第七部 海月視点02
建平三年、六月。
鳥陵の王都である朱鳳に入ると、海月郡からついてきた兵士たちを領地に返した。
建前上、鳥陵皇帝から護衛の兵をつけてくれてるから交代するようにと。
できるだけ海月の人的被害を減らしたかった。
言い訳かもしれない。
だが、ロウタツは平素のように言った。
馬車の中で、ゲッカは落ち着きなく座っていた。
緊張感がひしひしと伝わってきた。
「白鷹城に入る前に、私は一度、陛下にお目通りしなければなりません。
お礼を兼ねて」
ロウタツは静かに言った。
「……鳳に会うの?」
人が持つには過分な稀有な瞳が不安そうに揺れていた。
「まあ、どちらかというと非公式なお茶会ですよ。
直接、小言の一つか、二つは言われそうですが。
何といっても褒賞として、わがままを言いましたからね」
ロウタツは幼い婚約者の肩に手を置く。
「わがまま?」
不思議そうにゲッカは言葉を紡ぐ。
「皇帝陛下の寵愛を横からかっさらったわけですからね」
ロウタツは不安を紛らわせるように言った。
「え?
あ、あの、それって、ボク?」
ゲッカは大きく目を見開いたかと思うと、しゅんとうなだれた。
「后がね、と噂でしたよ」
辺境の海月郡でも、と付け足した。
「別に、ボクと鳳はそんな関係じゃなかったよ!」
少女はパッと顔を上げ、ロウタツの袖をつかんだ。
「存じ上げています」
ロウタツは、鳥陵皇帝が好むエイハン風の薄絹の衣をまとっていた少女の黒髪を撫でる。
平素であれば軽く結い上げているであろう長い髪も、ただ下ろされている。
「会見の間は、ご自由にどうぞ。
おそらく侍女をつけてくださるでしょうから、遷都したばかりの王都を楽しんできてください。
ただし、いつでも鉄扇は持ち歩いてくださいね。
大切な下賜品なのでしょう?」
ロウタツは言った。
少女の帯には一指しの藍色の扇があった。
「うん。
鳳に貰ったものなんだよ」
ゲッカの声は、ようやくはしゃぐ。
少女は間違いなく、優秀な生徒だった。
たとえ一人になっても、自分の身を守る程度ならできるはずだ。
自分がいない間も、王都なれば『海姫』という号が脅威から守ってくれるはずだ。
あの鳥陵皇帝の寵愛を一心に受けた、という事実が。
今もなお、字を呼び捨てにできるという親しさが。
厄介なものから遠ざけられるはずだった。
たとえ、自分がいなくても。
それが暗澹たる気持ちになるが、強い自制心がそれを許さなかった。
とりとめのないおしゃべりを聞きながら、気配を探る。
……監視されている。
皇帝ではなく、大司馬に。
夏官の長が要人のために、護衛兵を編成するのは仕事の一環だ。
しかも白鷹城は離宮ではあるが、同時に大司馬府なのだ。
皇帝直々に、海月太守の逗留先に選ばれたのだから手厚くしなければならないだろう。
まだ緑の瞳の大司馬の真意が読み取れない。
顔を見れば判断できるのだろうか。
できるだけ穏便にすましたいところだが、どうなることやら。
鉄色の瞳はゆっくりと算段する。
残してきたものに。
隣で笑う少女のために。
ロウタツは下官に案内されながら、鳳凰城を不自然にならない程度に目を配る。
歩く道を、頭の中に叩き込む。
あいかわらず趣味の良い皇帝だった。
かつての王宮よりも広いのは百官を並べて、円滑に朝議を行うためだろう。
祝いを兼ねて参内した諸侯たちは、その髪の色も、肌の色も、瞳の色も、話す言葉の癖も違っていた。
それは若き皇帝の度量を示すようだった。
静かに歩きながら、囁きにも似た噂話がロウタツの耳に入る。
あいもかわらず自分の風評は悪いようだった。
売国奴。
この場にいない少女の耳に入らなくて良かった、と心底思う。
きっと自分のことのように怒るか、涙をたたえて傷つくか。
無垢で、清らかな魂は『仁』そのままなのだ。
月の冠を戴く為政者。
カイゲツの民が愛し続ける『奇跡の子』なのだから。
何度か曲がって、ようやくたどり着いた一室。
