T・銀の騎士

Weil anheut


 茶褐色の髪を持つ青年は、熱心に一枚の絵を見上げていた。
 灰色の瞳は、まるで祈るように真剣であった。
 絵の中の貴婦人は、燦然と輝く金の髪と灰青色の瞳を持ち、柔らかな微笑をたたえ、父なる神に祈りを捧げているところだった。
 梨の花を思わせるような楚々とした横顔で描くのは、ローザンブルグ地方独特の画法であった。
 このエレアノール王国で知らぬ者などいない聖王妃アネットの少女時代の絵である。
 マイルーク子爵の娘であった頃の絵姿に、現マイルーク子爵は聖句を捧げる。
「全てが光で満ち溢れますよう」
 レフォール・ジェイド・ローザンブルグの声は、礼拝堂のようにがらんとした中で響く。
 銀の騎士のみに許される瑠璃色のマントをひるがえし、青年は歩き出そうとして、立ち止まる。
「もう、行くのか。
 まったく、親不孝ものめ」
 ローザンブルグ公爵は、大げさなためいきをついてみせる。
「父上」
「王命とはいえ、そう急く必要はないだろう。
 朝のお茶を共にしたところで、かまうまい」
「大切なお役目ですから、父の願いとはいえ、お聞きするわけにはいきません」
 レフォールは言った。
「母の願いも、無視するのだな」
「母上が王都にいらっしゃるのですか?」
 それは異なことを、と灰色の瞳の青年は眉をひそめる。
 マイルークを含むローザンブルグ地方は、王都よりもずっと北に位置する。
 生粋のローザンブルグ娘の母は、土地から離れることを嫌がっていた。
 それは父である現公爵が王宮に伺候し始めても変わらなかったし、レフォールが成人し騎士として王宮に上がってからも変わらなかった。
「国王陛下たっての願いに、結婚して二十五年目にしてようやくの社交界デビューだ。
 私はようやく従弟殿に、最愛の女性を紹介できるというわけだ」
 国王とは従兄弟同士にあたる公爵は笑った。
「それはよろしかったですね」
「ラメリーノも来ると言っていた。
 今のうちに覚悟しておくんだな」
「ラメリーノ姫までですか……。
 どんな風の吹き回しですか?」
 気の強い従姉姫まで王都に来るとは、レフォールはいぶかしがる。
「懐かしかろう。
 もう半年も会っていないのだからな。
 話は簡単だ。
 ラメリーノは、身なりにうるさい娘だから、王都の流行を知りたいと思った。
 我が妻は、一人で王都に来るのが嫌だった。
 わかりやすい利害の一致だ。
 ……聖王妃の肖像は、こちらの方が多いからな」
 公爵は祖母に当たる女性の絵を見上げる。
「ローザンブルグ城には、数枚しかありませんでしたね」
 生まれ育った居城を思い出し、レフォールもまた絵を見上げる。
 聖王妃の生まれ育ったマイルーク城と、嫁いだ王宮の二つの城には肖像が多い。
 次いで多いのは、ローザンブルグ公爵の王都の居城。
 つまり、この城だった。
 初代ローザンブルグ公爵は、娘の肖像をかき集めて、この城に飾ったという。
 公爵が娘と共に王都に上ったまま、故郷には帰らなかったため、結果的にローザンブルグ城には肖像が少なくなってしまったのだ。
「一番美しかった時代の聖王妃を見るとはりきっていたよ」
「母上がですか?」
「聖王妃の次に美しい、と言われるのに飽きたそうだ」
「それは父上が悪いのではないですか?」
「私の口は、なにぶん正直でな」
 けらけらと公爵は笑う。
「もし、私に最愛の女性ができたら、そのような失礼なことは言いません。
 この世界で一番美しい、と言います」
 真面目な青年は言った。
「おお、それは楽しみだ。
 早く孫の顔を見せておくれ。
 その前に、相手だな。
 どんな相手を連れてくるか、楽しみだよ。
 お前が成人してからというもの、来る日も来る日も待ち続けているというのに――」
 公爵はいかに楽しみにしているかというのを、切々と訴える。
「妻帯するには、まだ早すぎます」
 レフォールはこの春に、19になったばかり。
「そんなことはないだろう。
 私がお前ぐらいの時には、プロポーズをしていたよ」
「それはお二人が幼なじみであったからでしょう」
「マイルーク子爵夫人は、ローザンブルグ娘ではないのか。
 まあ、それもかまわないが、苦労するぞ」
 公爵は言った。
「それは、まだわかりません」
「お前が心動かす姫ならば、私たちは反対はしないよ。
 だから、早く――」
「父上、そろそろ」
 レフォールは父の話の腰を折る。
「おお、そうだったな。
 銀の騎士レフォール、光がそなたと共にあらんことを」
 公爵は指で祈りの形をつくり、厳かに言う。
「父上にも、光がありますように」
 レフォールは立礼した。

