穏やかな昼下がり。
長い冬の終わりに、ようやく来た春。
生きとし生けるものたちが喜びを胸に、空を見上げる季節。
待ち望んだ時の到来に、佳人は院子に出る。
その優しい光を手のひらで受ける。
つかむことのできない陽光に、自然と笑みがこぼれる。
小鳥が歌い、花が笑い、まさに爛漫の春。
院子を愛でていた飴色の瞳が、やがて一点を見つめる。
蝶が花に止まるように、鳥が枝に安らぐように、甄姫の瞳はそれに吸い寄せられた。
柔らかな黄金の中、空よりも美しい青。
それは夫となったばかりの青年の瞳の色。
静かに燃える青い焔。
甄姫よりも格段と静かに、青年は春の中でたたずんでいた。
その瞳は、甄姫を見ているようで、景色を眺めているようだった。
声をかけるのもためらわれて、佳人は言葉を持て余す。
彼を呼ぶはずだった音は胸にしまいこまれる。
「今、このときを永遠するとしよう」
曹丕は口を開いた。
それは突然で、その発せられた言葉もまた唐突だった。
甄姫は困惑しながら、言葉の続きを待つ。
「幾度もこの季節は巡ってくるが、この春は一度きりだ」
青年は言った。
その声は、余分なものは一つもなかった。
どんな気持ちも、どんな想いも重ならない。
そこにある事実を語るだけだ。
甄姫は距離を感じて、もどかしくなった。
まるで、光のように。
ふれようと、手を伸ばしても届かない。
誰もがその光の恩恵を受けることができても、ふれられない。
光が光であるがゆえの孤高を埋めることなどできないのだ。
無力な自分には。
「春をあたたかいと感じたのは……、久しぶりだ。
ずっと忘れていたようだ」
曹丕は自嘲気味につぶやいた。
こんな当たり前のことを忘れてしまうほど、その心は凍えていたのだろうか。
誰にも言わず、一人で孤独を抱え込んでいたのだろうか。
多くの人間に囲まれていたというのに、一人だったのだろうか。
それは想像を余るほどの痛みと苦しみだろう。
自分だけは、諦めてはいけない。
たとえ、届かないように思えても、……自分は諦めず、手を伸ばそう。
甄姫はそっと、青年の腕に己のそれを絡める。
「ずっと戦場にいたのですもの、仕方がありませんわ」
いたわるように、甄姫はささやいた。
言葉は理由すべてを暴かない。
気がつかせてはいけない。
それは、傷をえぐるような行為だ。
穢れなき無色の光であること望まれた青年は、期待に誠実であろうとしていた。
何の欲も持たず、何のこだわりも抱えずに。
誰にも頼らず、誰にも心を寄せずに。
これまで生きてきた。
人間らしい「情」に溺れないために、それから遠ざけられて。
事実が甄姫の胸を打つ。
同情ではなかった、強い共感だった。
曹丕が感じた痛みを、甄姫もまた味わった。
彼を彼たらしめる経験は、人として不幸だった。
だが、そのすべてを取り除いてしまったら、今の青年にはならない。
これで良かった、とするしかないのだ。
「思い出せて、よろしかったですわね」
甄姫は微笑む。
地上の王となるべき青年の肩に、頭を乗せる。
誰よりも傍にいよう。
春のあたたかさを忘れてしまわないように。
忘れても、すぐさま思い出せるように。
「一つお訊きしますわ。
どうやって『永遠』になさるおつもりですの?」
「願い続ければ、なるだろう。
人とは、そういう生き物だ」
曹丕は淡々と言う。
「我が君は意外に、夢想家ですのね」
表情と言葉のちぐはぐさに、甄姫は失笑する。
「今を惜しいと思わぬのか?」
「明日も、明後日も、その次も。
来年の春もこうしていますわ」
甄姫はにこやかに言った。
「それを永遠とは言わないのか?」
「そうですわね」
穏やかな昼下がり。
邪魔するものはおらず、若い夫婦は院子で春を楽しむ。
まるで一枚の絵のように。
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