聖徴
エレノアール王国にも冬が到来した。
王国の中でも北に存在しているローザンブルグ地方では雪が降り続いている。
王都よりも雪の多い寒冷地帯ではあったけれども、今年はことさらに多い。
しかも時折、落雷しているのだ。
ペルシも生まれ育った居城のレインドルク城で大人しくしているしかなかった。
例年よりも晴れの日が少ないともなれば、馬車や馬を使うわけにもいかない。
父から伝令を頼まれることも減り、自然とマイルーク城まで足を運ぶ日数が減った。
会えない時間が恋を育てる。
そんな有名な言葉ではないが、愛の深まりを感じていた。
会えない分、恋心は募り、会えた時の喜びは大きくなる。
別れ際に手渡される手紙は便箋の端が擦り切れるほど読むほどだった。
一度、目を通せば覚えてしまうような内容だったが、それでも何度も確認してしまう。
感情豊かな性格のまま、伸び伸びと綴られた丁寧な筆跡。
穏やかなで気配りが届いた言葉選び。
信仰の炎の前に立つガラスのように透明で清浄な雰囲気。
いまだにガルヴィ嬢は神殿にいる巫女のようだった。
愛する女性を妻に迎えられることができるのは喜ばしいことだったが、神聖さを穢してしまうような罪悪感も覚える。
ましてやペルシは正式にレインドルク伯爵家の後継になってしまった。
爵位を継がないという選択肢は消え去った。
心にのしかかる案件は白薔薇姫とガルヴィ嬢の関係性だった。
二人は毎日、顔を合わして、誰よりも一緒にいたはずだ。
貴族階級どころか平民よりも仲睦まじい姉妹として育っただろう。
大神殿での15年間という時間は短くはない。
実の姉妹よりも固く結ばれた絆を自分たちの利己的な決断だけで、断ち切ってしまうような気がしてくる。
マイルーク城とレインドルク城の間には馬車や馬が必要なほどの距離がある。
そうそう会うことができなくなる。
暗黙の了解のように、白薔薇姫はマイルーク子爵夫人として課せられる公務は少ないだろう。
けれどもレインドルク伯爵夫人となるガルヴィ嬢はそういうわけにはいかない。
『ローザンブルグ娘』であれば減るとはいえ、豊かな商家から母のアンゼリカが嫁いできてから、領民たちの考え方が幾分か変わった。
機転の利く、下々まで思いやられる良識的な貴婦人像が浸透してしまったのだ。
だからこそ、白薔薇姫とガルヴィ嬢には結婚前の最後の時間を穏やかに過ごして欲しい。
そんなペルシの感傷を破るように盛大な雷が落ちた。
城の中にいれば安全だと分かっているが、こうも落雷が多いと落ち着かない。
信仰の証である金の首飾りにふれて、ペルシはためいきをつく。
……犯人は分かっている。
姉のラメリーノだ。
愛する男性と結婚が決まって、その人物がレインドルク城に滞在しているのだ。
蜜月の時……と世間は言うだろう。
シブレットがラメリーノを怒らせるようなことをするはずがないので、十中八九母娘喧嘩だ。
茨のように自由に生きたい娘と世間体を気にする常識的な母とは壊滅的に話があわない。
ペルシは厚みのある本を閉じた。
パタンという重厚な音を立てたそれをテーブルに置いて、立ち上がる。
母娘喧嘩の原因を取り除くために、騒動の現場へと向かう。
これ以上、雷が落ちたら、読書に集中ができない。
使用人たちも慣れたもので、すぐさまペルシを案内してくれた。
また派手な母娘喧嘩だ。
大声で怒鳴りあっているものだから、室内からも声が漏れて、廊下にも伝わってきた。
形式的にドアをノックしようと思った時に、意外な……ある意味、当然な人物と出会う。
レンドルク伯爵家の家督を継ぐはずだった。
あるいはレインドルク伯爵家の第一子を妻に迎える。
そんな貴族階級の男性としては質素な身なりだった。
鉛色の瞳を和ませて
「おはよう、ペルシ。
ラメリーノは元気そうだね」
シブレットは穏やかに言った。
時折、落雷している状況を『元気』。
『ローザンブルグ娘』を妻に望むのなら、これぐらいの胆力が必要なのかもしれない。
身内にいるだけでも大問題なのに、妻にしたい……とはペルシには思えなかった。
