶対の律。
大司馬の立場なら立派だろう。
だが、この先、あの夢の中にいるような公主の夫になるのだ。
手をつないでいるだけでは済まないことを知識としては知っているだろう。
ただ理解が追い付いているとは思えない。
秋の暮れには、破綻するだろう。
結婚するからには、主導権を握っていてもらわなければならない。
あの公主が泣いたら、あっさりと諦めてしまうだろう。
頼るのは兄である皇帝でもなく、友人でもなく、夫であることを刻み付けなければならない。
とかく頑固な恋をする鳥陵では。
そのためには、小さなきっかけを誰かが与えて感情を揺らさなければならない。
理性よりも動くものがあることを経験させなければならない。
あっさりと駆け引きに乗ってくれるだろうか。
ロウタツは会話を続けながら、試すように青年を見やる。
始終、穏やかで、どこか幼さが残る話し方だ。
酔っているからではない。
借り物の無邪気さだ。
おそらく周囲に合わせて選んできたのだろう。
悪くはない判断だ。
保身術としては、良い方だろう。
そんなことを観察しながら、ロウタツは算段する。
多少、命がけになるだろうが、こんなところで鳥陵に倒れられては海月は困るのだ。
鳥陵皇帝が倒れたら、次に玉座を埋めるのは公主の夫なのだから。
果たして、どちらがマシなのだろうか。
嵐色の瞳の皇帝と緑の瞳の皇帝は。
まあ、どちらにしろ悪政を引くとは思えない。
良心が欠落していても、身についてしまった強い知性がそれを許さない。
ロウタツは勝負に賭けることにした。
おせっかいだと自分でも思っている。
会話が途切れるのを見計らって、立ち上がる。
宴の灯燭の中で見ると、その色は緑。
不服そうにロウタツを見上げている。
ゆっくりと目に見える形で、感情を揺らさせる。
ならば単純に『怒り』が良いだろう。
自分の思い通りにならないことを知って、それでも諦めず、きちんとした形で折り合いをつけ、制御する。
反抗期、と呼ばれるそれだ。
ロウタツは酒を捨てて、空になった杯を差し出した。
青年は無表情だった。
それが本来の姿なのだろう。
あれほど無邪気に笑っていたのに。
あるいは探るように、政治的な駆け引きをしていたのに。
理性がとんだことがありありと見て取れる。
やはり、第一印象通り幼い。
ロウタツは青年の目の前から立ち去る。
背後で、物の割れる音が耳が拾った。
おそらく杯を怒りに任せて、割ったのだろう。
勝負には、勝った。
すると、近々山場がくるのだろう。
問題があるとしたら、どうゲッカをなだめるか。
夜はとかく眠りの浅い少女なのだ。
しかも戦場に身に置いたせいか、敵意には鋭敏だ。
頭の回転は悪くないのだから、『交換条件』を利用するか。
気がつかずに深く眠っていてくれればいいのだが。
ロウタツはしっかりとした足取りで、与えられた部屋に戻る。
中夜に、あっさりと青年は寝室に忍び込んできた。
ここまでは計算通りだ。
というか、単純すぎる。
陰謀中枢に携わる大司馬のやることだろうか。
目の前にいるのは、おそらく自分自身の情動で突き動かされと気がつかない年端いかない子どもだ。
ただならぬ気配で、やはりゲッカは起きてしまった。
幸いなことに、悲鳴を挙げることはなかった。
これで大きな騒ぎになることはないだろう。
いくらここが、大司馬府でも殺人事件が起きれば問題になる。
話している間に、青年の殺気はだいぶ削がれている。
残るのは、嫌悪感だ。
当人は気がついていないのだろう。
はっきりと『不快』だと告げた。
ロウタツが初見で感じた視線を感じた色だ。
懐にしまっている鉄扇の出番はあるのだろうか。
おそらく、多少はあるだろう。