消えない烙印 01


 生まれた瞬間に親に捨てられた娘。
 それがアニスに押された消えない烙印だった。
 急所になるような場所にはっきりと押された痕だった。
 疎まれた娘は風光明媚と言えば聞こえば良いけれども、旧都に追いやられた。
 そこでも目立ちすぎたのか、さらに辺境のレインドルク伯爵領預かりになった。
 高い城壁を持ち、小高い丘に建つ麗しい白亜の城は、華やかなる自由な牢獄だった。
 窓には蔦のように這う鉄の格子。
 部屋の鍵は内側からかかるのではなく外側からかかる。
 そして城に住まう貴人たちは、アニスを見て朗らかに笑い、時にマジマジと見つめる。
 大人しく振る舞っても変わらない。
 だから、アニスは心のままに振る舞うようになった。
 レインドルク城の住人たちは『元気な方』と言うだけで止めはしなかった。
 このまま辺境で生命が終わるのだろうか。
 両親の顔を覚えていない。
 兄弟がいるらしいが、知識として名前を知っているだけだ。
 14年間も辺境暮らしをしていれば諦めの境地に近くなる。
 アニスは分厚い本を膝に乗せて、大樹の幹にもたれかかりながら、太陽を見上げていた。
 エレノアール王国であれば、誰もが信仰している神。
 その姿を現すのは不敬ということで『光』とだけ記されている。
 聖典をパラパラとめくりながら『神さまも酷いものよね』とアニスは思う。
 どんな事柄でも意味があるのなら、ここに自分がいるのも意味があるのだろう。
 聖典が説くのは『あるがまま、光を見上げること』だった。
 レインドルク城の中庭の大樹。
 それがアニスのお気に入りだと知らない者は少数だから、足音が近づいてきても驚きはしなかった。
 葉の間に見える太陽の位置を見て、少しばかり不思議には思った。
 昼の時間には早い。
 アニスの身分と年齢を考え見ると、貴婦人らしい教養が詰め込まれるはずだが、レインドルク城ではそれを求める者はいなかった。
 ただし、どんな事柄であっても、アニスが興味を覚えたことは一流の教師がつけられた。
 いったい、誰がどんな用だろうか?
 疑問に思いながら、サファイアの瞳を足音の方向に向けた。
「やあ、ご機嫌はいかがかな?
 可愛いお姫さま」
 流暢な発音で茶色がかった金の頭髪と灰青色の瞳の背の高い青年が尋ねた。
 アニスよりも4つ年上の青年は、いつも通り笑顔だった。
「最悪よ。
 マイルーク子爵」
 アニスは青年を見下ろした。
 どう考えても淑女らしい場所ではなく、淑女らしからぬ発言をした。
 写本とはいえ聖典を抱えたまま、木登りをしていたのだから。
 相手は仮にもマイルーク子爵なのだ。
 ローザンブルグ公爵の嫡男で、次期公爵だ。
 相手も慣れたもので、まったく気にはしていなかった。
「話し相手に来たんだ。
 そろそろお役目御免だからね」
 オルティカは言った。
「じゃあ、とうとう私は大神殿にも追いやられるの?」
 アニスは質問をした。
 生まれてすぐに旧都であるローザンブルグ地方に乳母ごと連れてこられた。
 物心がつく前にさらにレインドルク城に閉じこめられたのだ。
 乳母には耐えきれない環境だったし、他のお付きの者も大差がなかったらしい。
 言葉が話せるようになった頃には、すでにレインドルク城の者に世話になるようになっていた。
 他に接点になるような人物は少数だった。
 新年や誕生日ごとに挨拶に来るローザンブルグ公爵一家だけだ。
 最も顔を合わせているのが、目の前の青年――オルティカだった。
 子爵位を継ぐ前から、よっぽど暇なのか、馬車ではなく、馬を駆けさせてアニスに会いに来た。
 気安く接してくれる青年に助けられているのは間違いがなかったが……それもお役目御免ということは、大神殿へ行って、信仰に生きる道へすがるしかないのだろう。
 政略結婚の駒になるのと、どちらがマシなのだろうか。
 奇妙ではあったがレインドルク城ほどの自由さはないだろう。
 世間知らずの娘にも、それぐらいは理解ができた。
「君はご両親の元に戻るんだよ。
 生まれてすぐにこちらに来たからね。
 ご両親もずっと心配をしていらっしゃった。
 ご兄弟も会いたがっていた。
 肖像画だけでは味気がないからね」
 オルティカは微笑みながら言った。
「『家族』と言っても顔も知らないんだけど?」
 アニスは不機嫌に言う。
 たくさんの肖像画を描いてもらったが、アニスは肖像画を貰ったことはない。
 とりあえず二目と見られないほど不細工に育っていないようだから、政略結婚をさせるために呼び戻す、ということだろうか。
「よく似ているよ。
 君の黄金の髪とサファイヤの瞳の色は父君譲りだ。
 癖のない髪質や抜けるような白い肌は母君譲りだ。
 宝石のようにキラキラしているよ。
 肖像画では描き表すことができないほどだ。
 ちょうど神さまが絵画で表現できないようにね」
 オルティカは笑顔で言う。
 すでに王宮に伺候しているのだし、父親が国一番の公爵位を持つのだ。
 アニスの両親を見る機会は、普通の貴族よりも多いだろう。
「不安にならなくても大丈夫。
 『家族』なのだから、すぐに打ち解けられる。
 心のままに振る舞えば、ね」
 聖典の一節をすぐさま出てくるのはローザンブルグ地方で生まれ育ったからだろう。
 別名『エレノアール王国の大聖堂』。
 建国当初の姿を持つ教会が数多に建ち、信仰厚き土地柄だ。
 誰も彼もが常識のように聖典に馴染んでいた。
 アニスもローザンブルグで育ち、間近にいたのが伯爵家や公爵一家であれば、自然と聖典に馴染んだ。
 もっとも信仰の方は紙切れよりも薄かった。
「残念なことがあるのなら、こうして話しかけられるのも最後ということかな。
 私は末端貴族だからね。
 幼なじみと呼んでも良い間柄であっても、もう言葉を交わす機会はないだろう」
 オルティカは言った。
「何それ?
