第七部 海月視点01

 建平三年、五月。海月城のその奥。
 海月太守の私的な空間の一つ。
 その中でも、最も広く上等な部屋。
 部屋に立ち入るのは、太守自身と許されたわずかな女官だけ。
 その部屋の主は、げんなりとした顔をしていた。
 齢十四、カイ・ゲッカ。
 大陸を制覇した鳥陵皇帝が『海姫』という号を贈った珍しい少女だった。
 そして、現在は海月太守の婚約者だった。
 先だっての玉棺との戦--後の史書で語られる色墓の戦いーーで戦功を挙げた海月太守の褒賞として、鳥陵皇帝の後宮夫人のように下賜された。
 そんな噂がつきまとう少女である。
 ただ海月城で働く者は、そんな噂は笑って過ごすだけだった。
 あの海月太守が目に入れても痛くないほど耽溺している。
 そのことを知っているからだ。
 ゲッカは鮮やかすぎる色彩の絹の反物を広がる床を見つめていた。
 どれもこれも、軽やかな薄絹。
 この辺境の地では見られないはずの物だった。
 いくら夏に近づくとはいえ、こんなに薄かったら風邪をひいてしまう。
 薄絹は、染めも、織りも、刺繡も、特級品だった。
 それこそ皇帝や公主が身にまとうような。
 ゲッカ自身も絹をまとっていたが、それとは別格だ。
「お気に進みませんか?」
 春蘭が問う。
「姫様も、だいぶ背丈が伸びましたから、新しく仕立ててなければ。
 急ぎの用ですよ」
 大柄な女官はいくつかの薄絹を未だ幼さなさが抜けきれない少女の肩に合わせる。
「これ、全部、鳳から?」
 鳥陵皇帝の字を呼び捨てできるほどの寵愛だった。
 当人、まったく気がついていなかったが。
「そうですよ。
 それとも朱鳳に行きたくないのですか?
 せっかく太守もご一緒に行かれるのですから」
「……離れたくないけど。
 なんとなく嫌な予感がする」
 人が持つには過分と言われる稀有な双眸は、漠然と不安を訴える。
「それに建国祭は七月ですわ。
 秋になるまでお一人でこちらに居られますか?」
 春蘭は新しい薄絹をあてる。
 柔らかな薄絹は、淡い色合いが多かった。
 字である華月に合わせて、紅中心ではあったが。
「久々にファンに会えるのは嬉しいし、その新しい婚約者に会えるのは楽しみだけど」
 ゲッカは手紙に書かれていたことを思い出す。
 シミ一つない白い肌が怜悧でありながら無邪気なふるまいをして、人を魅了する麗しい十六夜公主。
 正しく一夜分だけ欠けた月。
 鳥陵皇帝であるホウスウが当時十七の時に、宴の席で吟じた言葉から誰とはなしに呼び始めた綽名。
 芸術に通じる洒落者のホウスウが好んで呼び、皇帝に即位したときに妹姫に号として贈られた。
 この大陸、唯一の公主。
 出会いこそ最悪だったが、ゲッカとは文通をする仲になっていた。
 小字のひとくさりを特に赦されて呼ぶことができる。
 という絶大な信頼関係を築き上げていた。
 十六夜公主曰く、当時『海姫』と呼ばれ王宮であった鷲居城でのゲッカの発音があまりにも耳障りだった、ということだった。
 すでに鳥陵皇帝だった鳳の字の発音だけは正しかったから、小字だったファンファン(鳳々)という音を教えられ、それを縮めてファンと呼んでいいことになった。
 以来、五つ年上のはずの公主の目新しい玩具のように可愛がられた。
 飛一族の末子として育てられた公主にとって、妹のような存在が欲しかったのだろう。
 親族とは縁が薄かったゲッカにはわかりづらい感情だったが。
「沖達とは離れたくないけど。
 心がざわつくんだよね。
 まるで、戦場に行くみたいに」
 ゲッカはそっと零した。
 あいかわらずその視線は床に落ちていた。
