第八章
今の天帝は、宴をたいそう好んだ。花が咲いたといい宴を開き、月が美しいといい宴を開く。それだけなら、風流を解すると微笑ましく思うだけのこと。
この宴は独り者には気が重くなるような按配となっていた。体の良いお見合いとして、開かれるのだ。それだけなら、年頃の子を持つ親も情けのあることよ、と笑うだけのこと。
一月の間に片手をくだらない数、催される宴に天帝が臨席するのは、いったい何度か。琵琶の名手の日女も思案顔になり、笛の得意の鶯姑娘もためいきをつくばかり。
今日も主不在の宴が開かれた。
はて、今日の宴はなんの宴であっただろうか、と集った者たちが首を傾げる時分の頃。ほどよく酒も回り、管弦も華やかなものに変調している。
天漢公子の天河は、端のほうで花を眺めていた。
天廷にしか咲かぬ七ひらの花弁を持つ真白き花を、特に『姉上』と敬する方に見せて差し上げたいと、思っていたのだ。
おそらくあの方は、この花の香り、美しさを知らないだろう。
万事控えめであれば、外を気安く楽しむこともない。
慎み深いその人柄は素晴らしいと思うのだけれど、移り変わりいく季節を知らせてあげたいと思う。
それが己の役目ではないだろうか、とまで一途な青年は思うのだ。
「一人酒の気分か?」
美丈夫が座る。
華々しい容貌と洗練された衣捌きに、花まで見蕩れたようだ。
ハラリと七ひらの花弁が散る。
月の光よりも淡く、清らな花弁が二人の貴公子の肩にふれ、恥ずかしそうに床に落ちる。
「彩虹か。何の用だ?」
「何の用だ、とはお言葉だな。
そう邪険に扱わずとも良いだろう。
同じ歳、同じ月に生まれた従兄弟同士、親睦を深めようと思ったまでのこと」
彩虹は酒器を片手に言う。
絹のさざめきにも似た女たちの笑い声が起こる。
灼熱の夏日もかくやの視線を感じ、天河はためいきを零した。
天弓王の八人目の妃になりたい天少女がいるようだった。
「おぬしがいると煩い」
「口数は多いほうだが、そこまで嫌われていたなんだとは思いもよらなかった」
彩虹は肩をすくめ、声を落とす。
「半分は、お前目当てだぞ」
「なお、煩いわ」
天河は眉をひそめる。
天漢公子は八十一人もの妃を持てるが、天印宮の後宮に住まう者はまだ誰もいない。
一番初めに子を上げることができるのだ。
生れ落ちたときの仙力がその子の運命を分かつとはいえ、一番初めの子が可愛いのは精霊でも変わらない。
己の容姿に自信があればなおのこと、己の才に自負があればなおのこと。
娘たちは競って、天漢公子の妃になりたがる。
「姉上を見習ってほしいと思うのは、高望みだろうか」
「あのお方は特殊だろう。
先だって、お目にかかる幸運を拝したが、まったく変わっておられなかったな……と、天帝の使いで寒花宮に訪れたのだ!
雨降りの後に、最も早く蒼穹(そうきゅう)を渡ることができるのは、竜族の俺だろう。
これが夜であれば、天漢公子を使者にお立てになったであろう」
「誰もそのような瑣末なことを気にしてはおらぬ。
それよりも、姉上はご健勝であられたか?