 ◇◆◇◆◇

 エレノアール王国は、ここ四代ほど賢明な君主に恵まれ、平和であった。
 国王には二人の王子と三人の王女がいた。
 子どもたちは健やかに育ち、争いごともない。
 それは、国王の一番初めの子である第一王女の功績だ、と言われている。
 一歳の誕生日を待たずに神殿の巫女となった王女は、日々を祈りの中で過ごしている。
 かの王女の祈りが、エレアノールを包み、人々から争いを奪っているという。
 その第一王女が神のかんなぎの役目を終え、唯人に戻る日が来たという。
 無論、父たる神は新しいかんなぎを選んでおり、神殿の方は何の滞りもない。
 エレノアール王国では、10年から20年に一度起こる、盛大な祭りのようなものだった。
 国王夫妻にとっては、ほとんど抱くことのできなかった我が子の帰還である。
 その喜びは、とても大きいものだった。
 華やかに馬車を出し、行列を作り、堂々と我が子を迎えたかったに違いない。
 けれども、父たる神は清貧を旨とする。
 重臣たちは何度も話し合い、神殿とのやり取りをし、信頼できる騎士を迎えとして出すことにしたのだった。
 その役目を仰せつかったのは、銀の騎士レフォールだった。
 王女と曾祖母を同じくし、現マイルーク子爵。
 勤勉実直であったことから、諸侯は納得したのであった。


 この日も、少女は祈りを捧げていた。
 神殿で育った少女にとって、祈りを神に捧げるのは、とても自然なことであった。
 くるぶしまでのベールを被り、祈りを捧げる姿はまさしく神の愛娘。
 セルフィーユ・アウイン・ハーティンは昼の勤めを果たし、礼拝堂を後にした。
「とうとうこの日がやってきたんですね」
 年のころは、17、8の乙女――ガルヴィが涙ぐみながら言う。
「ええ」
 セルフィーユはうなずいた。
 もうすぐ16歳になる少女は寂しそうに礼拝堂を振り返る。
「ご両親にお会いできますね」
「ガルヴィも、ようやく両親に会えるのね」
 セルフィーユは言った。
 侯爵家の末娘は年の頃がちょうど良いと、第一王女と共に大神殿に預けられたのだ。
 実の姉妹のように、二人は支えあい、励ましあい、この日まで暮らしてきた。
「おめでとう」
 少女は言った。
「王女さまと、お呼びしなければなりませんわね。
 もったいないお言葉ですわ」
 ガルヴィは泣き笑いする。
 黒目がちな瞳から涙をぬぐい、乙女は告げる。
「さあ、もう着替えてしまいましょう。
 私たちは俗世に戻るのですから」
「王都に行くまで、この格好ではいけないのかしら。
 父たる神の娘であることを誇りにもちたいの」
 セルフィーユはベール越しに首飾りにふれる。
 三日月をかたどった金の金具の中央に、良質のルビーが揺れる意匠。
 金の月はこの国を意味し、ルビーは忠誠を示すという。
 何故、金ではなく、サファイアでもなく、エメラルドでもないのか。
 神殿で15年暮らした少女にもわからなかった。
「それに……。
 私には……痣があるでしょう。
 迎えの方が、気を悪くしたらいけないわ」
「お髪をおろしてしまえば、わかりませんわ」
 ガルヴィは言う。
「ドレスを着たら、髪を結い上げなければならないでしょう。
 だから……」
 少女はぎゅっと首飾りを握り締める。
「……王女」
 ガルヴィはそっとためいきをついた。
 それをすまなく、セルフィーユは思った。
 自分が我を通せば、ガルヴィまで窮屈な巫女姿を続けなければならなくなる。
 無駄な装飾のない長袖のローブ。
 ゆったりとひだを取ってあるものの、生成りのそれは若い娘たちにとってつまらないものだった。
「セルフィーユ第一王女殿下、ガルヴィ侯爵令嬢」
 巫女長が呼ぶ。
 今朝まで「悩み深き妹たちよ」と呼ばれていたのに、今は称号で呼ばれるのだ。
 とうとう時間が来たのだと、娘たちは思った。
「迎えの方が参りましたよ」
 壮年の巫女長は、年若い騎士を紹介する。
「銀の騎士レフォールと申します」
 若者の瑠璃色のマントが緩く広がる。
「王都までの道案内を申しつけられました。
 以後お見知りおきくださいませ」
 青年の言葉をセルフィーユはぼんやりと聞いた。
 受難を意味する宗教画の聖リコリウスに似ていると、異性を初めて見た王女は思った。
「さあ、お行きなさい。
 ここは俗世の者には、相応しくありません」
 巫女長は言った。
「今までありがとうございました、巫女長」
 セルフィーユは言った。
「さようなら、巫女長さま」
 涙ながらにガルヴィも別れを告げる。
「父なる神は、いつでも傍におりますよ。
 迷い深きときは、光をお探しなさい。
 必ず、答えを示してくださるはずです」
 巫女長はガルヴィに言う。
 乙女は涙をハンカチでぬぐいながら、何度もうなずいた。
「王女。
 神はありのままを良し、といたします。
 それはよくご存知ですね」
「はい」
 セルフィーユはうつむく。
 ありのままであることは、難しかった。
 ベールを被るのは、ありのままの自分を見られたくない。
 そんな逃げの意識があるためだ。
「前を向きなさい。
 光を見つめなさい。
 賢いあなたならできるはずです。
 父たる神の言葉を忘れぬように」
 巫女長は微笑んだ。
 そのまなじりに涙が浮かんでいた。
 別れのときが来た。
 セルフィーユの胸にも、熱いものがこみ上げてくる。
「ありがとうございます」
 今生で最後かもしれない。
 人の出会いと別れは、神の御手の内にある。
 巫女でなくなり、王女に戻ったのだから、頭を垂れるべき相手は両親のみとなったけれども、セルフィーユはお辞儀をした。
「光があなたたちと共にありますように」
 巫女長は首飾りの上に手を重ね、祈る。
 二人の娘はそれにならい、聖句を共に祈る。
 傍らに控えていた騎士も左胸の勲章に手を置き、同じ言葉を唱える。
 異なる声質で、神に祈りが捧げられた。

