映画デート


 この日、紬は新色のルージュを下ろした。
 春らしい新色で紬の肌に映えると店員さんに勧められて購入したものだった。
 いつも化粧品を購入するショップのお馴染みの店員さんだったから、紬は流されるように買った。
 今まで使っていたルージュとほとんど色の差がわからない人の方が多いだろう。
 もちろん新商品だけあって、含まれている美容成分には違いがあった。
 それをこの日のために下ろした。
 紬にとって大切で、特別な……心弾む日だったからだ。
 そこまで華やかではない色じゃないから、普通の男の人にはわからない。
 お母さんだって気がつかなかったぐらいだから、紬の完全な自己満足だった。
 デートだから機嫌が良いわね~、ですまされていた。
 紬にとっては気合の入れた装いだった。
 ホワイトデーで陽馬から貰ったネックレスもつけた。
 話した記憶はなかったのに、紬好みのデザインだった。
 小さくカットされた石の方も紬の好きな青だった。
 本当に素敵すぎるプレゼントだった。

 その日は天気にも恵まれて、自然と紬の足も軽くなる。
 紬が越境入学してしまったために、自宅からだと陽馬とのデートの待ち合わせは中間地点の駅になる。
 乗り継ぎもあるし、たまに他の線の事故で電車が遅れることもあるから、紬は余裕をもって家を出る。
 15分は余裕も持たせるのに、紬が陽馬を遅いと思ったことは、これまで一度もなかった。
 待ち合わせの約束の時間前に二人が揃ってしまうのだ。
 紬は電車から降りて、待ち合わせの場所に行く前に化粧室に立ち寄る。
 お手洗いとパウダールームが別れている大き目で清潔な化粧室で、全身を確認する。
 明るい白色の明かりの下。
 大きくて綺麗に磨かれている鏡の前で『今日も可愛い』と自分におまじないをかける。
 それから化粧崩れや髪の乱れがないか最終確認してから、待ち合わせ場所に紬は急ぐ。
 爽やか系イケメンと学校でも評判のお日さまみたいに明るい陽馬はやっぱり素敵で。
 キラキラと輝いていた。
 待ち合わせ場所を通る同じ歳ぐらいの女の子たちや少し年下の高校生ぐらいの女の子がチラチラと見ている。
 自然体なんだけどお洒落な格好している陽馬は、他の女の子から見ても魅力的らしくて『声かけてみる?』みたいな大胆な発言をしている声も紬の耳に届く。
 勇気のある女の子ってスゴすぎる。
 紬は陽馬から告白されるまで流されるままの受け身だったのだ。
 だから尊敬にも近い感情で余計に他の女の子に対して思ってしまう。

「紬ちゃん」
 スマホを見ていたはずの陽馬が顔を上げて、紬に気がついて、笑顔で近づいてきてくれる。
 こっちから声をかけたわけでもないし、気がつく距離まで近づいたわけでもないのに。
 名前を呼ばれただけでも紬の小さな心臓はドキッと高鳴る。
 ドラマに出てくる若手の俳優さんみたいにスマートでカッコいい。
「来てくれてありがとう。
 今日もお洒落してきたんだね。可愛いよ」
 さらっと陽馬が言う。
 紬は両手で熱くなった顔を隠して、どこかに隠れたい気分になる。
 ひと昔前の純愛ドラマみたいなことをストレートに陽馬は言ってくれる。
 それもキザなところがなくて、自然体だ。
 褒めるのが得意すぎる。
 老若男女問わずに発揮されるから、『人たらし』なわけで。
 それがカノジョって立場になった紬は恩恵を受けすぎている状態だった。