 私とあなたの仲じゃない?
 友だちになってくれる、って言った言葉は嘘だったの!?」
 アニスは苛立ちを覚えながら言った。
 子どもをあやすための綺麗事だったというのだろうか。
「あと二年もすれば君は成人するんだ。
 その時にはふさわしい夫君がいるだろう?
 私のような者がいたら、大問題になる。
 お互いに伴侶ができれば、また言葉を交わす機会があるかもしれないが……、君の未来の夫君が許してくれるだろうか?
 たいていの男というのは嫉妬深いものだよ。
 君のように麗しいお姫さまなら、隠しておくだろうね」
 オルティカは言った。
「あら、あなたも嫉妬深いの?」
 意外な気がしてアニスは尋ねた。
 成人しても妻を迎えていないのだから、次期公爵としては変わり者かもしれないけれども、秘密の恋人ぐらいいるのかもしれない。
 レインドルク城から出られないアニスとは違うのだ。
 供の者を振り切って、単身で馬を駆けさせてマイルーク城からレインドルク城までやってくる。
「十二分に嫉妬深いよ。
 君をレインドルク城に閉じこめるように父に進言したのは私だからね」
 あっさりとオルティカは言った。
 アニスは聖典をその頭の上に叩き落したら楽しそうだと思った。
 王都に比べても辺境のローザンブルグ地方。
 そのさらに辺境のレインドルク城。
 華やかなる牢獄に閉じこめたのは、年端も行かない少年だった、という事実に怒りを感じた。
「どうしてそのようなことをしたのか、お尋ねしてもよろしくて?」
 アニズは余所行きの口調で言った。
 オルティカの笑顔は崩れない。
「ローザンブルグ城も美しい外見をしているし、事情を知る者のほとんどが賛成していた。
 だけど、私は君はレインドルク城向きだと思ったんだ。
 かなり反対意見は出たよ。
 もし責任を取らなければならない重大事件が起きたら、私の爵位の継承権の返上と生命を差し出して、君の父君に謝罪をすると神の御前で誓いを立てたんだ。
 いわゆる『赤の誓い』だね」
 何でもないことのようにオルティカは言った。
「謝罪って。
 ……死刑でしょ?」
 アニスは身震いをした。
「おそらく最も過酷な刑を受けるだろうね。
 その誓いは、現在も有効だけど」
 オルティカは言った。
 死刑の中でも最も過酷な刑。
 毒杯をあおるような貴族らしい死ではないだろう。
 平民の斬首でもないだろう。
 牢獄に何日も入れられて看守たちから暴行を受けて、処刑場に連れ出される道のりで、野次馬たちから罵詈雑言を受けて、石を投げられて……。
 いや、それよりも惨い死刑だろう。
 目の前の青年は、それを子ども時代に神の御前で誓った。
 その誓いはいまだに有効。
 アニスの心臓が凍りつくように感じられた。
 言葉も上手く紡げないし、瞬きをしたら泣き出してしまいそうだった。
 指先まで氷のように固まっている。
「心配しないで。
 君のために誓いを立てたんじゃない。
 私自身が私の意思で誓いを立てたんだ。
 気に病む必要はないよ」
 オルティカは安心させるように穏やかに言う。
 年上の幼なじみらしい言動だったが、どうしてそこまでアニスをレインドルク城にやることを求めたのかがわからなかった。
 誠意のある幼なじみだったから、何かしらの意味があっての行動だったのだろうけど、その手の知識がアニスには欠けていた。
 もっと勉強をしておけばよかった。
 悔やんでも時は戻らない。
 そして、言葉を交わすのもこれが最後ならば挽回の余地もない。
 アニスが何かをしくじれば、幼なじみの生命は最悪のパターンで、無残にも散るのだ。
 ますます『家族』の元へ帰りたくなかった。
 役にも立たない、笑い物の姫だとしても。
 華麗なる牢獄だとしても、レインドルク城にいたかった。
「外伝・氷の公爵と白姫菊」目次へ続きへ