寝落ち通話・2
初めての寝落ち通話をする、と決めた日。
紬の緊張は最大限まで高まっていた。
眠る前とは思えないほどのドキドキを感じていた。
陽馬から告白された後よりも、彼女になってから初めてデートした時よりも。
あの時だってとってもとってもドキドキして、怖いぐらいに緊張したのに。
世の中にはまだまだドキドキすることがあるのだ、と紬は知った。
挙動不審すぎたのだろう。
お父さんには学校でトラブルがあったか、心配された。
お母さんにすら体調が悪いの? と声をかけられた。
これから彼氏と寝落ち通話を初めてする、とは正直に答えられるはずもなく、紬は「大丈夫」の一言で押し切った。
何を話せばいいのか、ネット検索までしてみたけれども正解にたどりつくことができずに、時間切れになってしまった。
就寝時間が近づいてきてベッドに向かったけれども、紬はいつものように横になることができなかった。
ぎゅっと枕を抱きかかえて、陽馬からの電話を待った。
高校時代からの仲の良い女友だちと話をするのとは全く違った。
ちゃんとお風呂に入って、体の隅々まで洗って、髪をきちんとドライヤーで乾かした。
スマホで会話するのだから口臭なんてわかるはずもないのに、丁寧に歯磨きまでした。
約束の時間の5分前には、全部終わってしまって、紬は待機した。
紬は不安でいっぱいで泣き出したくなりそうだった。
寝落ち通話が初めてであれば、紬が先に眠ってしまったらどうしよう。と心配になった。
失敗をしてはいけないレポート提出よりも緊張した。
半泣きになっているのは、それだけではない。
今だって陽馬の隣に自分みたいな女の子がいてもいいのだろうか、という不安が強い。
魅力的な女の子はいっぱいいる。
自分の良いところなんて思いつかないし。
自己肯定感が低すぎて、卑屈な思考だってわかっている。
でも今までモブ中のモブだったのだ。
目立たない生き方をしてきた。
長所は真面目なところだけ。
それすら陰キャだとストレートに言われた。
紬がうつむく時間は増えていく一方だった。
陽馬に出会って、お日さまに照らされて、影の中でうろうろしている紬を引っ張り出してくれたけど。
それでも時折、不安になる。
絶対の自信なんて湧かない。
約束の時間、ピッタリに陽馬から着信があった。
電話越しの声は普段聞いているものと違った。
これまで陽馬と電話連絡をしたことがなかったわけじゃないけど。
特別な感じがした。
逃げ出したくなるようなドキドキから、また違ったドキドキを感じた。
寝る前で疲れているのか、陽馬の声は少しだけトーンが低くて、落ち着いた話し方だった。
大人っぽい。って思ったし。
いつも陽馬はお日さまみたいに明るくて、ハキハキと話しているから、見知らぬ他人みたいで。
知らない面をひとつ知った、気がした。
紬が直前まで悩んでいた話す内容はあっさりと解決してしまった。
『人たらし』と呼ばれるほど社交性の高い陽馬が話題を途切れさせることはなく、電話中なのに妙な沈黙になることはなかった。
あるいは女友だちと近況報告で学校の話やファッションや流行のメイクの話題になって、私が私がと食い合い気味になって、私が話しているのに、話の腰を折られてしまった、と微妙な気分になることもなかった。
「え、次に行きたい場所?
陽馬くんのお勧めの場所でいいよ」
と、紬は素直に答えてしまった。
それが失敗だと気がついたのは電話越しの陽馬の小さな笑い声だった。
いつだってデートコースは陽馬が決めていたのだ。
気を遣ってもらったことにわかってからでは、手遅れもいいところだった。
どうしよう、と弁解の言葉を考えているうちに
「そろそろ桜が咲く頃だから、お花見デートでもする?
近くにカフェがある桜の名所も知っているし。
紬ちゃんが気に入ってくれるといいんだけど」
と話題を提供してくれた。
電話だから見えるはずもないのに紬は何度もうなずいた。
枕を抱きしめたまま。
ふい疑問に思って「もうお風呂に入ったの?」と紬が質問したら簡潔に「シャワー派だよ」って陽馬は軽く答えてくれた。
独り暮らしだから滅多に湯舟にはつからないって。
水道代もガス代もかかるし、帰ってくるのが遅い時間になりがちだから、音も響きやすいし、と。
音に関しては、隣の部屋の人たちもあまり気にしていないみたいだけど。
と陽馬は気にした風ではなく言った。
実家暮らしの紬からすれば目から鱗だった。
光熱費がいくらぐらいかかっているかなんて気にしたことがなかった。
節約なんて考えたことがなかったし、一戸建ての家で、隣の家までそれなりに距離があるから、お風呂の音が響くなんて知らなかった。
騒音問題でトラブルになったこともない。
これが自立することなんだ。
カルーアミルクなんてお酒が飲めるほど大人になったけど数字の歳だけだ。
紬は子どものままだった。とわかった。
まだちゃんとした大人になれていない。
「桜、どこがいい?」
「学校にもたくさん咲いているから特には?」
紬は小首を傾げる。
お花見デートがあるのは知っているし、理由をつけては女友だちと花見に出かけたことぐらいはある。
けど、ここの桜がいい、というこだわりを紬は持っていなかった。
「昼に桜を見ながらお茶をするのと、ライトアップされた夜桜のどっちが紬ちゃんは好き?」
親切で優しい陽馬は質問を具体化してくれた。
しかも紬が選びやすいようにって。
「オレ、カフェにテラス席があるトコ知ってるし。
天気が良くて、花冷えしていなければゆっくりできるし。
それとも屋台が出ている時期を狙って食べ歩きをしながらお花見する?
