The Gift 07
「薬に頼っても乗り越えられないほどの重度な不眠症だ。
三大欲求が低下するのも仕方がないことだろう。
性欲の減退は、飲んでいる安定剤と睡眠薬の副作用でもあるしな。
しかも月経が重すぎてピルまで飲んでいるんだ
ホルモンバランスが崩れては当然、性欲は湧きづらい。
第一、女性の性欲のピークは30代以降だ。
心が満たされて、安定的な暮らしを手にしてから感じるものだ」
あっさりと《黄昏》は告げる。
私は驚きすぎて、立ち止まってしまった。新しい知識であったし、それほどまでの覚悟をして寄り添いあいたいという覚悟は非常に困難ではないのかと思ったからだ。精神愛すぎる。まるでそれでは、キリスト教におけるアガペーだ。神から子に与えられる無償の愛だ。見返りを求めない、という意味では『愛』だが、負担が多いというものではない。そこまでの価値が自分にあるとは思えなかった。
「私は何も返せない。
おそらく、これからも《黄昏》に負担をかけ続けることになる。
『結婚』したら、一生涯だ
死が二人を分かつまでだ」
私の声は自然と震えるものになる。
「誰よりもお前の幸福を願っていることは変わっていない。
だが、お前が俺の気持ちに応えてくれた以上は、違う欲求が湧いてくる。
お前が俺のものだと明確に縛りつけるために『結婚』したいんだ。
他の男に渡したくない。
死が分かつまでなんてもんじゃない。
有名な曲だ。
俺は『永遠の風』になりたい」
《黄昏》は真剣に言った。
紅白歌合戦で流行曲になった『千の風になって』のアンサーソングだ。墓の前にはいないなから泣かないでください、と慰める『千の風になって』に対して、どんなに遠く離れていても心は一つ、という歌詞だ。魂になっても、天国に行かないで、一緒にいると、見守っていると、出会えて幸せだった、と歌うのだ。そしてまたいつか一つの風になりたい、と歌は終わる。
ここまで想ってもらえるのは果報者なのだろう。おそらく一般的にはこれ以上、ないぐらいの幸福なのだろう。一生涯の愛を誓ってもらえるだけでも、手軽に離婚が行われる現代において、珍しいのだ。しかも私と《黄昏》の関係は世間的には奇異に映るだろう。確かに《黄昏》の両親は好意的に受け止めてくれるだろう。善良な人たちだ。むしろ祝福されるかもしれない。
何も知らない常識的な学生時代の友人たちは、長年の初恋が実ったと喜んでくれるのだろうか。ネット上の知人たちは、やっぱり付き合っていたのかと笑いあうのだろうか。
だが、本当のことを知っている人たちはどう思うのだろうか。私を見捨てた親族たちは、あるいはいまだに通っている病院の先生は、重度な精神障害を持つ私と健常者の《黄昏》の『結婚』は止めるのだろうか。
「俺の幸福を願ってくれるんじゃなかったのか?
だったら、多少は俺の我が儘に譲歩してほしいと思うのは贅沢か?」
《黄昏》は微苦笑する。まるで私の悩みなどちっぽけだというように。私は首を横に振る。
「それに両親にこの件を報告したら怒られるのは俺の方なのだからな」
《黄昏》は重々しくためいきをついた。
「どういう意味だ?」
「特に親父から散々釘を刺されたんだ。
お前は、妹だ、と。
たとえ血が遠いといっても、家族として、兄として妹の幸福を願え、と」
「《黄昏》はいつだって、そうだったじゃないか」
温厚な《黄昏》の父が怒るところは想像がつかない。
「兄として、やがて嫁いでいくお前を祝福しろと言われたんだ。
つまり、異性の目で見るな、と言われた。
手を出すな、と言われたんだ。
それで『結婚』するなんて報告をしたら、怒られるに決まっているだろう?」
「ああ、だから白い大きな箱は秘密だったのか。
受け取り続けていたことがバレたら怒られるな」
「変な風に納得しないでくれ」
《黄昏》は困ったように笑う。
「関係性を崩したのは私なのだから、私から伝えればいいのではないのか?
私が『私たちの関係は歪すぎる』と言うまでは現状を維持するつもりだったのだろう?」
私は確認する。
「そうだな。だが去年とは結果は違う。
俺はお前の気持ちを知ってしまったし、プロポーズをした。
そしてお前はそれを承諾した」
「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する。
すでに成人しているのだし、互いに独身なのだし、特に問題はないと思うのだが?
