#02
人生で一番、考えた日。
それは学校を受験したときでもなかったし。
初めて、男の人の家に泊まった日でもなかった。
風邪引くと、寂しくなったりしない?
あたしはすっごくなる。
親、共働きで、家にいないこと多かった。
小さい頃からずっとそうだった。
朝起きると、4人掛けのダイニングテーブルの上に、ポンと万札が置いてあるの。
枚数はまちまち。
お札は置いてない日もある。
そんな日は、ご飯食べられなくなっちゃうんだけど。
あたしは財布の中に、それをしまって家を出る。
輸入家具で良い値段したテーブル。
お母さんが気に入って、ローン組んでまで買ったヤツ。
ここで、ご飯食べたのって、思い出せない。
だから、あたしは風邪引くと学校に行ってた。
家にはお金があったけど、食べ物はなかったから。
この話は、今、思い出すと馬鹿っぽいんだけど、あたしは真剣だった。
***
学校にたどりつくと、声を掛けられた。
「アユちゃん、大丈夫?
しんどくない?」
「薬は飲んだのか?」
カズとセキは、よく二人でいる。
流行の格好とスーツでちぐはぐだから、目立つ。
顔も悪くなかったしね。
ちらちら女の子の視線が集まってくる。
そういうのも気分が良かった。
興味あるなら、声かけてくればいいのに。
「あ、おはよう〜」
「おはようじゃないな。
直井サン、熱あるでしょ」
「え、マジ?」
心配って顔したカズがあたしの右手をとる。
何するんだろう。
あたしは、カズの行動を眺めていた。
っていうか、カズの手がぬるかった。
お風呂の中に入ってるみたいで、人肌って感じがしなかった。
カズは、アナログの時計を見つめながら、渋い顔をする。
「脈が早くて、弱い。
風邪かな。
平熱、どのくらい?」
カズが訊く。
平熱なんて測ったことがない。
正確には、ちゃんと覚えてない。
婦人体温計ですら、1週間でぶん投げた。
「34.0度ぐらい?」
「それじゃ、死体だ」
セキは呆れたように言う。
死体にも体温がある、ということをあたしは初めて知った。
死んだら、人間はカチンコチンになっちゃうと思ってた。
5年前に死んだおじいちゃんがそうだったから。
死んでも体温があるなんて、不思議だった。
「ふーん。そうなんだ」
「アユちゃん、喉渇いてない?」
「そういえばちょっと、渇いてるかも」
***
それで、学食まで連れてかれた。
半地下になってる一号館の食堂は、あんまり人がいなかった。
薄暗いから人気がないんだ。
安っぽい椅子に座ると、もうダメ。
立ち上がる元気もなくなちゃって、あたしはテーブルに突っ伏した。
清潔感に欠けてるから、普段だったらしないんだけど。
思ったよりも風邪は、あたしの体の中で元気だったらしい。
「ほら」
目の前に500oのペットボトルが置かれた。
カズの手と比べて、セキの手は小さい。
その分、指が長いから、女みたいにキレイだった。
マニキュアが良く似合いそう。
真っ赤じゃなくて、上品なベージュピンク。
お嬢系って感じの。
長い指がピルケースを開ける。
短く切りそろえられていて、艶めいている。
男の手なのに、ゾクゾクする。
「熱以外の症状はあるのか?」
セキは尋ねる。
それ以外の症状?
朝からずっと感じてるのって……一つしかないよ。
「寂しい」
あたしは素直に言った。
出会ってもう9ヶ月。
隠し事するようなアレでもない。
こういうときセキはそっけない。
変な同情をしない。
そういうトコ嫌いじゃなかったんだけど、風邪のときは別。
寂しくて死んじゃいそうなあたしには、ヒドイヤツに見えた。
親身になってくれるのは、決まってカズだった。
よく考えてみると、二人は役割分担してたのかもしれない。
そんなのは、当時のあたしにはわからなかったし。
「病気のときは、そうだわな。
オレ去年、高熱出たんだけど、そんときは辛かったね。
小学校に戻りたくなったもんな。
病院でお世話になるまで、寂しかったな」
「カズの家も、共働きなの?」
「ああ、片親なんだ」
さらっとカズは言った。
気負いない言葉に、あたしは悪いことを訊いてしまった、と後悔した。
「今時って感じっしょ。
それに珍しくもないし」
「ゴメン」
何となくあたしは謝った。
謝るのって、自分が負けたって宣言するみたいで、好きじゃなかったんだけど。
自然に口から出てきた。
……たぶん、風邪引いて寂しかったせい。
感傷的ってヤツ。
「一応、総合感冒な。
粉のほうが効きが良いけど、錠剤のほうが楽だろ?」
セキは言って、大人一回分が個包装された薬をくれた。
女のあたしより用意がいい。
スポーツドリンクで、薬を飲んだ。
それからカズが「ミニうどん」をおごってくれた。
うどんは、消化に良いんだって。
物足りないはずのミニサイズがちょうど良かった。
面倒見られてる。
それが気持ち良かった。
学校来て、正解。
この後も風邪を引いては学校に行ってた。
元気のとき『自主休講』してるから、「逆だろ」って、からかわれたりした。
話は、まだ終わらない。
それから、1週間後のこと。
その日はあたしの人生、最大の後悔日になった。
……少なくとも、あれほど不安でいっぱいの一日を超えちゃうのは、経験していない。
***
いつも来ているはずの、モノが来なかった。
生理が、1週間も経つっていうのに、来なかった。
28日周期なんだけど、これが狂ったことはほとんどなかった。
体ができてないっていうの?