公園だったら持ち込み可な場所も多いし。
テイクアウトしたコーヒーとか飲みながらお花見をするのもアリだし」
陽馬は次々と具体的な候補を挙げてくれる。
一方的なデートじゃなくて、紬が最大限楽しめるようにって。
言葉も選んでくれている。
「ご、ごめんなさい。
大学に入学してから、毎年、電車の中から桜を見ていたから。
私の家の最寄り駅までにもけっこう桜が咲いているから」
桜を見る。
桜吹雪を楽しむ。
そういう意味では通学で事が足りてしまっていた。
蕾の堅い時期から散るまで、いくらでも見てきた。
越境入学をしてしまって、長い通学時間を……一人で。
合コンで陽馬と出会ってからは、たまに自宅まで送ってもらったけれども、それでもお花見デートにカウントしてはいけないだろう。
「紬ちゃん定番のお花見デートしたことがない?」
陽馬に尋ねられて、顔が熱くなるのを感じた。
スマホを握っている指先が震えるのもわかる。
「うん」
紬は認めた。
面白みのない女の子で。
社交性もなくって。
気を遣ってもらってばっかりで。
それが当たり前って思いこんでいて。
自分は本当に醜い。
車にひかれたぺたんこのヒキガエルみたいだ。
「ごめんなさい」
泣きたい気持ちで紬は言った。
「どうして紬ちゃんが謝るの?」
「退屈で」
「そう?
オレは紬ちゃんの特別になれるんだよ。
今までやったことがなくて、初めてなんでしょ?
マジで嬉しいよ」
その声はいつものようにお日さまのようで。
いつだって陰に隠れてしまう紬を照らしてくれる。
目の前にいなくても。
電話越しなのに。
紬をあたためてくれる。
きっとこんな幸せで幸運なことはない。
その喜びを紬はかみしめる。
電話をする前のドキドキとは違うドキドキを感じる。
涙が今、流れたって違う意味だ。
結局、お花見デートの段取りを決めたのは陽馬だった。
紬は希望を言うだけで終わってしまった。
いくつかの雑談をしている内に「そろそろ眠たくなってきたから、寝息が聞こえたらすぐに切っていいよ」と陽馬の口調がさらにのんびりとしたものになったのが合図だった。
電源を落とすように。
すぐさま寝息が聞こえた。
約束通りに、紬はすぐにスマホの電源を切った。
初めての寝落ち通話はドキドキがたくさんで、テーマパークのアトラクションのようだった。
紬は眠るどころじゃないほどドキドキをしたけれども、枕を抱えたまま体を横にして、ベッドに倒れこんだ。
スマホを握ったまま。
それから回数を重ねるうちに緊張感も薄れて、寝る前は楽しみな時間になった。
紬の方が遅くまで起きているパターンが続くと、悪魔にされた誘惑が湧きおこり始めた。
もしも、電話を切らなかったら?
寝たのを確認したら、すぐに切っていたけど。
朝までなんて贅沢なんてことは言わないけど。
ちょっとだけ聞いていたら?
陽馬くんの寝言が聞けるかもしれない。
スマホだから録音機能がついているし。
紬のスマホでロックをかけていて、ナンバーを知っている人はいない。
4桁の数字だから突破できなくもないだろうけど、そんな非常識なことをする人は紬の周りにはいない。
どんな寝言を言うのか。
どんな夢を見ているのか。
紬は知りたい、と思う。
できることなら永久保存しておきたい。
とはいえ、具体的な録音方法は知れない。
ネットで調べればすぐに出てくるだろうし、スマホのAIに質問すれば答えてくれるだろう。
本人の許可を取らずに、そんなことをするのは良くない。
という紬の頭の中の天使がまだ勝利しているだけだった。
電話を切って、紬は大きく息を吐きだす。
デフォルトの「味気のない」といわれる画面が並んでいる。
彼氏のいる女の子は彼氏の写真とか、一緒に撮った自撮りの写真を待ち受け画面にしている。
高校時代の女友だちが見せてくれて、みんなやっているようだった。
けど、恥ずかしくないのかな、と紬は思ってしまう。
自分が映りこんでいる自撮りなんて無理って生理的な嫌悪が出るし、ロック画面に彼氏がいたら直視なんてできなくなる。
「恋愛って難しい」
正解がないから。
いつだって、誤答しているようだから。
操作していなかったから、ロックがすぐにかかる。
陽馬と一緒にした花見デートの時に撮った写真。
綺麗な桜が満開に咲いていた。
それを見ながら紬はもう一度、ためいきをついた。