まあ恋愛期間をすっ飛ばしって『結婚』する、となると急なような気もするが。
恋愛結婚が重視されるようになったのは50年ぐらいの歴史しかない。
《黄昏》の両親は孫の顔が見たいと私に零していたぐらいだ。
《黄昏》が結婚するのは喜ばしいことではないのか?
結婚適齢期の息子が特定の女性を紹介してこないことを不安がっていた。
親同士のお見合い前提の交流会を開く検討をしていたぐらいだ」
私は不思議に思う。むしろ問題になるのは私のような気がする。
「……実家に帰りたくない話題が増えたな。
インターネット依存症で、仕事中毒で、婚活すらしていないなら当然か」
「他に問題があるのか?」
「世間知らずの血の繋がらない妹を、兄という立場を利用して手練手管で嵌めたと疑われるだろうが」
《黄昏》は噛み砕くように説明する。
「そういう見方もあるのか。確かに外聞は悪いな。
つまり『光源氏計画』か」
すでに成人していた大学生の《黄昏》が当時、中学生だった私を『理想的な大人』の女性として育てた。
それに成功した。
有名な本やアニメでないわけではない展開だが、非現実的すぎるから『萌え』になるのだろう。
傍から見たら、犯罪者だ。実際に事件になったケースもある。
「むしろ一般的にはそちらの見方の方が大多数だ」
「常識的な価値観とは難しいな。私が白い箱な大きな箱を受け取ったのは18歳からだ。
法律上は婚姻が結べる年齢だろう。
手を出した、というが、私たちの関係はほとんど変わっていない。
男女の関係に陥る際に使われると言葉だと認識している。
最低でもキスぐらいはするものでは?
むしろ私に合わせて慎重なぐらいだろう。
以前と違うのは意思ぐらいだろうか。
このことを正直に話せば小父さんも怒らないと思うのだが、希望的な観測すぎるのか?」
私は小首をかしげる。
「それを馬鹿正直に話したらお袋から笑われそうだな」
《黄昏》はゆっくりと歩き始める。だから私も歩き出す。いつまでも立ち話をしていたら、家に辿りつかないから仕方がないだろう。電車が混雑する前に帰りたいのだろう。それは私も同感だった。
「そういうものなのか?」
「草食系男子だと思われているからな」
「それは一面にしか過ぎないだろう。
学生時代にモテたのに、私と出会ってから特定の『彼女』を作らなかったと《グングニル》から聞いたことがある。
まあ、早い段階で私という問題児の面倒を半ば強制的に押しつけられたから、青春を棒に振ったともいえなくもないが。
私の見ていないところで自由恋愛を楽しむ余裕ぐらいはあったはずだ。
というか男性だったら自然な心理なのではないのか?」
私は《黄昏》の横顔を見上げる。一生懸命に表情から感情を読み取ろうとする。そういうところは出会った頃から変わらないような気がする。無意識に働いていた生存本能だったのだろうか。それともすでに身近な異性として見ていたのだろうか。自分でもわからない。
「ネット社会に引きずり込んだのは失敗だったな。
ここまでハマるとは予想していなかった。
肝心な社会性は身につかない代わりに、男同士の話に慣れすぎている。
《グングニル》もお前には何でも話すな」
《黄昏》はうんざりとするように言った。確かにオンラインゲームにいるような人物は男性が多い。少なくとも私の周囲にいる友人たちは、ハマったりはしなかった。もっと手軽な家庭用ゲームとかで遊んでいたし、そういうのも一過性だった。
「《グングニル》は古い友人なのだろう?
親友と呼んでも差し支えないのない間柄だと判断しているのだが。
私と《黄昏》の関係性を知っている上で、インターネット上では公表しないという道徳心がある。
それに私も《グングニル》は何かと恩を受けているからな。
物知らずの私を妹のようにフォローしてくれている。
下心もなく100%善意だ」
私は引き取られてから恵まれていると再確認する。気にかけてくれる存在がいるというのはありがたい。常識知らずの私に丁寧に陽気に教えてくれる。《黄昏》と違う意味で、気配りが行き届いている。《黄昏》が教師なら、《グングニル》は年の離れた悪友なものだ。
「周囲の期待に応えるのは大切だが、外面を良くしたいだけだろう。
自分の評価を上げるために、公平に振る舞うのは処世術としては有効だとは私ですら理解はできるが。
それにしても、いくら善良的な人物な親だとしても期待通りに生きなければいけないわけではないだろう。
親離れ、子離れは大切だろう。
自分のために人生を歩んだらどうだ?