中学生ぐらいまでは、遅れたり、一月来なかったりしてたけど。
高校入ってからは、28日で毎月、来ていた。
おかげで一月に2回来ちゃうこともあって、あんまりありがたくなかったし。
計算も面倒くさかったから、手帳に赤丸つけておしまいにしてたんだけど。
それがこの月は、来なかった。
理由は……。
こういうとき、思い当たるフシがありすぎんのが困っちゃう。
妊娠。
あたし、妊娠しちゃったんだ。
目の前、真っ暗になる。
それを経験したの、初めて。
よくわかんなかったけど、気がついたら電話していた。
手帳開いて、指折り数えて、日数を計算して。
その後、携帯電話を鳴らした先は――。
――直井サン?
セキだった。
声を聞いた瞬間、何とかなりそうって思った。
こんなことは親に言えないし。
女トモダチは頼りになんないし。
カレシたちは、もっとダメ。
「どうしよう。
……大変。たぶんだけど」
――はあ。
で、今、どこ?
「駅前のカフェ」
――んー。
この後、講義ないし。
20分待てるか?
「平気だけど……?」
――そこ、動くなよ
「え、何で?」
あたしが聞き返す前に、ケータイは切れた。
通話してない音が耳に響く。
ケータイを切って、20分間、そこに座ってた。
20分だったかはわからない。
でも、セキが来てくれるまで、そうしてたから、たぶん20分間。
あたしはぼんやりしてた。
そこのカフェは、ニューヨークのカフェみたいに、道路に面した壁が窓ガラスになっている。
道行く人がガラス越しに見える。
あたしは窓際の席が好きだったから、この日も、座っていた。
だから、セキが走ってくるところが見えた。
スーツ着た男が走ってるなんて、目立つから。
一目でわかった。
泣いちゃうかと思った。
……涙が出そうなぐらい感動した。
実際には、出なかったけど。
***
「戸田は後から来るってさ。
どうしても代返がきかない講義だから。
で、何があったんだよ」
セキは尋ねた。
「生理が来ないの」
「…………。
言う相手、間違えてないか?
俺の子じゃないだろう」
「知ってる。
でも、誰に話して良いのか、わからなかった」
「……父親は?」
「え、お父さんに話すの?」
「直井サンの父親じゃなくて。
共同制作者のほう」
「わかんない」
「わかんないって。
まだ、話してないのか。
じゃあ、決められないよな」
「そうじゃなくって。
誰が父親か、わかんない」
あたしの言葉に、セキは顔をしかめた。
何か言いたそうにしてた。
怒鳴られるかと思って、ビクビクしてたら。
「良い機会だから、手帳にでもつけておけ。
寝た男の名前」
セキは呆れたように言った。
「怒んないの?」
「怒られたいのか?」
「説教されるのかと思ってた」
「自由恋愛だ。
自分で責任を取れて、他人に迷惑をかけなきゃいい」
「セキって、サバサバしてるね」
「直井サンほどじゃないけど?
で、どうするんだ。
腹の子」
「どうしよう」
あたしには、どうしていいのか、わからなかった。
子どもが欲しかったわけじゃないから、避妊には気をつけてた。
ピルを飲んでいたわけじゃないから、100%ってわけにはいかないけど。
危険日っぽい日にはしなかったし、コンドームもつけてもらった。
でも、妊娠しちゃった。
考えてもなかった。
赤ちゃん産むのは結婚してから、だと思ってたから。
もっと先だと思ってた。
「先週のは風邪じゃなくって、妊娠したからか」
セキが呟いた。
お利口じゃないあたしでも、知ってることがある。
それが頭の中を駆ける。
「薬、飲んじゃったよ!
