大丈夫です。
そう伝えたい。
きっとあなたは静かに泣いてしまうだろうから。
あの日、あの時、あの場所で。
交わした約束を反故にするつもりはなかった。
誰もが約束を破るつもりであなたと約束を交わしたはずではない。
だから、約束を守って、あなたのところに還る。
自分のためにこっそりと泣いて欲しくないから、まだ大丈夫と言い聞かせる。
どうせ涙を見るなら、帰還したことへの嬉し涙がいい。
のろのろと陸遜は起き上がった。
一つでも多くの約束を守るために。
院子で交わしたささやかな……命令にも近い、無理難題な約束を履行するために。
今、還ります。
◇◆◇◆◇
それを聞いたのはうだるような暑さが紛れるように下ろされた簾についた水晶飾りの音と一緒だった。
報告に来た下官の話の意味がわからなかった。
音としては聞いていた。
話の中身は入って行かなかった。
涼風のように流れていって留まることがなかった。
すべてを報告していった下官が退り、尚香は次に聞いた音は茶碗の割れた音だった。
なめらかで鮮やかに彩色された陶器製のそれが卓から滑って。
尚香の手から落ちて。
床に落下した痛々しいほどの音だった。
「嘘でしょ?」
尚香からの唇から漏れた言葉は誰かに否定して欲しいものだった。
控えている侍女すらいない。
風を動かしている簾だけの室内で否定してくれる相手はいなかった。
「陸遜は嘘つきだもの。
これも嘘だわ。
きっと平気な顔をして帰ってくるもの」
尚香は呟いた。
思い出すのは想い出と呼ぶには近い記憶。
必ず帰ってくる、って約束をしたのだ。
あの日、あの時、あの場所で。
尚香は喉が渇きと覚えた。
カラカラになって。
喉がひきつるのを感じるほどに。
先ほどまで冷たいお茶を飲んでいたのに。
床には散らばった茶碗の破片。
飲み残したお茶が作った水溜まりの上。
そこへ、体温と同じ雫が一滴、落ちた。
今日の建業は晴天で。
眩しいぐらい青空で。
風が体温よりも高くて釜に炒られている暑いのに。
室内にいても影が遮ってくれるだけで。
そんな雨なんて降らない場所で、静かに悲鳴のような水滴が流れ続ける。