第九章
天の川の北の岸辺、寒花宮。
冬の少女らの住まう雪と氷に閉ざされた宮のさらに奥。履氷堂に文が届けられた。
一切の家具がない履氷堂の中は、氷柱で埋まっている。
訪れる者も少ない堂であれば、それを知る者はわずか。天漢公子ですら、それを知ることはない。
履氷堂の主、氷霧姫は文に添えられた花を手に取る。
艶やかな色の芍薬の花弁に霜が降りる。
純白の飾りをまとった芍薬は、瞬く間に枯れてしまうだろう。
氷霧姫の身の内から零れる冷気は、花々には毒でしかない。夏に咲く花であれば、なおのこと。
少女はそっと息を吐き出した。
力を上手に操れない己の無力さに、ついても飽きぬためいきが口の端に上がる。
いくつかの可能性を投げ捨て、停滞を望んだのは己自身。力の全てを一つに注げば、他が不如意になるのは仕方がない。
ここ二十歳(はたとせ)ばかり、気にすることが増えた事柄だった。
ためらいが忍び寄る。
けれども母の言葉を思い出し、これで良いのだと納得する。
灰青色の瞳を閉じ、気の流れを意識する。中核があり、それをゆるりと解いていく。
勢いをつけてしまうのはよくない。
ゆるゆると心に描く。
己の望むものを、願うものを。
水が氷結する音が堂を渡る。高音で、まるで悲鳴のようにさえずり。
氷霧姫が目を開く。
履氷堂に氷柱が一柱ほど増えていた。芍薬の花が閉じ込められた氷柱だ。
真新しいそれに、少女はふれる。ぴたりと寄り添えば、己が自身も氷柱になる心持ちとなる。気分のよいことであった。
「綺麗な花」
少女のふれた部分は白く曇っている。
如何に透明の氷柱であっても、自分の手で作ったものであっても、必ず曇ってしまう。
それがひどく不満であった。
寒花宮の主であれば、完璧な氷柱を作れるのだろうが、所詮『姫』でしかない己にはこれが限界であった。
美しい氷柱で、永遠にも似た時間を留める花を愛でたい。
氷霧姫はためいきをついた。
愚かなことだ、と従妹は言うのだろう。
「そのうち、天河もこの中に閉じ込められてしまうやも知れぬな」
天の川を閉じ込めることなど、誰にもできはしない。
氷霧姫は小さく笑う。
何故、花を凍らせるのか。その問いに少女は答えを持たない。
枯れて欲しくない。
それだけしか、答えを持ち合わせていないのだ。
氷の中の花は枯れることがない。ふれることはできなくても、失われることはない。その香りを楽しむことはできないけれど、消えることはない。氷霧姫が氷霧姫である間、永遠に眺めることができる。
やがて時来たれば、氷柱は氷霧姫と共に失せるのだ。氷柱の花は、己を置いて枯れたりはしないのだ。
少女は、氷柱の林の隙間を縫うように歩きだす。
薔薇、百合、蘭、金木犀、蓮……。天上に咲く花、全てがあるように思われた。
今の天漢公子はたいそうな花好きのようだ。季節に合わせて、さまざまな花をお持ちになる。
……今日、閉じ込められた芍薬は文に寄せられたものであったけれど。
あといくつ、氷柱を作るのだろうか。
作れるのだろうか。
氷の林の中で少女は立ち止まる。
冬の少女らの宮ゆえに噂に疎い寒花宮でも、持ち切りになるほどの話題。天界ではさぞや広がっているであろう。
成人すれば当然こと、避けては通れぬ道だ。
早晩、天印宮に妃が迎えられる。そう噂は実しやかに語る。
時間の流れは思うよりも速い。あの小さかった童子が妃を迎えるような歳になったのだ。
天漢公子の妃になるのは、どのような女性なのだろうか。
優しい少年は、妃にも花を贈るだろう。
ここを訪れることが途絶え途絶えになり、やがて忘れ去られる。
そういうものなのだろう、と氷霧姫は思う。
それでいい、と。
どれほどの時が流れても、どれほどの人が心配したとしても、氷霧姫は生き方を変えるつもりはない。
「恋は怖い」
母の言葉を呟く。
「恋は苦しみと悲しみを引き寄せる」
そう言った母が怖かった。
冬の少女らのいる寒花宮では馴染みのない感覚。
恋とは、どのような想いを指すのだろう。
亡き母の願いであれば、無碍にすることもできず、氷霧姫は縁談から身を隠す日々を送っている。
結婚と恋は別物なのだろうか。
よくわからない。
恋とはどのような気持ちを指すのだろうか。
あの優しい公子も恋をするのだろうか。