どうしよう……。
赤ちゃんに悪いんでしょ?」
あたしの言葉に、セキは本当に困ったような顔をした。
それから落ち着いた声で言う。
「直井サン」
って。
諭すような声だったから、あたしは姿勢を正しちゃった。
「子ども育てるのは、大変だよ。
後悔するし、苦労だってする。
みんなが遊んでる間に、直井サンは子育てしなきゃいけないから、遊べなくなる。
我慢もいっぱいする。
たくさん堪えても、誰も褒めてくれないし、当たり前だって言われる。
子どもを産むってそういうことだ」
セキは言った。
すっごく当たり前のことを、ちゃんと言った。
あたしは改めて、事の重大さを知ったりする。
気持ち良いからHしただけ。
「まだ産むって決めてないけど」
「産みたいんでしょ、直井サンは」
「わかんない」
あたしは言った。
どうしていいか、わかんない。
産むとか、堕ろすとか、考えられない。
でも、あたしは産みたいの?
セキは産むの前提で、話してくれてる。
「堕ろすつもりだったら、相談しないだろ。
金貸してー。
名前貸してー。
で、話は終わり」
セキは皮肉げに笑った。
そう言われてみれば、そうなのかもしれない。
……あたしは産みたいのかな。
でも、覚悟とか、全然、ない。
シングルマザーなんて無理だし。
まだ学校もあるのに……。
貯金もないし。
それよりも、どうやって親に話せばいいのか。
想像ができない。
「悪いんだけどさ。
俺は直井サンの背中を押せない。
自分の子じゃないしね。
父親になってやる、なんて無責任なことは言えないし。
協力だって最小限しか、する気はない」
キッパリとセキは言った。
セキのスタンスは、悪くないと思う。
っていうか、クールだと思う。
それで、大人で。
優しい。
できる範囲をきちんと教えてくれるし。
「やる」って言ってくれたことは、ちゃんとやってくれる。
都合の良いことばっかり言って、途中で見捨てたりしない。
だから、あたしは「どうしよう」と考えた。
きちんと考えなきゃいけないって、思った。
でも、今まできちんと考えないできたし。
面倒なことから全部逃げてきたから。
こうやって、真剣に考えなきゃいけないことにぶち当たって。
考えられなくなった。
ちゃんと「考えたこと」なかったから。
考え方がわからなかった。
ひたすら、どうしようって思った。
自分で決められなかった。
ずっと沈黙していたセキが言う。
「明日、産婦人科に行くといい」
「検査薬、買ったほうが良いのかな?」
「あんなの目安だろ。
それに生理が遅れるのは、妊娠だけじゃない。
産むんでも、堕ろすんでも、産婦人科のお世話になる。
早いうちがいい」
「う、うん」
がくがくと指が震えた。
明日病院に行く。
産婦人科。
産婦人科に行く。
明日。
もう夕方だから、15時間ぐらいしたら。
あたし、産婦人科に行って、病院の先生に言うんだ。
妊娠したかもしれない、って。
怖い、と思った。
未来がわからない。
「お金、あるのか?」
「え?
えーっと、ちょっと待って」
突然訊かれて、あたしは財布を見た。
今日はダイニングテーブルの上にお金が置いてあった。
ご飯食べて、少し減ってるけど。
「2万ぐらい? あるよ」
「病院行くとき保険証、出すだろう?」
「うん」
あまり病院に行ったことがないから、よくわからない。
あたしは、うなずいておいた。
セキが嘘をつくことはなかったし、こんなことを嘘ついても仕方がないから。
「直井サン、扶養家族だと思うんだけどさ」
「?」
「自分の保険証、持ってないよな。
こういうの」
セキはカバンから、薄っぺらい紙を出した。
淡い色したそれはビニールのカバーがかかっていた。
『国民健康保険被保険者証』って書いてある。
セキの名前も書いてあった。
「持ってない」
「直井サンの親が持ってると思うんだけど。
これ一世帯……一家族ね。ごとに、持ってるはずだから。
病院かかるときに、これを使うと医療費が安くなる。
かわりに、世帯主に……直井サンの父親だと思うけど、にお知らせが行く。
何月何日に、どこそこの病院に、直井サンが行って、いくらいくらの治療をしました。って」
「使わなければ、バレないんでしょ」
「十割負担になるから、医療費がだいたい3倍になる」
「セキ、よく知ってるね。
中絶させたことあるの?」
「……ないけど?
