「幸せですか?」
夏の影。
灼熱の大地。
乾ききった孫呉の夏。
その暑さは釜に炒られる豆のよう。
暗い影の中で、少年が尋ねた。
緑の葉が日差しを遮っているから、微妙に表情が暗く見える。
「誰に訊いているの?
確認されなくっても私は幸せだわ」
日差しの中にいた少女は自信たっぷりに言った。
明るい色の髪が短く、女性としては着飾っていない。
が、それを咎めるものは少ない。
「失言しました」
陸遜は微かに笑った。
微妙な表情の変化だったが、少女の緑の瞳には違って見えた。
「そうね。
私が幸せに見えなくても。
どこから見ても不幸だったとしても、あなたが勝手に不幸になるのは許さないわ」
影の中から出てこない少年を少女は引っ張り出す。
身長がさほど変わらないとはいえ、性別が違う。
体につく筋肉の量が違う。
年齢的にも尚香は限界を迎えていた。
これから先は子どもを産むように体つきがさらに変わっていくのだろう。
最前線に立っていられる刻限は見えていた。
歳の近い少年の腕を捕まえたとはいえ、易々と光の世界へと連れ出せたことが意外だった。、
「どんな理屈ですか?」
陽の光の中でも綺麗なはしがみ色は陰っている。
それが尚香には気にくわなかった。
「だって、陸遜は色々なことを背負い込むでしょう?
だから私が見張っていないところでは不幸になっていそうだと思って」
尚香は言った。
あと何度、こんな風に気軽に会話を交わすことができるだろう。
遊び友だちは遠くに行ってしまうだろう。
尚香の手が届かなくなるほど、遥か遠くへ。
「それほど不幸せな暮らしを送っていませんよ」
陸遜は言葉を選ぶように言った。
「じゃあ、それなりに不幸ってことね」
尚香は核心にふれる。
「塞翁が馬とも言いますから。
不幸せの後には幸せが来ると思いますよ。
それに」
陸遜は言葉をそこで句切った。
秋に見つけたはしがみ。
磨いて、漆の箱に閉じ込めておければいいのに。
そんな瞳が真っ直ぐと尚香を見た。
「それに?」
尚香は言葉の続きを促す。
「姫に、そこまで気にかけてもらえた『今』は不幸ではありません」
陸遜には柔和な笑顔を浮かべた。
いつでも、誰にでも見せるそれを。
心の底を隠すように。
踏み込ませないように。
尚香であっても。
「そう。
やっぱり見張ってなきゃ駄目ね。
私の見ていないところで、不幸を感じてるって。
認めたじゃない」
キッパリと尚香は言った。
線を引いて、距離を取ろうとするなら、詰めればいいだけ。
逃げるなら追いかけて行けばいいだけ。
「……そうですね。
参りました、と囲碁のように投了を告げなければならないようです」
陸遜は言った。
負けたというのに、その表情は清々しい。
「私が勝つなんて気分がいいわね。
ちょっとだけだけど。
私の知らないところで陸遜が不幸になっているのは許せないわ」
譲れないことを尚香は告げた。
誰にも不幸にはなって欲しくない。
それが、大切な遊び友だちならなおのこと。
「そこは譲れませんか。……困りました」
まったく堪えた風ではなく陸遜は言った。
「一生、困っていればいいと思うわ」
尚香は明るい笑顔で宣言をした。