ヴァレンタインデー決戦前夜
お正月に余ったお餅をぜんざいにしてもらって紬は軽いとは言い難い、しっかりとした夜食を食べていた。
ほかほかとあたたかい小豆の汁と柔らかく煮たお餅が、甘くて美味しかった。
最後の一滴まで紬は飲み干す。
ゼミナールに提出用の論文も佳境だ。
三年次である程度の下地を作っておかなければ、卒論に間に合わなくなってしまう。
それなのに、この土壇場というところで紬はテーマに迷いが出てきてしまった。
できる限りの資料は集めたし、自分なりに考察をした。
それでも、このテーマを大学で学んできた集大成として、卒論として提出していいのだろうか。
ゼミナールの指導教授と話し合った方が良いのかもしれない。
相談に乗ってもらっても、決めるのは……自分だ。
決断力が乏しい紬には重荷だった。
優柔不断さが嫌になる。
一瞬、陽馬くんに話を……とも思った。
けれども同学年なのだから、あちらも論文に追われているだろう。
学年しか一緒ではない。
学科が同じ人たちだって、ゼミナールが違えば話が高度すぎて、意味のわからない話をされているのと変わらない。
宇宙語でもしゃべっているような奇妙な単語が飛び交う。
紬はそっとためいきをついた。
陽馬とは学部が違うのに今まで勉強を含めて退屈しなかった。
話し上手で、説明上手だということがわかる。
陽馬くんってすごいなぁ。
尊敬しちゃう。
胃の中がぜんざいでポカポカになったから、紬は暢気なことを考えてしまう。
辛くなったら一番に、とは言ってもらえたけど、愚痴になってしまうようなことを伝えるのは嫌だった。
こんなことを夜遅く聞かされたら、眠気もあるのに気分が良いものではないだろう。
建設的でもなければ、理知的でもない。
ただの感情を受け止めてもらいだけの我が儘だ。
紬の悩みなんて、ちっぽけすぎる。
夜空に輝く星たちから見たら、小さすぎて見えないぐらいだろう。
「で、紬はどうするの?」
お母さんの声で現実に引き戻される。
紬は睫毛を瞬かせる。
「陽馬くん」
空っぽになったぜんざいの器を下げながら、お母さんは念を押すように言う。
「えっ!?」
紬は唐突に出てきた名前にビックリする。
「夜遅くに大声を上げないの」
案の定、お母さんから叱られる。
「ごめんなさい」
紬は体を小さくする。
「ヴァレンタインデーでしょ?
チョコレートを作るのなら、お父さんのいない時間にしなさいね。
陽馬くんはいい子だと思うけど、お父さんには天敵みたいだから。
まあ、あの人にとってみれば、大会社の社長でも、公務員でも、全部、反対でしょうけど」
本当に困った人ねー、とお母さんはぼやくように言う。
「チョコレートって」
「まさか彼氏に本命チョコレートを贈らないの?
手作りしなさい、とは言わないけど、陽馬くんだって期待しているわよ」
「まだ早くない?」
ぜんざいの中にはお正月の余ったお餅が入っていたのだ。
「もう催事場ができていたわよ。
早くしないと、有名どころは品切れになるから。
数量限定や予約限定もあるし。
板チョコとか、チロルチョコとかを渡すつもり?」
「さすがにそれは……」
紬は困ったように言う。
まだまだお正月の気分が抜けていなかったけれども、ヴァレンタインデー。
2月に入ったのだから、当然の行事だ。
今まで彼氏どころか、異性の友だちのいなかった紬だって、友チョコの用意していたし、ご褒美チョコだって買っていた。
お父さんへの義理チョコだって小学生の頃から欠かしていない。
お付き合いを始めたのだから、本命チョコレートを用意するのは彼女の役割だろう。
「勉強も大切だけど、学生時代にしかできない青春を楽しみなさい。
人生は一度きりよ」
お母さんは器をトレイに載せると紬の部屋から出ていった。
独りになった部屋で
「……本命チョコ」
紬の悩みが一つ増えた。
今まで気になった男の子がいなかったわけじゃない。
駆け足が早い男の子。
スポーツの得意な男の子。
あるいはテレビ画面越しに見るキラキラとした俳優さん。
どれもこれも淡い憧れに終わっていた。
近づく勇気もなく、遠くから眺めて、それで完結していた。
自己満足をしていたのだ。
けれども
「陽馬くんの好きそうなチョコレート」
紬は呟いた。
締め切りが迫っている論文はすっかりと遠のいた。
いきなり手作りは重すぎるような気がする。
ケーキ屋さんに置いてあるチョコレートたちのように綺麗に作れるとは思えない。
持ち歩く時間だってある。
市販品が無難……かもしれない。
陽馬くんもお酒は好きなのだから、リキュールの入ったチョコレートとか?
出会いが数合わせの合コンだったし。
その後だって、何度もお酒の席に誘われた。
洋酒の種類もあるし、変わり種で日本酒もある。
でもボンボンは人によっては苦手だったりするし。
チョコレートを噛んだら液体が流れてくるのが嫌だって言ったいた友だちもいた。
普段、陽馬くんは何を食べていたかな?
学食は男の子らしくお肉中心だったけど、野菜もきちんととっていた。
ミニサラダとかじゃなくて、小鉢に入った煮物とか。
洋食だけじゃなくて、和食もけっこう好きで、魚の骨をとるのも器用で。
好き嫌いとかしなくて、美味しそうに食べていた。
デートはカフェが多い。
こじんまりとした雰囲気の良いカフェをたくさん知っていて、コーヒーは豆の味や焙煎具合までわかっている。
紬も陽馬に出会ってから夏のアイスコーヒー、冬のブレンドから、少しだけど味の違いがわかるようになってきた。
コーヒー味のチョコレート。
ベタな気もするけど、大きく外したりはしないはず。
ガッカリはされたくないから。
初めての本命チョコ。
一口サイズのガナッシュやプラリネ。
定番のトリュフ。
板チョコの延長上にあるカレ・ド・ショコラ。
触感の楽しいクランチチョコ。
……思いついただけでも、こんなにある。
それらをいっぱい扱った催事場なんて行ったらバーゲンセール以上だろう。
ある程度の候補を絞って、できたらメーカーも決めてからじゃないと。
自分へのご褒美チョコ以上の難問。
でも、きっと、こういうのは贅沢で幸せな悩み、って言われちゃうんだろうな。
本当にどうしよう。
紬は頬が熱くなるのを感じた。
体が温かくなっているのは、食べ終わったぜんざいのせいじゃないということだけはわかっている。