消えない烙印 02
ベールの貴婦人たちが楽し気にアニズを見送りの支度をしてくれた。
レインドルク伯爵夫人や親族の女性は、年がら年中薄いベールを被っているものだから、誰が誰だか区別がつかなかった頃もあった。
薄っすらと見えている髪の色などでは、似通いすぎていて判別基準にならない。
保守的な土地柄のせいか、ドレスも裾が長く、慎ましやかな地味な印象のデザインばかりだ。
……性格の方はとんでもなく個性的だったけれども。
アニスが何をしていても朗らかに笑っていて『元気な方ね』ですましてしまうのだ。
伯爵もあまり変わりがない。
すらりと背の高い男性ではあったが、どこかのんびりとしていた。
最低限の淑女教育はされたものの、本当に最低限だったのだ。
下手したら裕福な商家の娘の方がマナーを知っていそうだった。
たくさんの華やかなドレスや装飾品を鞄に詰められて、ローザンブルク城に挨拶に向かった。
公爵一家は盛大に出迎えてくれて、肩がこらない程度の食事会が開かれた。
ローザンブルグの姓を持つ者たちはみな出席したようで、初めて顔を合わすような同世代の男性や女性も多かった。
レインドルク城で育てられなければ、友だちがたくさんできたかもしれない。
そのことにアニスは苛立ちを覚えたりはしたのだが、当たり散らしたい幼なじみは末席の方で控えていた。
公爵家の嫡男で、マイルーク子爵の称号を持っているのに、他の親族よりも遠いところに立っていた。
テーブルにすらついていなかったのだ。
ギロリと睨むと灰青色の瞳は普段通りに穏やかに微笑んだ。
アニスは成人前なので林檎酒を水で薄めたものを用意された。
新年会では林檎の甘いシロップの水割りだったのだから、ちょっとは淑女扱いされたようだ。
それとも『家族』の元へ行けば、この程度のものが並べられるのだろうか。
薄く割ってあるとはいえ、初めてのお酒だった。
気分が高揚して、食事会が和やかに終わった辺りで、有名なバルコニーに出た。
話だけしか聞いたことがない世界が広がっていた。
満月の晩に見られるという二つの月。
ローザンブルク城近くに広がる大きな湖は静かに月を鏡のように映し出していた。
「そんなに身を乗り出したら、落ちてしまうよ」
背後から見知った声がかけられた。
振り返ればオルティカがグラスを片手に立っていた。
「酔っ払いじゃないから、そんなことはしないわよ」
アニスは言った。
背が低い方ではないが、この地方の成人男性はみな背が高い。
その例にオルティカも漏れてはいなかった。
おかげさまで立って会話をしていると、見上げるはめになる。
それが嫌で、アニスは木登り中か座っている時にしか会話をしないのだけれども。
「ご期待は添えないところだけど、グラスの中身はお酒じゃないよ。
……香りをかいでみればわかるよ」
バルコニーに肘をつき、グラスを差し出した。
ごく間近に灰青色の瞳があった。
最近は、こんなに接近をしたことがなかったから、妙に恥ずかしい気分になる。
「お酒の香りはしないだろう?」
距離が近いせいで、オルティカの声は抑えられたものになっていた。
内緒話をするような距離でささやき声だった。
正直、グラスの中身の香りなどアニスにはわからなかった。
「今宵は生涯に一度の夜になりそうだ」
夢見るような眼差しでオルティカが言う。
「私を厄介払いをできるから?」
アニスは気分を害したような気がして言った。
「君を厄介だと思ったことは一度もないよ。
神さまに誓ってもいい。
ただ、君と一緒にローザンブルグ城の月を見られるとは思わなかったから。
感謝したい夜だよ」
オルティカは微笑んだ。
「あなたがレインドルク城に私を閉じこめなければ、毎晩でも見られたでしょう?
一緒に見たかったのなら、どうして神さまに誓いを立ててまで、私をレンドルク城にやったの?」
アニスは尋ねた。
オルティカは周囲を素早く見渡してから
「私は嫉妬深いと言っただろう?
正直な話をすれば、食事会で君が男性と仲良く談笑する姿を見るのも苦痛だった。
公爵からの命令であれば仕方がないけどね」
こっそりとオルティカが言った。
「公爵はあなたの実の父親じゃない。
しかも私と違って生まれた時から成人するまで一緒のお城で過ごしたんでしょ?
『家族』ってあったかいものなんじゃないの?
それに今日、集まったのはみなローザンブルグの姓を名乗れる者だけって聞いたんだけど?
親族で、なおかつ貴族階級なのだから、学友とか幼友だちとか、親友だっていたんじゃないの?」
「血が繋がっているからと言って、みなが仲が良くできるわけじゃない。
公爵は血筋だけで跡継ぎを決めたりしない方だ。
子爵位を受勲される際も実力を求められた。
血の近い者ほど競争相手だった。
そういうところを見られたくなかったから、君をレインドルク城に隠したんだ。
伯爵領とはいえ、レインドルク家はローザンブルグ家でも特殊な位置にいる」
オルティカは言った。
色々な秘密を教えてくれるのは、これが別れの夜だからだろうか。
「レインドルク家は近親婚を好む。
エレノアール王国の国教で許されるギリギリの近親婚である従兄妹婚が盛んなんだ。
そのために、本家のローザンブルグ公爵家よりも、その血は始祖である聖リコリウスさまに近いとされる。
だからレインドルク伯爵家はローザンブルグ一族の中でも発言力が強い家でもある。
神さまがお望みになる『あるがまま』を実践しているとも言える。
私は君には心を曲げずに自由でいて欲しかったんだ。
レインドルク城で楽し気にしている君の成長を見られるのが楽しかった」
オルティカはグラスの中身を見たまま言う。
目の前にアニスがいるというのに、見ていなかった。
過去の残像を追いかけている。
それが胸をつきりと痛ませた。
本当に自分は世間知らずで、守られていたばかりだと気がつく。
「おかげさまで淑女らしくない淑女になったわよ。
木登りをして読書をする淑女なんているのかしら?
