初詣


 せかせかした時間から隔離された世界。
 どこかアンティークな空間。
 流れているBGMは控えめで会話の邪魔にならない。
 店内を彩る雰囲気は『和』だった。
 掛け軸などが掛けられているわけではないが、さりげなく置かれた陶製の花瓶にはお目出度く緑が鮮やかな松や黄色の梅が活けられている。
 陽馬の目の前に置かれたコーヒーカップも茶道で使うような材質に近い。
 大量生産されたブランドでは作れない味わい深い形をしている。
 コーヒーはブレンドの一択だったが、華やかな香りがして、酸味が少ない、コクのあるものだった。
 オーナーが毎日『ブレンド』の名の通りにブレンドして、豆を焙煎して、挽いているのだろう。
 ネットの口コミには載らないような小さなカフェだった。
 陽馬自身も載せるつもりはない。
 知る人ぞ知る、でいいようなカフェだ。
 偶然見つけてからは、たまに訪れるようになっていた。
 日中とはいえ冷たい北風に震えていた紬もあったまったらしくて、抹茶味のケーキを楽しんでいた。
 素朴な味わいのケーキたちは米粉が使われているのだろう。
 べたべたしない甘さで、軽やかな食べ心地だ。
「紬ちゃん、初詣ゴメンね」
 陽馬は謝った。
 本当だったら土下座をしたい気分だった。
 そんな目立つようなことをする気はないし、オーナーにも迷惑だろう。
 たとえ他にお客さんがいなくても。
「え?」
 紬は不思議そうな顔をする。
「おみくじも引いたし。
 ……小吉だったけど。
 新しいお守りも拝受してもらえたし」
「あの神社、夕方の五時までに行けば、毎日できるから」
 陽馬は言った。
 小さな割に参拝客が途切れない神社だけあって、社務所が開いているのだ。
 パワースポットして特集されることもある。
 取り扱いとしては隅っこの方だけど、それなりに効力があるらしい。
 紬とお参りに行った時も、女の子二人組がたくさん用意されているお守りに悩んでいた。
「新年を迎えて初めてお参りすることが『初詣』って言うんだよ。
 まだ2月の節分を迎えていないし、小正月だって迎えていないから、新年だよ。
 気にしないで」
 コーヒーの香りを楽しんでいた紬が微笑む。
 良い子過ぎる発言に、陽馬は『俺のカノジョかわいい』と思ったが、やっぱり納得はできない。
「それよりも陽馬くん、ずっとアルバイトだったんでしょ?
 疲れていない? 大丈夫?
 わざわざ私のために時間を作ってくれて。
 お家で休んでいなくて良かったの?」
 紬はためらいがちに言う。
 こちらの体調を純粋に心配してくれているのだろう。
 男という生き物は、好きな女の子のためなら多少の無理をしてでも時間を『作る』もの、ってきっとわからないのだろう。
 それに去年――といっても、まだ数日前だったけれど、そこから今までのクサクサした空気も紬と過ごしていると自然に溶けていく。
 メールや電話では埋まらない距離というのはある。
 顔を直接見たいし、声だって直接聞きたい。
「頼まれて断り切れなくってさ。
 年末年始の手当だけではなく、特別手当もつけてもらったし」
 懐は潤ったが、心は干からびそうだった。
 働いている間は完全に切り替えられるが、労働時間が終わって帰宅するタイミングになれば、俺は何をしているんだろうか、とは何度も思った。
 拘束時間が長いのが幸いだった。
 が、やっぱり紬を目の前にすると、バイトしていた時間がバカらしく思えてくる。
 警報級で流行している病気が悪いわけだけど。
 罹った連中だって好きで感染したわけではないだろう。
 ロクに病院が開いていない年末年始を自宅で苦しむわけになったのだ。
 下手するとクリスマスイブも楽しめなかったかもしれない。
「年越しそばもおせちもお雑煮も食べなかったの?
 もう七草がゆも過ぎたよね」
 紬が尋ねる。
 三浦家ではしっかり年末年始の行事を行っていたらしい。
 頑固なお父さんは古風そうだったから、きっちりとやるのだろう。
 その中『初詣』だけは行かなかった。
 いくら口約束だったとはいえ、紬が家族よりも陽馬を優先してくれたのがめちゃくちゃ嬉しい。
 じんわりと胸に沁みるような喜びだった。
「男の一人暮らしなんてテキトーだよ。
 年越しちゃったそばは、正月の朝。
 まさしく元旦に食べたけど。
 初日の出とか拝んじゃってさ。
 一緒にバイトしていた連中とカップそばに熱湯を注いで」
 思い出しながら陽馬は言った。
 ……虚しすぎる。
 大学三年生の男をして、時間の無駄遣いをしたような気がする。
 ハイテンションになっていたから、その時は楽しかったけど。
 あれは脳内麻薬が分泌していただけだ。
 実際は、楽しくない。
 冷静になった今、客観的に観れば、どう考えてもバカバカしい。
「年越しちゃったそば……。
 年明けうどんとは違うんだ。
 みんなと食べるの、楽しそう」
 紬は感心したように言う。
「団結力は湧くかな?