シブレットとラメリーノの場合は血族結婚を好むレンドルク家としても血が濃すぎる。
娘が生まれれば『ローザンブルグ娘』になる確率が高く、息子であっても異能を持って生まれてくるだろう。
ルビーのように鮮やかな聖徴と共に。
「おはようございます、兄上」
ペルシはいつものように微笑んだ。
開けようと思っていたドアは、内側から開かれた。
ラメリーノが母から逃げるように飛び出してきたのだ。
王都で流行している最先端の装いだった。
カメリア色を基調として、ヘリオトロープ色が彩る。
蜘蛛の糸よりも繊細な細い糸のレースや息の詰まるような見事な刺繍。
豊満な体つきを強調するような大胆に胸元までカットされた襟元、細い腰を示すように絞り込まれたデザイン。
これ以上に嫣然とした貴婦人をお目にかかるのは王都でも珍しいだろう。
毒々しい、の一歩手前。
大輪の花のように艶やかな姿だった。
ローザンブルグ一族にしては、淡い雲灰色の瞳が見開かれた。
シブレットをみとめ、勝気な性格とは裏腹に、白い頬を染めて、半ば瞳を伏せた。
「おはよう、ラメリーノ。
何か嫌なことでも起きているのかな?」
シブレットが穏やかに尋ねる。
何でもハキハキと話して、棘のある茨のようだとその物腰を噂させ続けた姉が珍しく言い淀む。
「無理に話せなくてもいい。
話したくなった時でかまわない」
シブレットは安心させるように言葉を続ける。
幼い頃から知っている従兄妹同士ということもあって扱いが上手だ。
すっかり落雷は治まっている。
身形を無視すれば、恥じらう乙女そのものの姉を見て、身内の恋愛劇を見せつけられているような気がして目のやり場に困る、とペルシは思った。
室内に入り母から事情を聴いて……と思っていると
「シブレットさま、ちょうどいいところに。
ラメリーノの新年会のドレスについてお話したいことが」
母のアンゼリカが言った。
「ベールはきちんと被るわ!
好きなドレスを着て、どこが悪いの!?」
ラメリーノが声を荒げた。
母娘喧嘩の原因は、やはりここだったのか、とペルシは心の中でためいきをついた。
「流行なのか知りませんが、売春婦であってもそのようなドレスは着ません。
領地でどう噂されているか理解しているの?」
アンゼリカは形の良い眉を逆立てて言う。
『エレノアールの大聖堂』と呼ばれる保守的なローザンブルグ地方であれば、王都での流行のドレスはけばけばしくて品がないように見えるだろう。
「ガルヴィ嬢ですら、こちらにいらしてからは清楚な装いをしていらっしゃいます。
セルフィーユ王女に至っては理想的なお姿です。
お二方よりも年長のあなたが我が儘を言ってどうするのですか?
歳をお考えなさい。
『ローザンブルグ娘』というのなら、セルフィーユ王女とて条件は同じ」
アンゼリカは言い切った。
「お兄さま。
私が私の好きな物を着てもかまいませんわよね?」
すがりつくようにラメリーノは近づく。
抱きつく一歩手前で、シブレットが手で制す。
「先ほどまでスケッチをしていたら、指先が木炭で汚れているんだ。
せっかくのドレスに炭をつけてしまう。
お気に入りのドレスなのだろう? ラメリーノ」
シブレットは確認するように言った。
「は、はい。お兄さま」
胸に飛び込む前にラメリーノは踏みとどまった。
「シブレットさま。
娘の姿を見ても何も思わないのですか?」
怒りを隠さずにアンゼリカは尋ねる。
詰問に近い形だった。
この場に、父のリークがいないだけマシだろうか。
ペルシは頭が痛い、と思いながら
「兄上、正直に話した方がいいです」
忠告するように口を開いた。
これ以上、平行線の母娘喧嘩をして落雷が起きるのは勘弁してほしい。
姉自身にもいいチャンスだろう。
あまりにも『ローザンブルグ娘』というものが分かっていない。
ローザンブルグ姓を持たない母にはもっと不可解だろう。
「レインドルク城の中では好きなように、と思います。
マイルーク城へ行く時は、セルフィーユ王女に会いに行く時だけです。
子爵位を持つレフォール殿がいらっしゃいますが、セルフィーユ王女と婚約しています。
私の目から見ても二人は想いあって、仲睦まじい。