「あら、この大陸は平和になられたのですよ」
 春蘭は気落ちする主に向かって微笑みかける。
「……うん」
 ゲッカは頼りげなくうなずいた。


 同刻。海月城の立ち入り禁止区画に顔を出した男がいた。
 よく日に焼け、だらしなく鳥陵の官服を身に着けている。
 狭い書斎の書卓の上には、珍しい物が並んでいた。
「よお、鉄槌。しけた面してんな」
 堂々と部屋に入り、書卓に手を置いた。
 それを咎める風でもなく、海月太守であるカイ・ロウタツは作業を続ける。
「戦争でも行くのか?」
 慈恵は言った。
「心境としては近いな」
 珍しくロウタツが歯切れ悪く言った。
「……勝算は?」
「かなり分の悪い賭けだ」
 カイゲツの民に多い鉄色の瞳が弱気を呟いた。
「それでお姫さん、連れていくのか?」
「不安定要素はできるだけ減らしたい。
 私の生命ぐらいなら、かまわないが」
「あの堅実なカイゲツ宰相がね。
 そこまで分が悪いのか。
 俺は……城に残った方がいいのか?」
 慈恵は真摯に尋ねた。
「もし、私の身に何かあったらカイゲツを頼む」
 鉄色の瞳は覚悟を決めていた。
「そんな遺言みたいなことをマジで言わないでくれよ。
 二人が帰るまでは、何とかやっておくから。
 まあ、ほどほどにな。
 じゃあな」
 どこまでも陽気な男は、ひらひらと手を振ると立ち去った。
 残されたロウタツはためいきをかみ殺した。
 書卓の上に広げる。
 流麗な墨蹟で書かれた竹簡が一つ。
 鳥陵皇帝からの親書だった。
 同じ歳のはずの漢の真意が見えない。
 正確には理解したくない。
 そして、脳裏に掠めるのは弱冠にすらなっていない稀代の天才。
 鳥陵の一地域になったとはいえ、色墓の豪族の絲の当主であり続けた少年。
 あの息をするように人を殺すと呼ばれた絲一族の唯一の緑を赦された子ども。
 軍略の才とその厳しすぎる軍規を徹底させたことにより、白厳の君と呼ばれたかつての南城の城主。
 南城は対玉棺の要。
 それなのに、一度も焼け野原にされたことのない実り豊かな大穀倉地帯の主。
 色墓の戦いにおいて玉棺皇帝だった磊塊の首級を見事に挙げた功績として、列将軍。つまりは夏官の最高位を賜ったという。
 実力主義と囁かれ冷徹な鳥陵皇帝の勅命により直々に大司馬の位を与えられ、幸運なことに十六夜公主の婿として選ばれた。
 今のところ接点はないが、仲の良い『お友だち』と依怙贔屓した将軍位に山湖省の豪族の翔家の嫡男であるシャン・シュウエイがいるのだ。
 あの何でも扱うという闇の商人の息子が。
 顔見知り程度だが、どちらが情報網が上だろうか。
 ……賭けがでかすぎる。
 それでも引き受けない、という選択肢はない。
 カイゲツは鳥陵の一地域なのだから。
 鉄色の瞳がもう一度、竹簡を見やる。
 どこまでも冷静に。
 そして、気がつかれない程度に警戒を。
 ロウタツは己に言い聞かせる。
 カイゲツ最後の宰相だったころから変わらない願いのために。
 守りたいものはある。
 そのために、動くのは苦痛ではない。
 すべては『仁を欠くことなく』。
 それならば、己の命などは風が吹く前の塵芥だ。
 そんな覚悟はとうに決まっている。
 まんまと罠にはめられた気分だが。
 あまりにも狡猾な手管だった。
 同じ歳のはずの鳥陵皇帝の真意を知りたくなかった。
 皇帝というものは、そんなにも孤高なものなのだろうか。
 同じ人間なのだろうか。
 そして、のろのろとロウタツは出立の準備を密かに始めるのだった。
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