 仲間意識が強くなるっていうか、もう戦友って感じ」
 やけくそ気味に陽馬は笑った。
 過去のことはエスプレッソ用に焙煎されたロブスタ種よりも苦い。
「陽馬くんはすごい。
 大学で勉強しながら、ちゃんと一人暮らししていて、お金だって稼いでいる」
 紬はコーヒーカップをソーサーに丁寧に戻す。
 店内のBGMは会話を邪魔しない程度に静かで、他にお客さんはいない。
 それでも、音ひとつなく置いた。
 粗雑なところはどこにもない仕草だった。
 洗練された、と表現した方が良いのかもしれない。
「ごっこ遊びの延長だけど?」
 陽馬は苦笑した。
 やってみたいからやっているだけだ。
 立派な理由は全然ない。
 興味のあることに手を出して、痛い目に合ったり、失敗したり。
 みんなが思う『増永陽馬』と中身はかけ離れている。
 過剰評価されている、といつだって肌で知る。
 期待されることは悪い気分じゃないし、カッコつけたいと思う。
 でも、どれもが中途半端な感じもする。
「私は親のすねかじりだから」
 紬は視線を落とす。
 かじれる脛があるならかじっておけば? と陽馬は軽く考えてしまう。
「……ちょっと。ううん。かなり不安だし、心配。
 自分で何かしようって、やったことがないから。
 アルバイトだってやったことがないの。
 いまだにお小遣いをもらっている。
 そんな状態で、大学を無事に卒業して、就職して、働いていけるかなって」
 紬は黒いコーヒーを見つめ続ける。
 マスカラが塗られた睫毛が半ば伏せられる。
 パール感のあるピンクベージュ系のアイシャドウがグラデーションで塗られていることに陽馬は気がつく。
「就活でつまづいているの?」
 陽馬は質問をした。
 インターンシップ制を導入している企業も増えた。
 意識高めの学生の場合は、すでに会社の中で働き始めている。
 特に行きたい会社が決まっている場合は二年次には内定をもらっていることだってある。
 大学三年生である陽馬にとっても、紬にとっても、この冬休みは短期インターンのラストチャンスだ。
「お父さんが無理に就職しなくてもいい、とか言い出して」
 テーブルに乗った手を紬はぎゅっと握る。
 震えを抑えるためだろう。
 形が良く、シェルピンク色のマニキュアが塗られた細い指先を握りこむ。
 お嫁さんに来なよ、とはさすがの陽馬にも言えなかった。
 紬のお父さんは『花嫁修業』とでも言って家に置く可能性もあるな、とは思ったけど。
「紬ちゃんは、学びたいことがあったから大学を選んだんでしょ?
 院生を目指すのは?
 最終的には教授職を狙ってさ」
 大学院に入学して研究論文を書き続けるのは並大抵の努力ではできない。
 紬の性格や成績だったら難しくはなさそうだった。
 研究職になった方が紬の将来には合っている。
 民間の一般企業に就職したら、大学で学んだ知識を活かすチャンスは、ほぼないと言っても過言ではない。
 師事したい教授がいて、大学を選んだ紬には苦痛だろう。
「そんなに両親に、迷惑をかけられない。
 歳だけなら、もう大人。
 自分で考えて、自分で決めて、自分らしく生きていかなきゃ」
 ようやく紬は視線を上げた。
 将来に対する不安で瞳は揺れていた。
「応援してるよ。
 でも辛くなったら、一番に話して欲しいかな。
 隠し事はナシにしてね」
 陽馬は微笑んだ。
 頼って欲しいし、助けたいと思う。
 好きな女の子のためにできることがあるなら、何でもしたい。
 自分が引いたおみくじだったけど、分け合えるのなら大吉を分けたい。
 それで陽馬の運勢が凶になったとしても。
 だけど、どんなことは陽馬の気持ちの押し付けにしか過ぎない。
 紬の意思を尊重にしたかったから、陽馬はそれ以上は将来のことに口を出さなかった。
 その代わりに、バイト中に経験したバカバカしい話をした。
 紬が楽し気に笑ってくれるまで。
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