病院に行くのは、子どもを堕ろすときだけじゃないだろ。
今、通院中なの。
最初に保険証持っていくの忘れて、痛い目にあったんだよ。
まあ差額は、すぐに返ってきたけど」
「セキ、どっか悪いの?」
「急性胃炎。
この間のコンパで飲みすぎた。
もう、治りかけだから、心配すんな」
「大変だね」
「直井サンほど、大変じゃないけど?」
セキが苦笑した。
あたしは病院に通うってことがなかったから、「通院」って聞くとすごい病気な気がしちゃうんだけど。
逆に、セキは病院が好きらしい。
ちょっと具合が悪いだけでも病院に行くって。
「急性胃炎」はそんな大きな病気ではないって、あたしが知るのは後のこと。
このときは、どんな病気か想像もついていなかったんだ。
セキは色々話してくれた。
あたしが病院に行くのを怖がってる、と気がついたんだと思う。
で、そうこうしているうちにカズが来た。
やっぱり、走ってきてくれて。
トモダチっていいなぁ。
って、思っちゃった。
二人は頼りになる。
柄にもなく。
ホント、感動しちゃったんだ。
カズは話を聞いてくれて。
で……。
***
「オレ、付いて行ってやるよ」
カズは言った。
気前の良いカズは、三人分のキャラメルマキアートを頼んでくれた。
甘いものが飲みたかったんだって。
セキはちょっと嫌な顔してた。
考えてみれば、急性胃炎なんだから、エスプレッソの入ったマキアートはNGだよね。
デカフェのコーヒー、飲んでたぐらいだし。
「どこへ?」
って、あたしは訊いちゃった。
間抜けだよね。
「病院に一人で行くの、心細くない?
だからさ。
頼りになんないかもしれないけど。
まあ、何ていうの?
二人のほうがハッピーになれるじゃん」
「産婦人科だよ。
お父さんになる人だって、勘違いされちゃうかもよ」
「いいよ。
オレ、産婦人科行ったことなし。
楽しそうじゃね?
男一人じゃ、入れないトコでしょ」
カズはマキアートをかき混ぜながら言う。
甘いキャラメルの匂い。
ホッとした。
「悪いよー」
あたしの不安は溶けていった。
話聞いてもらえたし、心配してもらったし。
相談にも乗ってもらったから。
ちょっとは「考える」ができそうだった。
「産むんだったら、その子の父親になっても良いよ」
カズは言った。
あたしはビックリした、もちろんね。
だって、産むって決めてないし。
病院に行くってだけで、決心するまで時間かかちゃったし。
セキを呼んでから、もう2時間近く。
カフェで2時間もいたら、アレだよね。
営業妨害って感じ。
で、カズの言葉は「ありえない」。
カズの子じゃないもん。
お腹にあるはずの生命がカズの子っていうのは、無理。
キスだってしたことなかったから。
カレシたちだって、あたしが産むって決めたら、迷惑な顔をすると思う。
でも、カズは笑顔だった。
「ありがとう」
って言っておくことにした。
だって、気持ちが嬉しかったから。
「でも、ちゃんと考えてからにする」
あたしは「考える」って決めたからね。
もっとたくさん情報を集めて、それから決めたいと思った。
健気にも「決意」ってヤツをした。
その後、5分もかからなかったと思う。
妙に覚えのある鈍い感覚が、お腹の下あたりでしたんだ。
***
あたしはトイレに駆け込んだ。
生理が来た。
この日ほど、生理が来たことが嬉しかった日はなかったよ。
ほら、初めて生理が来た日は、どっちかって言うと恥ずかしかったし。
だから思わず
「生理がきたよー!」
トイレから出たあたしは、セキとカズに大声で言っちゃった。
生理が来るってのは、女の自分にとって当たり前なんだけど。
Hしたら妊娠するのも、人間だから当たり前なんだけど。
嬉しくって仕方がなかった。
やっぱり、赤ちゃんは「産もう」って決めてから、作りたいしね。
将来、胸を張って言えるから、さ。
「おめでとう。
父親になりそこなちゃったか〜」
カズは言った。
こういうときのカズって、ホント良いヤツだよね。
ちゃんと、あたしに合わせてくれるし。
常識的なセキは、キャラメルマキアートを美味しくなさそうにすすっていた。
無視してくれたわけ。
***
この後、生理は順調に来て、遅れるってことはなくなった。
どうしてこのときだけ、こんなに遅れたのか、今でもわからない。
風邪引いて、ホルモンバランスとかいうのが崩れた、のかな。
ストレスがかかるのも良くないって。
男二人に教えられちゃって。
何がなんだかって、感じ。
それから、あたしは男の整理をした。
全部と別れちゃった。
キレイさっぱり。
妊娠が怖かったし。
手帳に寝た男の名前を書いておくのが面倒くさかったし。
これが、あたしの一番、後悔した日。
自分の行動っていうか、無知さ加減が嫌になった日。
今日の話は、こんなトコ。
思い出すとパニックしてた自分が、恥ずかしい。
今のところ、これ以上に、後悔した日はないよ。
「考える」ようになったからかな。
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