過ぎ去った記憶、誓いはまだ胸に

「そんなことは誰にもできませんよ」

 建業の数ある院子の一角。
 人気が元より少ない院子だった。
 見るべきのような樹木が植えられているわけでもなく、色石が嵌め込まれているわけでもない。
 この季節だというのに花も少なければ、わざわざ足を運ぶ者も少ないだろう。
 それに――。

「陸遜は控えめね。
 あなたならできるわ。
 きっとでもなく。
 絶対に」

 尚香は微笑んだ。
 この院子は孫呉の誇る弓腰姫のお気に入り。
 烈火のような気性を持つ少女を怒らせたらどうなるのか。
 それを知らぬものはない。

「どこから、その自信が出てくるんですか?」
 陸遜は首を傾げた。
 先ほど、突拍子もない話を少女から聞かされたばかりなのだ。

 明朗活発といえば聞こえばいいが、駻馬のような少女だ。
 生まれてきた性別が違った。
 そこまで内外で言われる。
 もっとも歳が近いからと遊び相手に選ばれた少年は、そんなことを思ったことは一度もなかった。
 佳人らしい佳人。
 その振る舞いすべてが陸遜を強く惹きつける。

「この弓腰姫が保証してあげるんだから、もっと自信をもって」

 尚香は言った。
 紅も乗せらていないというのに唇は鮮やかだ。
 玉のような瞳と鮮やかな対比をしている。

「姫に、そこまで言われたら期待に応えないくてはなりませんね」

 陸遜は微笑んだ。
 動乱の世の終止符を打つのは己だと。
 そういわれてもにわかには信じられない。
 まだ武将として取り立てられたばかりの半人前だ。
 立案して、軍を率いることもあるが、どれも小競り合い。
 南方が騒がしく、その制圧戦ばかりだ。
 孫呉は大きな戦をしている最中でも、戦力を割かなければならない。
 足元から救われてしまう。

「楽しみにしているわ。
 ……その時は、こうやって陸遜の傍にはいられないでしょうけど」

 ひどく残念そうに尚香は言った。
 陸遜が大きな戦で指揮を執るのはまだまだ先だろう。
 孫呉には優秀な武将も、軍師も存在している。

「こちらで吉報をお待ちください。
 あるいは直接、ご報告差し上げます」

 陸遜は約束をした。
 いつか天下泰平の世が来るというのなら。
 孫呉がすべてを平らげるとするのなら。
 それが己自身だというなら、一番に伝えたいのは目の前の少女だけだ。
 きっと院子の樹木に彩る葉よりも鮮やかな瞳は喜んでくれるだろう。
 やりがいのある使命だった。

「そんな安請け合いしちゃってよかったの?」
 尚香は微苦笑をする。
「絶対にできる、とおっしゃられたのは姫ではありませんか?
 あなたに保証してもらったのです。
 それを裏切るのは、この孫呉を裏切るのと同じことでしょう」

 真剣に陸遜は言った。
 約束など曖昧なものではなく、誓いにしてもいい。
 生命を賭して、魂を賭けてまでも、絶対の律だ。

「陸遜は、立派ね。
 もう一人前だわ」

 尚香は言った。

「認めていただけるんですか?」

 陸遜は確認した。
 まだ孫呉でこれといった武勲を立てているわけではない。
 半人前扱いでもおかしくない。

「もちろんよ。
 私は私の勘を信じるわ。
 陸遜だったらできる、って直感したんだから」

 尚香は頷いた。
 それだけ少年には充分な言葉だった。
 破ることのない誓いになる。

「そこまでのお言葉をいただき、嬉しく思います。
 それでは行ってまいります」

 陸遜は出立の言葉を口ににする。
 これから山賊退治に行ってくるのだ。
 数に任せて、相手を散らすだけの小競り合い。
 こちらも本気でなければ、相手も本気ではない。
 季節の挨拶のような戦だった。

「ええ、行ってらっしゃい」
 慣れたもので気軽に尚香も言った。

 出立前に見たのが少女の笑顔で良かった、と陸遜は思った。
 しばらく建業から離れるが、この記憶だけでもしばらくは癒されることだろう。
 陸遜は拱手をすると、踵を返す。
 後ろ髪を引かれる思いとはこのことだと感じながら。
 誰も近寄らない。
 二人だけの秘密の院子を後にした。

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