鳳凰城では最深部だだろう。
私的な空間だということが理解できる。
それなのに人の気配が感じられない。
その一室の衝立には青い鈍い色の帯のような絹布が微かに揺れていた。
孔雀藍(コンチュエラン)だ。
鳥の名を持つ青い色は、幼い少女が嵐のような色だと喩えた皇帝の瞳の色だ。
下官が恭しく頭を垂れて退がる。
ロウタツは跪礼する。
「入れ」
極上の琴が恥じて弦を切る。
それほどまでに麗しい響きを持った声だった。
皇帝の声だと知っていたので
「海月太守カイ・ロウタツ。
ただいま参上いたしました」
と頭を垂れたまま言った。
「堅苦しいのは苦手だ。
それに用件があって呼んだのは私だ」
皇帝の言葉に促されて、ロウタツは立ち上がり、衝立をくぐる。
南渡りの香木と墨の香りが調和していた。
身分には不釣り合いな枚数しか重ねていないくだけた格好の若い男が、精緻な螺鈿細工が施された黒漆細工の書卓に肘をつき、竹簡を広げていた。
華やかな王都にあって、対比的な渋い色合いの衣が品良く似合う。
自分に似合うものを知っているのだろう。
染めも、織りも、さりげなく施された刺繍も、特級品の絹。
この空間で、生粋のチョウリョウの民しては淡い色を有するのはただ独り。
冬に見上げる月のように冴え冴えとした怜悧な顔が上がる。
灰色のような茶色のような瞳がロウタツを見据えて、ゆっくりと口元をゆがめて……笑った。
「立ったままでいい。
遠路遥々、ご苦労だった」
それは労わるような優しい声だった。
内面を知らない者なら感動に打ち震えるような場面だろう。
だが、ロウタツは視線を床に視線を落とすだけでとどまった。
「華月はどうした?」
皇帝からの下問だ。
正直に、答えなければならない。
「今頃なら、遷都したばかりの王都で遊んでいられるか、と」
「遠ざけるのは不安か? 猜疑か?」
皇帝は再度、尋ねる。
「あのような善良で無垢な魂を持つ者には、ふさわしくない案件だと判断しました」
声の震えを気取られないようにロウタツは言った。
「ずいぶんと思慮深い。
賢明な判断だと言っておこう。
実のところ、ゆっくりと話してみたいと思っていたからな」
この時期だというのに、窓は締め切られていた。
竹簡を巻くカランカランとした音が響く。
「カイゲツ最後の宰相、沖達殿」
皇帝は楽し気に声をかける。
ロウタツはぞっとした。
「あの華月が二年間、ずっと私に話してきた自慢の男だ。
代わりにはなれないと、見事に私は袖にされたよ」
まるで懐かしむような響きがあった。
「政の基本は『仁を欠くことなく』で、あったな。
礼然の一説だ。
有名な話だが、それを実行できる者は少ない。
あの時、カイゲツを滅ぼさなくて良かった、と思ったよ。
そろそろ三年になるが、海月郡の話は耳に届く。
王都での話題とは大違いだ。
領民たちからは、慕われているようだな。
任命しておいて正解だったようだ」
流れる水のように流暢に皇帝は話す。
……どこまで知っている。
海月は、皇帝の威光も届かない遥か遠い辺境の地だ。
手の内で踊らされている気分だった。
「そちらが話す気がないようならば仕方がない。
早速用件に入ろうか」
立ち上がり、裾をさばく音がした。
ロウタツは気圧されそうな気がして、それを黙って聞いていた。
そして尚武の国には不釣り合いなほど白い手が竹簡を差し出した。
幾多もの戦火を上げ、大陸を制覇したとは思えない。
それほどに雅やかな所作であった。
「これを白鷹城にいる大司馬に直接、手渡してくれ。
誰にも見つかることなく」
皇帝は念を押す。
「かしこまりました」
やっとのことでロウタツは恭しく竹簡を受け取り、礼をした。
「中は見なくてもいいのか?」
「おそらく臣が拝謁したものと同じものだと思います」
「……なるほど。面白い」
皇帝は断言した。
この時のカイ・ロウタツは知らないことであったが、実のところ飛一族からの最高の賛辞だった。
それも心からの、手放しの。