 大神殿から王都まで、馬車で3日。
 天候に恵まれる初夏の頃であれば、楽しい小旅行であった。
 国王の用意した四頭立ての馬車に、二人の娘は巫女姿のまま乗る。
 神聖な衣装に、御者や世話係の者たちも敬虔な気持ちになり、一様に短い聖句を口にした。
 四頭立ての馬車の横を銀の騎士が併走し、後ろを荷台が続く。
 瑠璃色のマントの騎士がいなければ、良家の子女の物見遊山にしか見えないだろう。
 王女と侯爵令嬢が乗っているとは誰も想像できない、質素な旅だった。
 神殿暮らしが長かった二人にとっては、この馬車でもずいぶんと豪華に見えた。
「王女、この国は本当に美しいですわね」
 ガルヴィは呟く。
 大神殿を出てから、何度も同じ言葉を呟くものだから、セルフィーユもおかしくて笑い出す。
「ガルヴィはそればかりね」
「生まれて初めて、外を見るんですよ。
 この感動、王女にはわかりませんの?」
 表情豊かな乙女は笑顔を浮かべ、窓の外を指す。
「もちろん、美しさで胸の奥が熱くなっていきます。
 これが私たちの故郷なのですね」
 セルフィーユも流れていく景色を見つめる。
 美しい青空、ただよう雲、黄金の太陽は、馴染み深いものだった。
 なだらかに起伏する山々、舗装された街道、整然と並ぶ木立は、初めて目にするものだった。
 どれもこれもが生命を高らかに歌い、美しかった。
「王都はもっと素晴らしいと、銀の騎士は言ってましたね。
 こんなに素晴らしいのに、もっと素晴らしいなんて、想像がつきません」
 ガルヴィは言う。
「私もできないわ」
 セルフィーユは首飾りにふれる。
 重苦しいような気分が膨れ上がってくるのがわかった。
 家に近づいていくというのに、不安が大きくなっていく。
 まるで、家から遠ざかっていくような気がするのだ。
 日に日に強まっていくのは、どうしてなのだろうか。
 環境が変わることに、怯えている……?
 自分の心が不確かで怖い、と思った。
「どうかなさいましたの?」
「いいえ、なんでもないわ」
 セルフィーユは首を横に振った。
「お気分がすぐれないのですか?」
 気の利くガルヴィは、用件を銀の騎士に告げる。
 水飲み場のある木陰で休憩を取ることが瞬く間に決まる。
 申し訳のなさで、セルフィーユはうつむくのだった。