理想的な夫婦になるでしょう」
シブレットはのんびりと答える。
ペルシが忠告した通りに正直な答えだった。
が、よく似た雲灰色の瞳はきょとんとした。
アンゼリカの亜麻色の髪も雲灰色の瞳も麗しく受け継いだのは、姉のラメリーノだろう。
「ドレスの話と、どこが関係しているのですか?」
立ち直るのは母の方が早かった。
アンゼリカは尋ねる。
「ラメリーノの聖徴を見る男は、身内か決まった相手がいるしかいない、ということに安心しています。
それなので、レインドルク城の中ぐらいは自由にして欲しい、という話です」
ストレートな発言だった。
ここまで言葉を重ねられて、姉は不思議そうにしているのだから、知識不足だとしか思えなかった。
十数年ぶりに生まれた『ローザンブルグ娘』だとして、レインドルク伯爵家は『ローザンブルグ娘』を排出する家系なのだ。
関連書籍が大量に図書室に眠っている。
「母上。だいぶ昔の……古典的な求婚の言葉があるのです。
ローザンブルグ家特有といっても良いでしょう。
本家に近い血筋のみですが」
ペルシは補足するように言った。
「まさか?」
亜麻色の睫毛を瞬かせて、アンゼリカは呟く。
商家の娘らしく、飲み込みが早くて助かる。
「ご想像の通りです。
『あなたの聖徴の位置を教えて欲しい』です。
兄上は珍しいですが、男性は服で隠れやすい位置に出やすいですからね。
『ローザンブルグ娘』は本能的に男性から聖徴を見られるのが嫌いらしく、ふれられた日には裸体をふれられたのと同じぐらいの羞恥心と怒りを感じるそうです」
ペルシは女性同士で話題にして欲しかったけれども、に同世代いるのは聖王女なのだ。
女性だけの大神殿で15年暮らした白薔薇姫には荷が重すぎる。
かといって現在のローザンブルグ公爵夫人のミルラも実の娘ではないから、話すつもりもないようだった。
「え?」
ラメリーノは突然、与えられた知識に驚いたようだった。
雲灰色の瞳が信じられないものを見るようにこちらを見る。
「兄上が真面目で紳士的な男性でよろしかったですね。
二人きりの時にベッドがあるような部屋に連れ込まれても文句の言えない姿をしているわけです。
現在も」
ペルシは滔々と言った。
姉の首元には薔薇のように淡いとはいえ聖徴があるのだ。
危機感がないどころの騒ぎではない。
「ペルシ、そこまで言わなくても。
私はラメリーノが嫌がることはするつもりはないのだから」
シブレットはおっとりと言う。
ペルシの発言に同意した形になったことに気がついたアンゼリカは娘の腕をつかむ。
「ラメリーノ!
やっぱり、そのドレス姿はおやめなさい!
新年会のドレスも考え直します」
アンゼリカは宣言するように言った。
知らない知識や事実をもたらされた姉は混乱しているのだろう。
特に抵抗せずに母に引きずられて部屋に戻された。
開け放たれたままのドアをペルシは静かに閉じる。
これでしばらく落雷はなくなるだろう。
短時間で大量に雪が降ることもなくなるはずだ。
「……ずいぶんと荒治療だったような」
鉛色の瞳は閉まったドアを眺める。
「姉上にはハッキリと言わなければ通じません」
ペルシはキッパリと言った。
「ラメリーノには聖徴があると言っても、あれだけ淡いのだ。
知らなくても良い知識だったのでは?」
シブレットの視線が移動する。
「そうは言っても兄上だって、見ていたいのではないのですか?」
ペルシは微笑む。
「純粋に美しいものだ、という意識だよ。
彫像や絵画の半裸の女性や裸婦を見て欲を刺激されるかい?」
画家らしい発言をシブレットは言う。
モデルや巨匠が残した芸術作品に欲情していたら、鑑賞などできないだろう。
「感じませんが、愛する女性だと思えば、それなりに感じるでしょう?」
ペルシはにこやかに尋ねる。
「ペルシもガルヴィ嬢に?」
シブレットが鋭く訊く。
「秘密です」
青鈍色の瞳を和ませてペルシは答えた。
「では、私も秘密ということにしておこう」
シブレットも言った。
まったく秘密話にならないような秘密だった。
血の濃い従兄弟同士は互いに笑いあう。