 今日の映画だってそうだ。
 紬がちょっと話しただけの若手の俳優さんの名前を憶えていてくれて、前売り券を購入してくれたのだ。
 小さな役なんだけど、ストーリー的に重要な見せ場があるらしい。
 映画館でその場でスマホでチケットを取ってくれても、カッコいいところなんだけど、予約特典付きの紙の前売り券をプレゼントしてくれたのだ。
 紬が驚いたら『こういうのは記念になるから、デジタルだと消えちゃうからアナログの方がいいよ』ってナチュラルに手渡してきたのだ。
 確かに残しておけるし、薄い紙一枚だからお財布やチケットフォルダーに入れておける。
 それに日付が入る。
 こういうことが自然にできてしまう陽馬は本当に『人たらし』なんだと思う。
 当たり前のようにカフェでのデートの帰りにチケットを一枚、渡してくれた。
 観る日付と時間を決めたのも陽馬だった。
 優柔不断な性格の紬にとっては大助かりだった。

 ドキドキしながらの映画館デートになった。
 タイトルとあらすじは知っているものの事前情報がほとんど紬は知らなかった。
 好きな俳優さんでも、それぐらいで。
 熱心な推し活をしているわけでもなかったから、紬は楽しみにしていて……。
 席について照明が落ち、他の映画の予告を次々に映し出されて、気になる映画もあって、おしゃべりは禁止だから映画を見終わったら陽馬に話したくて……。

 それから二時間半は違う意味で、紬はドキドキした。

 スクリーンでは純愛もののストーリーが展開されていた。
 紬の好きな若手の俳優さんも確かに重要なシーンに出てきていた……っぽい。
 普段よりもお洒落をして、気合を入れて、デートに来て。
 ワクワクしながら映画鑑賞を始めたはずだった。
 それよりも……。


   ◇◆◇◆◇


 映画が終わった後、同じ施設内にあるカフェで陽馬は頭を下げた。
「ゴメン!」
 そんなことを言わせてしまったことが悪かったような気が紬にはした。
「映画の内容、まったく覚えていないとか。
 最低だよね」
「陽馬くんが気になるようなら上映中にもう一度、来る?
 きっと……ロングランすると思うから」
 勇気を振り絞って紬から提案した。
「紬ちゃんが好きな俳優さんが好演してたのに、寝るとか。
 せっかくの感想がまったく話せなくて。
 映画デートっていったら、そういうのも楽しみなはずだからさ。
 本当にゴメン」
 陽馬はすまなさそうに何度も謝る。
 さすがの紬でも罪悪感が湧いてくる。
「実は私も半分以上、内容がわかっていなくて」
 正直に話した。
 二時間半映画館にいて、きちんと座席についていたのに、肝心の俳優さんの演技は見ていない。
「え?」
「邦画だから台詞は大丈夫だったし、あらすじは頭の中に入ってるよ」
 色々な意味でドキドキして緊張する。
「なんで?」
 陽馬が尋ねた。
 やっぱり、ちゃんと話しておかないといけない部分だろう。
「陽馬くんがよく寝てたから。
 眠るまではこの前、電話越しで知ったけど。
 寝顔は見たことがなくって。
 一緒にいる時に、眠たそうにしているところも見たことがなかったし。
 ……こういうのカノジョの特権かな? って思って。
 スクリーンよりも陽馬くんを見ていたから」
 どうしても声が小さくなるし、震えてしまう。
「気を悪くしたらごめんなさい」
 紬は言った。
 気持ち悪いかもしれない。
 映画に来て、好きな俳優さんが素敵な役どころを演じていたのに、まったく見ていないかった、とか。
「いいや、良いって!
 悪いのは100%こっちだから!
 紬ちゃんが悪いところはどこにもない」
 ハッキリと陽馬が言った。
 肯定されて紬はホッとした。
 変態とか思われたら、どうしようかと不安だったのが、霧が晴れたように解消された。
「じゃあ、もう一度、見に来ようか?」
 いつものように明るい笑顔で陽馬は言った。
 それがやっぱりお日さまみたいに輝いているから眩しくって
「うん」
 紬は控えめにうなずくので精いっぱいになってしまう。
 映画にはエンドロールがあったけど、まだ陽馬と一緒の幸せな人生は続くのだ、と紬は思った。
紅の空TOPへ > 並木空のバインダーへ >君の隣、空いてる? 目次 > 続きへ