成人してからというものの、あちらへ訪れることがめっきり減った。
聞かせてほしい」
お役目を継いだばかりであれば、宮中の行事も覚束ず、不慣れな儀式をこなすだけで日が暮れる。
弟のように目にかけてくださるあの方のためにも、形ばかりではなく、早く一人前になりたいと、天河は日々の責務に身を入れて精進する。
最後にお会いしてから、月が満ちて欠けるのを二度もくりかえしてしまった。
折を見て文を送るも、物足りず、長き夜など想いが縮々に乱れる。
「変わらず、と言ったところだ。
季節が移ろうことを忘れるお方だな。
言葉を交わしたわけではない故に、多くを語ることは不可能だ。
気にかかるのであれば、寒花宮の主殿に尋ねればよろしかろうよ」
彩虹は言う。
「そのようなことをしたら、からかわれるのがおちよ」
「それはそれは。
あの冬の少女らの統領殿が言葉遊びの一つでもするというのか。
是非とも拝聴したいものだ。
今からでも、寒花宮にお邪魔しようか」
「夜も更けた。
女性(にょしょう)の元に訪れるには、相応しからぬ時間であろう」
「本気で言っているのか?」
「戯れごとを口にするほど、洒落たつもりはないが?」
「……天漢公子が最初の妃を迎えるのは、世の人々が思うよりも時間がかかりそうだ」
大仰に彩虹は言った。
「何が言いたい」
「そのままだ。
女の元へ忍んでいくのは、夜というのが決まりごと」
「なっ!」
天河は気色ばむ。
もし、妃を迎える日が来たならば、ただの一人の人として、天界最上の宝として扱う、と青年は決めていた。
あだの恋など仕掛けるつもりはない。
その場、その場の楽しみとして、恋を弄ぶつもりはない。
憤慨した天河が二の句を告げようとしたとき、
「夫婦といえども、日の高いうちから睦みあってはいなかろうよ」
彩虹はニヤリと笑った。
「おぬしの言い回しは、気を持たせる。
余計な飾りを外して語ればよかろう」
天河は座りなおす。
空になった夜光杯に、彩虹が酒を満たす。
青年は月の光に向かいかざす。
杯の中の実り色の酒は、氷晶で閉ざされているようだった。
「風流気取るには、まだ足りない。
天河も雅な言葉の一つでも覚えたほうが良いだろう。
よくもまあ、それで天漢公子が務まると感心する」
「厳諫という言葉があることをご存知か?」
厳しく諫言するという意味の言葉は、天帝が強く求める人柄を指す。
風吹かば、そちらへ流れていく。
争いを好まない天人たちは、穏やかすぎて場を淀ませる。
停滞は時に罪となる。
「実直なのは、我ら武官に任せれば良い」
美丈夫が胸を張る。
天弓王であることは紛いなく、真に足りる漢であったが、風流を気取る質だけに不似合いであった。
「おぬしほど、武官という言葉が似合わぬ者もいなかろうよ」
天河は膝を打ち、声を上げて笑う。
「いっそ逆のほうが良かったやも知れぬな。
俺が天漢公子で、天河が天弓王だ」
「お役目はそれでいいとして……。
おぬしが八十一人もの妃を得るのはたやすかろう。
だが、属性の異なる七人の女性を妃に迎えるのは、私にとって至難であろうな」
「その辺りは、上手く周りがお膳立てしてくれるとも。
式を挙げる前に私が顔を見たのは三人だけだ。その三人も密の知り合いというわけでもなかった。
これならば、天河でも平気だろう」
彩虹は笑いながら言う。
天界では顔を見ずに結婚が決まるのは珍しい。
いくら仲人が立つとはいえ、一度や二度、言葉を交わすものだ。
花見の宴や管弦の宴で、漢と娘が恋に落ちるように周囲は仕組むものだ。
相思相愛の形だけでも整えて、式を挙げるのが慣習であった。
「誰もが父のように苦労しているのかと思うてた」
天河は言う。
「軍破王(ぐんはおう)の苦労は、特別だ。
あのような無理難題を吹っかけられたら、大概の漢はひるむ。
誠意ある人物でなければ、彼女らの命を賭す恋には相応しからぬとはいえ。
冬の少女らは恐ろしいな。
さて、ここにはもう少し気安い天少女がいるのだ。
どの花が好みだ?」
従兄に尋ねられ、星のように煌く青の瞳が宴にいる娘たちを一渡りする。
なよなよとした風情のもの、宝石のごとく煌々しいもの、歌声が美しいもの。
綺羅らかな衣をまとい、艶やかな簪をし、彩雲のような霞披を持つ姿は、甲乙つけがたく、目に嬉しい光景だった。
けれど、と天河は思う。
「姉上に敵う女性はいない」
偽ざる気持ちであった。
「この席が何のために設けられたか、知っているのか?
天漢公子殿は」
「花を愛でるためであろう?」
青金石の双眸は七ひらの花弁に留まる。一切の色を持たない『白』は、細氷を司る少女の印象と重なる。
「宴が終わったら、一枝いただこう」
「時という氷に閉じこもった花は、ふれられないぞ」
従兄のありがたい忠告に、天河は微笑んだ。
「もとより、これは恋などではない」
「では何だ?」
「恋、ではない。
想うたら、あのお方を傷つけてしまう。
ただ弟のように、慕っているだけだ」
天河は己に言い聞かせるように、くりかえした。
守りたい、と願う相手だ。自分自身が刃になることだけは、避けねばならない。
たとえふれられなくても、その花がいつまでも心のままに咲いていられるのならかまわない。
だから、恋をしてはいけないのだ。
成人したばかりの天漢公子は、そう自分を律するのであった。
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