夜空に輝く星のように煌く瞳でその女性を見つめ、真摯な言葉でかき口説くのだろうか。
かつて軍破王が風香公主に思いを告げたときのように、虹色の霞披を用意するのだろうか。
ただ一人の妃として、永遠を誓い、天帝より寿がれるのだろうか。
自分とはあまりに違う世界だった。
考えても、考えても、答えは出にそうになかった。
氷霧姫はそっと氷柱を撫でた。
◇◆◇◆◇
天界の住人は往々にして気位が高い。人の子のように、地を這い回るを良しとしない者も多い。
氷霧姫は本性に戻り、その肢体を宙に伸ばし、たゆたっていた。
霞披の扱いが不得手ともなると、空を舞う方法は本性に戻ることしかない。
もっとも氷霧姫が本性に戻るのは、そのような天界人の気質とは関係の薄いところにある。
少女は手を伸ばし、花を凍らせた氷柱にふれる。透き通った氷の表面が解ける。白銀の微細な飾りがふれた形で氷柱に残る。
音すら凍った履氷堂に、音が起きた。
氷霧姫は拡散しかけた意識を集約し、扉の方へ凝らす。
冬の少女らが住処の寒花宮は、誰もが訪れる場所ではない。大方の冬の少女は、恋を知ると淡く消してしまう。天の華である少女らが無闇に散らぬように、天帝が篤く保護しているのだ。
その障壁を越えられる者は、二つのどちらかを持つ。
変わらぬ愛を誓える者であるか、寒花宮の傍の河の支配者――天漢公子であるか。
履氷堂の扉を開けたのはかつてどちらでもあり、どちらでもなくなった者だった。
縁が扉を開けさせたのだ。
その者は、氷霧姫に手を差し出す。
杓を持つよりも野の花を持つことが多い青年の右掌に、氷霧姫はおずおずと手を重ねる。
朝焼けの中で氷霧が溶けるように、少女は精霊としての形を取る。
勿忘草色の瞳が親しげに青年を見た。
「高天様。お久しゅう」
少女が言葉を紡ぐと氷の欠片が静かに輪唱する。
「元気だったか?」
かつて天漢公子であり、今や天伯となった高天は、柔和な笑顔を見せる。
死と絶望を司る冬の少女らにとって、束の間の星光。慕わしい輝きだった。
「はい」
氷霧姫はうなずいた。
叔父に気をかけてもらえることは嬉しい。物の数にも入らぬ身であれば、己自身ですら忘れかける本来の姿を思い出すのだ。
「歳と共に氷花に良く似てくる」
高天は懐かしい名前をつづる。
母娘であれば、似てくるのも道理であろう。深い縁がある故、親子として結ばれるのだ。
「恋を知ったか?」
「いいえ」
緩く首を振る。
母のようになってはいけない、と思う。氷花公主と己は別物であるけれど、良く似ているのだから、同じように道を進む可能性も秘めている。心が形作るように、形が心を作るときもある。
まだ冬の少女になる前、くりかえしささやかれた言葉。
恋は怖い。
恋を知ってはいけない。
悲鳴にも似たささやきが魂まで凍りつかせる。
曲がりなりにも『姫』と呼ばれるほどの精霊であれば、恋を知り、成就させたからといって、その存在が消えることはないだろう。
それでも強いささやきが氷霧姫を作り出したから、少女は縛られる。
「そう言いながら、氷花は消えた」
高天は穏やかに笑う。天廷の位階に相応しからぬ表情であったが、同時に叔父らしいと思うのも、また真。
「私は、まだここにいます」
伝わる体温と感触に不思議さを覚えながら、氷霧姫は言った。
数多いる天界の住人の中でも高天は『特別』であった。
こうして手をつないでいても、不快感はない。
むしろ、心温まるような気さえした。
「嬉しい言葉だが、答えではないな」
高天は氷柱の一つにふれる。
するすると氷は溶け、一輪の花が青年の左手に落ちてくる。
「あ……」
「天印宮の花だ」
青年は少女に花を見せる。
物をねだる童のように氷霧姫は手を伸ばす。
淡い紅色の薔薇の花は、天漢童子であった頃の従弟から贈られた物だった。
あの日、童子が芳香の素晴らしい薔薇だと言ったように、甘い香りが堂を満たしていく。
言いようのない不安が胸に広がっていく。存在を損ねるほどの強い感情が少女の中で湧きあがる。
永いこと変わらずにいたゆえに、急な変化に氷霧姫は恐れを人一倍強く感じるのだ。
「返してください」
悪酔いしそうな混乱の中で、氷霧姫は声を荒げる。
花の香りは麗しかったが、それが失われていくのが悲しかった。永遠のものなど存在しないけれど、近づけることはできると信じたい。
