21歳になった


「お帰りなさい、紬。
 陽馬くんとお付き合いを始めたの?」
 キッチンでお皿洗いをしていたお母さんが言った。
「えっ」
 三浦紬、21歳になったばかりの女子大学生は実の母親の言葉に二の句が出てこない。
「家の門まで送ってもらったんでしょ?
 それほど大きな声じゃないけど、ここまで声が聞こえてきたわよ。
 てっきり朝帰りかと思っていたけど、しっかりとした子ね」
 お皿を一枚ずつ拭きながら、お母さんは言った。
 ……朝帰り!?
 門限が決められているわけじゃけど、そんな風に見られていたの?
 大学生ぐらいだったら、当たり前だろうし。
 初体験の年齢だって、下がりっぱなしだ。
「それでご飯はどうするの?
 食べてきたとは思うけど軽くはつまむ?
 アルコールを摂った後は、きちんとお水を飲まないと二日酔いになりやすいから」
 紬の途惑いをどこ行く吹く風のようにお母さんは言う。
 タンブラーに水を汲んで紬に差し出す。
「ありがとう」
 紬は受け取って、一口飲む。
 冷たい水は引っかかりなく喉を通っていく。
 アルコールを摂って、体温が上がった体にはちょうどいい。
 ようやく落ち着いた気分になる。
 見慣れた自宅のキッチンにいるからだろうか。
 今日は色々なことがあって……、色々……。
 紬は帰宅して一番に言われた言葉を思い出す。
「どうして私と陽馬くんが付き合うと思っているの?」
 どこから、そんな疑いがお母さんから出たのか、謎すぎる。
 朝帰りというフレーズの破壊力がありすぎて、上書きされてしまったけれども、お付き合いというフレーズもとんでもない言葉だった。
「一緒に帰ってきたじゃない。
 お断りしたなら気まずくて話をしながら帰ってこれないじゃない。
 陽馬くんに送ってもらうの、もう何度目?
 今日は紬の誕生日なんだから、記念日的にちょうどいいでしょ?
 交際記念日と誕生日が一緒なんて、紬も好きそうな展開でしょう」
「つ、付き合ってないから。
 ……告白はされたけど」
 紬はタンブラーをぎゅっと握りしめる。
 陽馬とは知り合った時から友だちだと思っていた。
 異性の友だちなんていなかったし、同性でも友だちと呼べるのは少人数だ。
 「紬ノート」の常連さんたちを友だちと呼ぶのは図々しいと思うけれども。
 越境入学を目指したつもりはなかったが、高校時代の友だちとは綺麗に進路が分かれてしまった。
 師事したい教授がいて、大学を選んだためだった。
 運よく一年次の必修科目から教授の講義を受けることができて、そのままレポートが高評価を受けて、ゼミナールにも入れてもらえた。
「まさか紬、キープしたの?
 お父さんが機嫌が悪くなるだろうけど、陽馬くんはいい子だと思うわよ。
 清潔感があって、笑顔も素敵じゃない。
 浮ついた感じもしないし、性格も真面目ね。
 面食いの紬にもぴったり」
 お母さんは容赦なく言う。
 紬だって面食いの自覚はある。
 いつだって憧れるのは、ドラマで好青年役を務めるような俳優ばかりだ。
 推し活するほどの熱量ではないし、その俳優を追いかけてテレビにかじりつくわけでもない。
 連ドラに出ればなんとなくチェックをして、映画に出れば観にいく程度だ。
 そこで爽やかだったり、純愛ものの物語を楽しんで、満足をしていた。
 ……自分の恋愛なんて想像していなかったのだ。
 紬はドラマのヒロイン役をするようなキャラクターではない。
 せいぜい、名前もつかない……いやエキストラぐらいの人生だと思っていた。
「陽馬くんのことを友だちだと思っていたから分からない」
 紬は正直に話した。
「大学から帰ってきたら、陽馬くん、陽馬くんって話してばっかり。
 陽馬くんは魚の小骨を取るのが上手だから、羨ましい。
 陽馬くんとは学科が違うから、三年次にもなると知らない講義を受けているけど、説明が丁寧だから分かりやすい。
 毎日、そんな話を紬がするからお父さんは不機嫌になっていくばかり」
「私、そんなに陽馬くんの話をしていたの?」
 紬は驚く。
 学食で昼ご飯を毎日、一緒に食べているのだから、話題は尽きない。
 『今日、学校はどうだった?』と両親から訊かれて、幼稚園児のノリで話していた。
 それも……無自覚で。
「他の男の子の名前も出てきたけど、全部、苗字にくんづけでしょ?