いわゆる反抗期がなかったのだろう?」
《黄昏》はドライだと評価されるのに、親子関係になると異なる。当たり障りのない関係ではなくなる。頼られて断ると面倒なことになると私にも理解はできるが、あまりにも良い子どもであろうとする。親が望んだ学校に通い、親が望んだ仕事に就いている。例外があればインターネット依存症なところであろうが、現代であれば趣味の範囲で押さえている。私のように依存しているようには見せていない。
「お前に言われたくないんだが」
「育ててもらった手前、こういうのは礼儀に反していると思うが、実の親ではないからな。
感謝しているから、尊敬はしても、反抗する気にもなれない。
それに進路を反対された時に、庇ってくれたのは《黄昏》だった。
もし最後まで反対されていたら、反抗期らしきものを覚えたかもしれないが、最終的には賛成された。
私が保護者離れをしようとする前に、物理的な距離を取ったのは《黄昏》の方だろう?
その後も、付き合いが良かったからな。
このまま兄妹として過ごしていくものだと信じていた」
私は待ち合わせ前と異なる結果に途惑う。これからは小母さん、小父さんと呼ばずに、お母さん、お父さんと呼ぶようになるのだろうか。引き取られた時に、ひどく落胆されたことを思いだす。それでも実の両親を大切にすることは悪くないことだと微笑んでくれた。そういえば《黄昏》のことをお兄さんと本人に呼んだことがなかったことに気がつく。何と呼べばいいかわからずに、いくつか使い分けをしていたハンドルネームの一つを教えられてから、それを呼ぶようになってしまった。当初は嫌がったものだが、修正不可能だと思ったのだろう。《黄昏》は諦めた。外でも、ネット上でも《黄昏》は《黄昏》だった。私がオンラインゲームを渡り歩くようになってからは、基本的に《黄昏》で通していたような気がする。
「じゃあ、これが初めての反抗期だな。
生まれて初めて親の期待に背くんだからな。
まさか自分の親に『結婚』の許可をもらいに行くとは想像したことがなかった。
未来なんてそんなものだといえばそんなものだが」
《黄昏》は言った。妙に達観して距離を置こうとする。自分ことなのに客観視している。頭が良すぎる弊害だろうか。いくつかの事態をシミュレーションをして、最適を選択しようとする。
「これからは戸籍上の名前で呼んだ方がいいのか?」
私は念のために確認をした。
「できるのか?」
《黄昏》は驚いたようだった。
「《黄昏》が私のことを《shi》と呼ぶより社会的だろう。
それぐらいの常識はある。
友人の前や職場ではそちらを呼んでいたぐらいだ。
何故、《黄昏》と呼ぶか一から説明しても理解してもらえることは難しいからな。
たいてい奇妙な顔をされる。だったら手っ取り早い方を選ぶだろう」
「じゃあ、何だって今まで本人の前で呼ばなかったんだ?」
《黄昏》が尋ねる。
「呼んでほしかったのか?
それなら悪いことをしたな。私としては《黄昏》は《黄昏》だという認識が強すぎる。
早い段階で諦めたから納得しているのかと思っていた。
それに周囲に説得していたのは《黄昏》だったという記憶があるのだが?
それに《黄昏》もほとんど私の戸籍上の名前を呼ばないだろう?
咎められたことをしたとは思っていないのだが、やはり常識からズレているのか?」
私は小首をかしげる。
「俺が《shi》と呼んでいても、愛称にしか聞こえないだろう。
てっきり病理的に修正不可能なこだわりの一つだと思っていたぞ」
《黄昏》は言う。確かに私の戸籍上の名前を知っている者には、《shi》という呼び方はさほど不自然ではないだろう。音の並び的には愛称に響くだろう。実際、《黄昏》の両親も違和感を覚えているように見えなかった。
「こだわっているのは今も変わらない。
だが、それで社会生活を送る上に不利だとしたら、努力して修正していくものだろう?
それに《黄昏》から《shi》と呼ばれるのは嬉しく感じるのだが?
私が初めて選択した私の名前だからな。戸籍上の名前で呼ぶのはごく一部だ。
友人や職場の人間は姓で呼ぶか、《グングニル》のように《shi》ちゃんと呼ぶ。
仲の良い人物に頼むとだいだい、そういう結果になるな」
私は答えた。
「誤解を与えていると思うぞ。
愛称で呼んでほしい、と思われているんだからな。
つまり親密な関係になってほしい、と世間的には思うだろう」
《黄昏》は忠告めいたことを言う。
「結果的に問題はないだろう?
リアルでは親しい人物にしか呼ばれたいとは思わない。それぐらいなら姓の方がマシだ。
第一、戸籍上の名前を呼ぶような男性は好ましく思えない。生理的嫌悪を感じる。
トラウマなのだろうか?