「この花は、天印宮に咲いている。
季節が良ければ、いくらでも摘むことができる。
咲いてる姿を見るといい」
高天は真剣な面持ちで言うと、手の中の花は粉雪のように消えた。
氷霧姫は天伯の左手を呆然と見つめる。
優しい叔父が何故、そのような意地悪をするのか、氷霧姫には理解できなかった。
ただただ薔薇が失われたのが、苦しかった。
悲鳴を上げられれば良かったのだろうか。
泣き叫べば良かったのだろうか。
どちらも選べなかった氷霧姫は、本性に戻る。
いつか失われるとわかっているのに、失われてしまったことが悲しくて、辛かった。
◇◆◇◆◇
「これは天廷から、寒花宮への挑戦と受け取ってもよろしいのでしょうか?」
冬の少女らが統領の垂氷公主は陛下から声をかける。
厳冬の氷柱のように、匂いたつような乙女は笑む。紅く彩られた唇がたいそう魅惑的に和んだ。
それを困ったように天帝は見る。
気性の荒い冬の少女らの統領が笑うときは、静かな怒りを宿しているときと決まっていたからだ。
「高天はお前らが思うほど、善き者ではない」
少女の祖父であり、天伯の父である、天界の支配者は、玉座の肘掛に頬杖をつく。
天が今の形に整った頃から姿が変わらぬ天帝は、ひどく若く見える。
身の内の時を自在に操るは、仙力甚大な神仙の一人であれば、当然のこと。
「思うたままに振舞う。最も精霊らしい者じゃ。
ともあれ、寒花宮の者たちには迷惑をかけたのは事実。
曲げるつもりはない。
高天の寒花宮の出入りを禁じよう」
天帝は長々と息を吐き出す。
「甘くていらっしゃる」
「可愛い子の一人じゃからな。
それに、やがては我から位を継ぐ者だ」
「納得がいきませぬ」
垂氷公主は恐れずに天帝をにらむ。
益体もつかぬ精霊であれば、その視線だけで魂が震え上がったことだろう。
公主の怒りにおののいて、周囲の空気がサッと下がる。光に満ち溢れた宮に冷気が淀み始めた。
「そうは言うても、被害は無きに等しいのだろう?
薔薇が一輪、失われただけと聞く」
「傷つけられました」
「そなたが傷をおったわけではあるまい?」
「冬の少女らは、妾が守るべきもの。
その柔き肌を傷つけるものは、狗尾草といえども許しませぬ。
……氷霧姫は叔父上を信じていた。
信を裏切った者を、どうして許せましょうか?
妾は冬の少女らが統領。寒花宮の主でございます!」
垂氷公主は凛と言い放った。
鋭い氷の切片が宙を踊り、天帝の御身へと一塊となって向かう。
天帝は軽く手を挙げ、切片をあしらう。いと尊き御前では、氷らも大人しく溶けていく。
「その気概は真に冬の少女らの統領に相応しく、麗しい。
故に、この無礼は咎めたりはせぬ。
しかし、高天には困ったものよ……。
天伯はしばらく謹慎を言い渡す。天印宮の主に、失われた薔薇の代わりを運ばせよう。
それと我からも見舞いの品を贈ろう。
二度と起こらぬと願う」
天帝は呟くように言った。
なお不満げに垂氷公主は、陛の上の玉座に座る人物を見上げる。
「話はもうない。
退がれ」
天帝が合図すると、玉の簾(すだれ)が下ろされ、謁見の終了を知らせる銅鑼(どら)が鳴る。
垂氷公主は忌々しげに揺れる玉の簾を見据えた。
「漢どもには、娘の嘆きなどわかるまい」
匂やかな乙女は吐き捨てるように言う。
叔父があのような振る舞いをしたことの意味を知りたい、と思う。
悪戯心では収まらない悪質ささえ感じられる出来事だった。
信じていたのは、垂氷公主も一緒。裏切られたと感じたのは、氷霧姫と同じ。
たかが一輪の花であろう。いくらでも摘むことができるような珍しくもない花であろう。
けれども、そこに共に宿っていた想い出はただの一つ。
それごと消えてしまったようで、縁が断ち切られたようで、辛く感じる。
感傷だと言われれば、それまでの他愛のない想いだが、想いこそ力になる精霊にとって、それは重きもの。
「いくら花があっても意味がないのじゃ」
垂氷公主は握り締めていた香木の扇を広げ、その裏でギリギリと歯をかむ。
この日より、寒花宮の出入りはさらに堅く、厳重になった。
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