 先輩や先生も苗字呼び。
 たまに同姓がいたらフルネーム。
 陽馬くんだけ特別だったから、のんびりしているわね~と思いながら、お母さんは見守っていたわけだけど」
「それは陽馬くんが、そう呼ばないなら返事しないって言ったから。
 その頃には、だいぶ仲良くなっていたから、……そのあの」
 紬はうつむいてしまう。
 せっかく仲良くなってくれた人だった。
 同性でも異性でも関係なくって。
 一緒に紬とご飯を食べてくれる人だったから。
 そんな人がいなくなるのは寂しかった。
 「紬ノート」の利用者じゃなくて。
 三日たっても忘れないでいてくれそうな。
 そんな人が目の前からいなくなってしまうのが……嫌だった。
 独りぼっちになるのが怖かった。
 陽馬はお日さまのように明るかったから、小さな影法師になる紬のところまで照らしてくれた。
 教室移動の時にキャンパス内で出会えば、手を振って名前を呼んでくれた。
 毎日、スマホにスタンプが届いた。
 紬は……「その他大勢」になりたくなかった……。
 モブ中のモブだから。
 ドラマのヒロイン役になれないから。
「好き、かも」
 紬は耳まで赤くなる気がした。
 改めて言葉にしてみると、恥ずかしい。
 昨日が今日の続きで、明日も来ると思い込んでいた。
 同学部の同学年という接点しかないのだ。
 陽馬が飽きたら終わる関係で、紬から動いたことはなかった。
「じゃあ、付き合っちゃいなさい。
 返事はしっかりするのよ」
 お母さんが念押しする。
「……返事。
 だって陽馬くんと付き合うのはムリ」
 紬は慌てる。
 今、自覚したばかりで、お付き合いというのはハードルが高すぎる。
 まさか、大学三年生なのに健全な男女のお付き合いをしましょう、というわけにはいかないぐらい紬にだって分かっている。
 耳年増になるわけじゃないけれども、大学ともなれば嫌になるぐらい恋愛の話はあふれかえっている。
 大学の空き教室がきっちり施錠される理由だって、お手洗いが定期的に巡回されているのだって、……そういうことだろう。
「……何を想像したのか。
 送り狼になるつもりならいくらでもチャンスがあったし、今日だって家の前まで送ってくれたのに。
 もしかしてキスでもされたの?」
「されてない!」
 紬は間髪を入れずに答えた。
「ちゃんとのんびり屋さんの紬のテンポに合わせてお付き合いをしてくれるわよ。
 キスするつもりなら、あっさりキスできるぐらい、紬が大好きな恋愛ドラマでも散々、観てきたでしょ?」
 お母さんは言う。
 本当に増永陽馬という人物が優良物件だということが分かる。
 爽やか系の気配り上手なイケメンで、外面だけじゃない。
 観賞用の俳優たちとは違って、手を伸ばせば届く距離にいる同い年の男子。
 紬を「その他大勢」にしないで、ヒロイン役にしてくれる。
 でも……と、思ってしまう。
 自分に自信がないから、ヒロイン役が怖い。
 傷つくぐらいなら、恋愛なんて憧れだけにしておきたい。
 今のような居心地の良い距離ではなくなるだろう。
 ドラマも映画もエンディングは決まっているけれども、人生にエンドロールはない。
 お互い傷つけあうだけ傷つけあって、最悪な形で別れるかもしれない。
 恋人になる、というそういうことだ。
 もしもだけど、結婚したってゴールじゃない。
 好きって気持ちだけじゃ、乗り越えられない苦難だって待っている。
 紬には経験値がゼロだったし、度胸も足りていなかった。
「臆病ね、紬は。
 好きなのに、お付き合いできませんって。
 せっかく陽馬くんが告白してくれたんでしょ?
 その気持ちを踏みにじる、ってことよ。
 自分が可愛いから、他人を平気で傷つけるってことなの」
 お母さんは真剣に言った。
 抜き身の刀みたいに、鋭く。
 自分のことでいっぱいになっていたから、陽馬の気持ちなんて考えてもみなかった。
 きっと告白するってとっても勇気がいることだと思う。
 紬が返事を保留にしたのに、気を使ってくれて、いつものように家の前まで送ってくれた。
 今まで通りの友だちの距離感で、明るい話ばかり。
 愚痴や悪口なんて言わずに、楽しい話。
 誰かを馬鹿にしたり、誰かを否定せずに。
 国際情勢や暗いニュースは一切せずに、自分の体験談だったり、身近で見聞きしたことだったり、紬が知らないドキドキししてワクワクする世界の話。
「ありがとう、お母さん」
 持っていたタンブラーが震えるほど緊張しながら紬は言った。
 20歳だった三浦紬はいなくなった。
 今日から21歳の三浦紬だ。
 時間は連続しているから忘れかけそうになるけど、まったく同じ出来事は存在しない。
 時計の針の速さで。
 鼓動の速さで。
 世界は進んでいく。
 後悔をしないように。
 後悔しても誇れる自分であれるように。
 紬は紬の意思で刻んでいかなければいけない。
 差し出された誠意には誠意で返さなければいけない。
 お日さまの明るさを当たり前だと受け取ってはいけない。
 ……返事。
 スマホにおやすみのスタンプが送られてくるかもしれないけど、そこで返事をするのも良くない気がする。
 ちゃんと声を聴いて、顔を見て、返事をした方がいい。
 学食で昼ご飯を食べながらの返事も……微妙な気がする。
 話がある、と改めて言って、気が付いたばかりの気持ちを伝えるよう。
 紬は深呼吸をした。
 ドキドキとする心臓を落ち着かせるために。
 今夜は眠りが浅くなりそうだ、と思いながら。
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