未来の夫君に立候補するような相手がいるのかしら?
それとも、その辺りは『家族』が調整してくれるか、嫁ぐまでに教育を叩きこまれるの?」
アニスは自分を見て欲しくて必死に言った。
捨てた娘を呼び戻す理由なんて一つしか思い当たらない。
――政略結婚だ。
公爵家に追いやった娘すら呼び戻すのだから、国内でも絶対の忠誠を誓っているような家ではなく、反乱分子になってもおかしくない微妙な力や財力を持った家に嫁がせるか、諸外国へ嫁がせるか。
物語に出てくる姫君の末路はそんなところだった。
褒章品や人質なら可愛げがある。
スパイのような絶妙な橋渡を求められるかもしれない。
顔を見たこともない『家族』の期待を受けて、婚家の内情を探り、夫になった人物との間に子を成す。
それも利用価値の高い男児を。
風がそよと吹いただけなのに、アニスには冷たいと感じて微かに肩が震えた。
オルティカが顔を曇らせた。
「不安になる気持ちもわかる。
『家族』といえども長いこと会っていないのだからね。
神さまはあるがままを望まれている。
君は君らしくあればいい。
……じゃあ、おまじないをしよう。
聖リコリウスさまのように奇跡の力が使えればよかったんだけど、私は無力だからね。
ちょっとしかできない」
オルティカは穏やかに微笑む。
「おまじない?」
アニスは不思議に思った。
王国が建国されるような創世時代。
受難と呼ばれる一連の試練の最中に聖リコリウスはさまざまな奇跡を起こしたという。
聖典の序盤に出てくるお伽話みたいな物語だ。
常人離れした聖リコリウスが正当なる王を玉座に導いた。
王権神授を謳うエレノアール王国であるから多大に脚色したとしか思えない。
占い師か意思が強靭で肉体が頑健だったリコリウスという名の異民族の男性がいただけなのだろう。
「そうおまじない。
君が私の名を呼べば、どんなに離れていても、どんなところにいても確実に助ける、という『契約』を強固にするためのおまじない」
オルティカはグラスをバルコニーの肘置きに置くと、長衣の襟のボタンを外していく。
成人男性なのだ、とアニスは遅まきながら意識をする。
子どものアニスと気安く話してくれるから忘れ去ってしまうが、そもそも体つきが違う。
レインドルク伯爵のような線の細さはなく、健康的な艶のある首は太く、のどぼとけがあった。
しなやかに鍛え上げられた体。
オルティカは首から下げた金の首飾りを外す。
三日月の形をした金の複雑な文様の飾り。
その中心には一粒のルビーがあった。
『光』でしかない神さまを祈るために目印として象られたものだった。
信仰篤い人物であれば肌身離さずつけていてもおかしくはないし、どれだけ粗末な礼拝堂には似たり寄ったりのものが掲げられている。
「金は全き『光』。
神さまを表して、王家も表す。
君にふさわしいものだ。
そして中央のルビーは忠誠の証。
私から君に捧げるものだ。
マイルーク子爵だからではなく、貴族の義務だからではなく、私から君へ。
絶対の忠誠を誓う」
オルティカは膝をつき、アニスを見上げた。
騎士叙勲を受ける騎士のように。
「……私に?」
貴婦人であればこういう場面も珍しくはないのだろう。
『家族』の元へ帰れば、よくあることなのかもしれない。
ただ軽口を叩き合っていた幼なじみが真剣な表情で言ったものだから、アニスは目を瞬かせる。
「ローザンブルグ一族だからではなく、ただのオルティカとして誓う。
君が私の名前を呼んだら、絶対に助けに行く。
だから、困った時があったら、心の中でもいい。
私の名前を呼んで欲しい」
オルティカは力強く言った。
「……ありがとう」
アニスは途惑いながら手を差し出した。
丁寧に金の首飾りが手の平に乗せられた。
オルティカの体温が残っている首飾りはアニスの手の中に。
満ちた月が証人になるように『契約』は結ばれたのだ。
「私はあなたに何を返せばいいの?
困った時だけ一方的に呼び出すなんて、友だちじゃない。
対等なのが友だちでしょ?」
アニスは必死に言った。
心の中で呼んだところで、届くはずがない。
本当に困って声を出して叫んだところで、届くはずがない。
ローザンブルグ地方から王都までは遠すぎる。
これからは別々の世界で生きていくのだ。
餞別だろう。
信仰の篤い土地で生まれ育ったオルティカの誠意だろう。
肌身離さず持っていた信仰の証を手渡したのだ。
瞬きをしたら嬉しくて涙を流してしまいそうだった。
「最後に君の名前を呼んでもいいかな?」
控えめにオルティカが尋ねた。
アニスは頷いた。
「アニス。
私の忠誠は君のものだ」
オルティカはたった一つの真実のように告げた。
満ちた月だけが二人の輪郭を照らしていた。
オルティカの言葉ではないが、生涯に一度の夜だとアニスは思った。