第七部 海月視点04

 そうやって過ごしている間に、垣間見てしまった。
 大司馬とお気に入りの『お友だち』三将軍との真剣な勝負を。
 あれは演舞というものではない。
 戦場で見知っていた命のやり取りだ。
 依怙贔屓で、二十代という若さで将軍位を得たわけではない。
 それを許すような鳥陵皇帝は甘さを持ち合わせていない。
 冷徹なほどに実力主義なのだ。
 まだ十代の大司馬は余裕で鋭い剣戟をかわしていく。
 むしろ楽しそうに。
 軍略だけではなく、身体能力も高いのだ。
 予測を超える変則的な動きは、おそらく色墓の伝統のものだろう。
 ふいに曖昧な瞳と視線が絡んだ。
 一瞬だけだったが、明確な警戒。
 あるいは嫌悪。
 鞘を払った大司馬はさながら歩く暗器。
 たった三呼吸する間に、大切なはずの『お友だち』を無力化してしまった。
 無駄のない最小限の動きで制してしまったのだ。
 きっと息をするようにあの宝剣で、己の命を刈り取ってくれるだろう。
 用件が済むのが先か。
 忍耐を保てなくなるのが先か。
 それが遠くない予感がした。


 6月も終わる頃だった。
 白鷹城のあてがわれた部屋の一つ。
 穏やかな昼下がり。
 いつものように昼寝をしていたゲッカの傍らで、ぼんやりとロウタツは読書をしていた。
 うとうとしていたゲッカが起き上がった。
 いつもより早かったのは、昨夜よく眠れたからだろう。
「おはようございます、華月様」
「んー、おはよう」
 黒く長い髪が陽光の中で、さらりと零れ落ちる。
 まだまどろみの中にいるのだろう。
 どこか間延びした声は、いつもよりもしっとりとした響きがした。
「沖達は読書していたの?」
 ゆったりと小首をかしげる。
 エイハン風の薄絹の淡い色合いの衣に、黒髪が良く映える。
「まあ、暇ですからね。
 太守としての仕事もないですし」
 ロウタツも上体を起こす。
 読みかけの竹簡を巻いていく。
 カランカランと乾いた竹の音が響く。
 つかの間の平穏だった。
 いつまでも続くかわからない嵐の前の平穏だった。
「毎日がそうだったら楽しそうだね!」
 ようやく覚醒したのだろう。
 その声はいつものように高く澄んでいた。
「これでも私は、私の仕事が気に入っているのですよ」
 ロウタツは巻き終わった竹簡を傍らに置く。
「そうなの? 大変そうだけど」
 ゲッカは不思議そうな表情を浮かべる。
「こうも暇だとすることもなくて飽きているところです」
 思い返せば、仕事が趣味のような人生だった。
 いつでも忙しかった。
 生きている意味なんて考えなくてもいいぐらいに。
 古の書を紐解き、民の安寧だけを優先してきた。
 父を亡くし、成人して宰相になってからはそれは顕著になった。
 暇だから書を読むなんて時間を消費するよりも、民を守るための鍛錬に力を注いだ。
 違ったのは……月姫と過ごす時間だけだった。
 あの時は引っ張りまわされて、自分らしさというものをさらけだしていたような気がする。
 怒って、困って、それでも放りだすことができなかった。
 まるで恵まれなかった子ども時代を埋めるように。
 輝かしい時間だった。
「海月に帰りたい?」
 ゲッカは無邪気に尋ねる。
「一人だと寂しいので、華月様と一緒だったらいいですね」
「沖達でも寂しくなるの?」
 明るい日差しの中でも、稀有な双眸だと思った。
 たった一つの冠を戴くものだった。
「味気ないですからね」
「へー、そうなんだ。
 ちょっと意外」
 ゲッカは何がおかしいのかクスクスと笑う。
 この笑顔のために生きてきたのかもしれない。
 だったら殉ずるまでだ。
「そう言えば……昨夜は、交換条件をいただいていないのですが」
 ロウタツは垂らしたままの黒く長い髪を一房だけ手に取る。
「うっ。……ごめんなさい」
 ゲッカは黒い目を泳がせる。
 遊び疲れたのか、寝落ちたのだ。
 しかも、かなり深い眠りだった。
 安心しきっているのだろう。
 今の自分とは正反対だ。
「では、今から一ついただいてもいいでしょうか?」
 ロウタツは悪戯心を起こした。
 最期の楽しみか、心残りか、未練か、あるいは想い出づくりか。
 あともう少しすれば七月を迎える。
 建国祭が華やかに始まるだろう。
「え、今!?」
 ゲッカはわたわたと驚く。
「二人きりの秘密ですよ」
「う、うん」
「誰にも言ってはいけません」
「当り前じゃないか!」
 ゲッカの澄んだ高い声が部屋内に響く。
 毎夜、くりかえしているものだから、恥じらいがあるのだろう。
 羞恥心というものをおぼろげなリにも、理解し始めたのだ。
 人が渡る気配を感じながら、その細い腰に腕を回す。
 女性が履くような糸履では鳴らない音。
 抑えたような複数の話声。
「よろしいですか?」
 ロウタツは、手にしている黒髪を遊ぶように撫でる。
「うん」
 観念したように、ゲッカはこっくりとうなずく。
 靴音が最高潮に近づく。
 一つは慇懃に離れた。
 面倒事を避けたいのだろう。
 おそらく大司馬のものだ。
 当人は気がついていないだろうが、特徴のある歩き方だった。
 鉄色の瞳を和ませて、手にしていた長い黒髪に唇を一つ落とした。
「え?」
 ゲッカは動揺する。
 普段と違う事柄だったからだろう。
 それに重なるように、麗しい怒鳴り声が響いた。
「鳳?」
 入室した人物に、稀有な双眸が見開かれる。
「何をしているんだ!」
 意外な結果にロウタツは満足した。
 冷徹無慈悲な皇帝ではなく、生粋なチョウリョウの民の典型らしい発言だった。
 控えていたのは太師・露禽だ。
 そちらはニコニコと笑っていた。
 若い頃は派手な女遊びをしていた、という話題のある人物だ。
「ごく普通のことです」
 ロウタツは手にしていた黒髪を解放してやる。
「沖達、知っていたでしょ?」
 高く澄んだ声がなじる。
「華月様が一番、ご存じなのでは?」
 笑いをかみ殺しながら言った。
「それに始めたのは、華月様からですよね」
「う。……そりゃあ、そうだけど」
 ゲッカが困ったように白状した。
「陛下は華月様にご用事があるようなので、私は御前を失礼させていただきます」
 細い腰に回していた腕を離し、腰を浮かそうとすると
「沖達。逃げる気!?」
 小さな手が袖をつかむ。
 あいかわらず勘が鋭い。
 頭の回転や思い切りの良さはカイゲツの総領だった時代なら美点だろう。
「暇なので散策でもしたいと思います」
 ロウタツは、やんわりと小さな手をつかむ。
 ゆっくりと指をほどいていく。
「ちゃんと、約束は覚えていますよね」
 きっちりと釘を刺して、幼さが抜けない少女の退路を断つ。
 慇懃に礼をしてロウタツは部屋から抜け出した。
 海月に比べると、暑い夏だった。
 白い光を浴びながら、ゆっくりと歩を進める。
 思い残すことはない。
 ただ一つの想いを残していけるのなら。
 チョウリョウの民が説くたった一つの『運命』だったのだろう。
続きへ > 並木空のバインダーへ >  「海月」目次へ >  「鳥夢」本編目次へ