歴史は語る
エレノアール王国では、姫菊は馴染みのある花であろう。
どこであっても咲く花であり、エレノアール王国の北であっても咲くような花だ。
四季を通して咲き、庭をしつらえなくても野にも咲いている。
華やかな赤やピンクの背丈が短く、棘もなく咲く、可愛らしい花は、神に捧げるのにふさわしい花。
そのため第三王女の象徴花になった。
薔薇よりも、百合よりも、親しみ深い花であることから、貴族階級ではない平民たちにとっても、身近であった。
王女たちは、特に白の花を象徴花とすることから、第三王女は白姫菊姫と呼ばれる。
聖王妃アネットの末の姫君。
アニス王女となると、誰もが『悲劇的な王女』と思い出すことから、エレノアール王国であっても白姫菊が一時期は好まれなかった。
生まれ落ちた時から虚弱体質であり、聖王妃アネットの故郷であったローザンブルグ地方で大切に育ったアニス王女。
成人する前に両親である国王と王妃のいる王都へ戻った。
癖のない滝のように美しい黄金の髪を持ち、サファイヤも霞んで見えるほど輝かしい宝石のような瞳を持ち、抜けるように白い透明な肌を持つ麗しい姫君。
今でも王宮には複数の肖像画が残っている。
母親である聖王妃アネットに最も似た王女であり、信仰心の篤い清らかな姫君であったという記録が残っている。
丈夫ではなかった体で行った公務は、どれも王族らしく慰問であった。
治らない病にかかった者、大きな怪我をして不自由な暮らしをしている者、貧しく暮らしが立ち行かない者。
数々の礼拝堂や教会だけではなく、末端貴族ですらない、平民の下まで直接足を運び、その手を握りしめ、父たる神への信仰を説いたという。
常に信仰の証として、黄金の三日月型の首飾りを身に着けて、王族とは思えないほど質素で清楚なドレス姿であったそうだ。
麗しく成長したアニス王女はふさわしい夫君の元へと嫁いだのなら、『悲劇的』と詩人たちは謳わなかっただろう。
冷酷無慈悲な性格のあまり『氷の公爵』と呼ばれるローザンブルグ公爵の下に政略的に嫁いだのだ。
当時は次期公爵であるマイルーク子爵であったオルティカ公爵は、同じ父母を持つ兄弟たちですら、容赦のない判断を下した。
他の親族であれば過酷ですらあることを行った。
法律の下であれば正々堂々とした裁きではあったが、身内であれば多少の情が湧き、司法を司る時の国王であっても、ある程度は情状酌量するものだが、オルティカ公爵にはそれらが一切なかった。
オルティカ公爵は文武両道であり、高い知性と教養を持っていたという。
また『エレノアール王国の大聖堂』と呼ばれるローザンブルグ地方で生まれ育った公爵であるから、信仰心はあっただろう。
信仰心の篤かったアニス王女とも、会話が弾んだかもしれない。
ただこの二人は婚約が決まるまで接点らしき接点がない。
記録から読み取れるとしたら、アニス王女が両親がいる王都に戻る前に、オルティカ公爵の父親がローザンブルグ城で宴を開いた時だけだった。
その時、子爵であったオルティカ公爵はテーブルにつくことはなく、隅に控えていた。
オルティカ公爵が麗しいアニス王女を遠目で見た可能性は高いが、アニス王女にとっては親族の一人であり、母である聖王妃アネットを介して、血の近い男性という程度の認識であっただろう。
二人がダンスを踊ったり、会話をしたという記録は残念ながら残っていない。
二人の婚約が整ったのは、エレノアール王国全体が記録的な天候不順に見舞われ、穀物病も流行り、農作物が育たず、平民たちは飢え乾き、飢饉の酷さから暴動が起きると思われる年だった。
国王も国庫を開いて援助をしたし、貴族階級にある者たちも、自分たちの食べる分を残して、領民たちに施したが限界であった。
ローザンブルグ地方だけが例外であり、豊作続きであったために、多大な寄付を王家にした、という記録が残っている。
その見返りの婚約だった。
成人間近であったアニス王女は、すぐさまローザンブルグ地方に迎えられた。
王家は麗しい末姫を差し出すことにより、国庫を潤し、国民たちを養えた。
成り上がりの公爵家も聖王妃アネットがお生みになられた王女を迎え、政治的な地位をさらに磐石にした。
そのためローザンブルク公爵家は王家に次ぐ高い王位継承権まで有することになったのだ。
ローザンブルグ公爵家の王家への忠誠は、これ以降も強化されていく。
成人して、すぐさま結婚をしたアニス王女の手記といったものは残されていない。
子爵夫人、公爵夫人となってからも、公務は極端に少なく、虚弱体質であったためか、公の場の記録がほとんどない。
親族たちの手記や城に雇われていた使用人たちの記録が断片的とはいえ残っていそうなものだが、他の女性たちに比べても極めて少ない。
幽閉に近い形で、城の奥深くで閉じこめられている。という証言も残っているぐらいだった。
オルティカ公爵の日記も子孫のために書かれているもののために、行事や心構えは記されているものの、極端なほど感情的なことは一文も記されていない。
事務的なことが淡々と綴られているだけだった。
男性の日記ではよくあることだったが、異様に詳しく書かれた記録だった。
これで妻であるアニス王女への手紙や詩の一つでも残っていれば、情熱的に降嫁を願ったと詩人たちも謳ったのであろう。
だが詩人たちはアニス王女を『悲劇的な白姫菊』と謳う。
今であっても変わらない事実であった。