学生時代、呼ばれる度に姓で呼ぶように訂正を求めていた。
こうして手をふれられても我慢できるのは《黄昏》ぐらいなものだ。
たとえ痴漢でなくても、親愛の情だとしても、嫌悪を感じる」
私が話すと《黄昏》が複雑そうな顔をした。やはりこの手の話題は隠しておいた方が良かったようだ。
「だから男が寄りつかなかったのか」
「男に寄りついてほしかったのか?
まあ兄の立場なら当然か」
いつまでも世間知らずの箱入りの危なっかしい妹がいたら、見捨てられずに自由恋愛ができないだろう。
「だが、白い大きな箱を贈り続けていたのに、だいぶ矛盾した考えだな。
矛盾した考えを同時に持つことができるのは人間らしいと思うが、《黄昏》はもう少し合理的な判断ができると考えていた」
「だから一年一度の楽しみにしていたんだろうが。
兄としてさほど不自然な振る舞いではないだろう。
迷惑をかけることなく、綺麗な想い出になるからな」
「ずいぶん理知的だな」
恋は盲目という言葉からかけ離れているような気がする。
「誰よりもお前の幸福を願っている、と言っただろう?
兄としてできる最大限の譲歩だ」
《黄昏》が言った。だいぶ父親から刺された釘が強すぎるような気がする。
「《黄昏》は親の期待に応えすぎなのでは?
一般的に好意を寄せる女性がいたのなら、もう少し明確な意思表示をすると思うのだが?
全部、遠まわしだったぞ。
それに私の場合、輪をかけて鈍いと知っていたはずだろう?
あるいは兄としての立場を全うするつもりなら、とっとと『結婚』すればよかったじゃないか。
両親も納得しただろうし、私自身も納得できただろう。
恋愛と結婚は別物だというしな。
多少の好意があれば、条件に適っていれば問題ないだろう」
私はやはり《黄昏》の考え方が納得がいかなかった。
「そんなに簡単に割り切れたら贈り続けない。
想うだけなら自由だというだろう?
お前が幸福になったのを見届けてから『結婚』は考えるつもりだった」
《黄昏》はごく普通に告げる。あまり愛の告白に聴こえないのは、私の感性が鈍すぎるからだろうか。
「今までたくさんの出会いがあったはずなのに、どうして私を選ぶのか理解できない。
本質的に他人と距離を開けるはずの《黄昏》が私に積極的に関わりあおうとするのか。
むしろ狂気沙汰に近いぞ。
私にはそこまでの価値があるのか、疑問だな」
思考をまとめるために私は口に出す。
「俺がどれだけ距離を開けても、ずかずか入りこんできて、やたらと迷惑をかけてきたお前が言うのか」
「これから先も変わらないぞ」
私は言った。どう考えても対等な関係になれるわけがない。きっと染みついていしまった疑似的な兄妹という枠から囚われ続けるであろう。いつだって《黄昏》は私を守ろうとするだろうし、私はそれを疑わないだろう。健常者同士の『結婚』とは違う。私は気がつかないうちに《黄昏》を鈍感に傷つけるだろうし、迷惑をかけ続けるだろう。
「ハッキリ言えば、そこまで無神経なことをしてきた奴はお前だけだ。
たいていの人間は深入りしてこないし、適度な距離を取る。
冷たくされるのはあまり嬉しいものではないだろう。
しかも『偽善』だ。他人のために行動をすることはほとんどない。
全部、自分のためだ。
利用されていることに気がついて、立ち去ることが当然だ」
《黄昏》が過去を振り返るように言った。
さすがに哲学書や心理学を読み漁れば当然として出くる仮説だ。私は私を知るために読んでいた知識が《黄昏》に役に立つとは思えなかった。
「孤独だったんだな」
私の言葉に《黄昏》は驚いたようだった。そして、すぐさま理解したのだろう。《黄昏》は微苦笑した。
握られたままの手がほんの少しばかり力を込められた。
「頭が良すぎるのも考えものだな。
幼少期に素直に寂しいといえば違ったかもしれないのに。
高すぎる知性が邪魔だったのだろう?
そんなことを言ったら、周囲がどういう対応をするかわかりきっている。
やっぱり私たちの関係は歪すぎる。
けれども互いを補完できる、という意味ではちょうど良いのかもしれない。
本音をさらけだせる相手がいるということは幸福なはずだ」
私は言った。それが私たちの答えなような気がする。少しは役に立てることは幸いだ。
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