 何度目かの休憩のときのこと。
 涼しげな木陰で休んでいると
「そのようなベールでは暑くありませんか?」
 銀の騎士が尋ねてきた。
「いいえ、もう慣れました。
 私は、……顔に醜い痣があります。
 幼い頃から、ベールで過ごしていたので……」
 セルフィーユは途惑いながら、答える。
 この場にガルヴィがいなくて良かった、と安堵する。
 忠義者の幼なじみがいたら、どんな口論になっていただろうか。
 セルフィーユが痣を気にしていることを彼女は良く知っている。
「……痣」
 聖リコリウスに似た横顔が考え込むように伏せられる。
 そしていると、本物の宗教画の受難のようで、セルフィーユは悪いことをしたような気分になった。
「では、王都についたら、ローザンブルグ地方伝統のベールを献上いたしましょう。
 羽根のように軽く、朝靄のように美しいベールですので、そのベールよりは夏がすごしやすいでしょう。
 これからの季節、外はまだ暑くなっていきます」
 レフォールは真剣に言った。
 好奇心からの詮索ではないと知れた。
 銀の騎士は国王の側近く仕える騎士で、汚れなき光を意味する『銀』を冠する。
 左胸に輝く銀十字勲章は、国王自らが授けられるという。
 生まれ育ちよりも、その品性、知性をよく吟味され、騎士の中の騎士と呼ばれる。
「ありがとうございます」
 暑そうにしていたのが見られてしまったのだろうか。
 セルフィーユは頬を染めた。
 こんなときベールがあって良かった、と思う。
 表情から感情を悟られないですむ。
「それでは」
「あの、待ってください」
 口に出してしまったことは、戻らない。
 立ち去ろうとした青年を少女は引き止めてしまった。
 特に理由があったわけではない。
 もう少し話をしてみたかった。
 感情的な自分の行動に後悔する。
 以前の自分なら考えられない。
 巫女でなくなった心のゆるみだろうか。
「あ、その……。
 国王陛下のことを教えてくださいませんか?」
 セルフィーユは何とか理由を見つけ出し、体裁を整える。
「はい。
 私の知る全てのことをお話しましょう」
 レフォールはうなずいた。
 灰色の瞳を見つめながら、セルフィーユはホッとする。
 馬車の中で感じた不安が嘘のように晴れていく。
 ずっと前から知っているような気がした。
 そんなはずはないというのに、親しみを覚える。
「王女の父君に当たるテーオドール国王は、大変優秀な君主として有名です。
 私にとっては従兄弟叔父に当たる方で――」
「レフォールさまは、私の親戚なのですか?」
「はい。
 曾祖母が、恐れ多くも聖王妃アネットさまですので、王女とは又従兄弟となります。
 もっとも王女の又従兄弟となりますと、両手の数を合わせても足りないほどいるので」
「そんなにたくさん、私には親戚がいるんですのね」
 セルフィーユは純粋に驚く。
 神殿では、俗世のしがらみは関係ない。
 親兄弟であっても、神の御前では等しい。
 血族というものを知らずに、セルフィーユはこれまで育ってきたのだ。
「王女には、弟王子と妹王女が二人ずついらっしゃいます。
 従兄弟も多く、親戚の名前を全て覚えようとしたら大変でしょう。
 私は家臣の一人と、覚えていただければ十分です」
「ですが」
「銀の騎士レフォールとお呼びください」
「……はい」
 少女はうなずく。
 どこか懐かしさを覚えるのは、安堵するのは同じ血を持つためだろうか。
 ……血族。
 見えない糸のようにつながっている。
「国王は大変家族思いの方で、王女のことをいつも気にかけていました」
「お父さま……?」
 口に出してみて、セルフィーユは違和感を覚える。
 父と言えば、父なる神を指す。
 少女は首飾りをふれ、その信仰を思い出す。
 大神殿のかんなぎとして、光にふれていた。
 神を降ろすこともなく、その信託を聞いたわけでもない。
 けれども、神のお傍にいた。
 それが支えであり、土台であった。
「毎朝、必ずあなたのために祈りを捧げていました。
 王宮の中にある礼拝堂に、絶えず捧げられる花は白薔薇です。
 第一王女を意味する花です」
 レフォールは言った。
「白薔薇は、白薔薇だと思うのですが……」
 セルフィーユは首をかしげる。
「王家のしきたりで、第一王女は白薔薇、第二王女は白百合、第三王女は白姫菊と。
 紋章が白の花と決まっているのです。
 神に仕えていた方にとっては、不思議なことのように思えるでしょうが、それが俗世の決まりごとなのです。
 これから白薔薇姫と呼ばれる機会もあるでしょう」
「そうなのですか」
 セルフィーユは困惑する。
 美しく咲く花の名で呼ばれる。
 それは、罪なような気がした。
 花には花の美しさがあり、それは人間が手に入れることのできない美しさなのだ。
 神はあるがままを良し、とする。
 巫女長の言葉を思い出し、少女は指で祈りを捧げる。
「あなたの帰りを待ちわびていました」
 灰色の瞳が真摯にセルフィーユを見つめた。
「え?」
 ドキッとして、少女は聞き返した。
「国王陛下も、王妃さまも、城中の皆がお待ちしております」
 レフォールは言った。
「あ……はい」
 心のどこかで落胆を覚え、セルフィーユはうなずいた。



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