密やかな寝室の中。
灯燭は消されて月明かりが静かに差し込んでいた。
床には幾何学模様の窓枠の影が落ちている。
小喬は眠りに入る前の穏やかな時間に包まれていた。
「何か足りないものはないか?」
甘やかな声が耳を打つ。
ささやきにも似た確認の声。
小喬にとって大好きで大切な人。
その人は何度も尋ねる。
足りないものはないし、不便な暮らしをしているわけでもない。
綺麗な服を着て、たくさんの飾り物を貰って、美味しいお茶を飲んで、お腹いっぱい甘いお菓子を食べている。
結婚前と違うことは、お姉ちゃんとしっかりと手を繋いで眠れなくなったことぐらい。
それが『結婚する』ことだって、お姉ちゃんから何度も念押しされた。
怖い夢を見るからって、同じ寝台では眠れない、って。
小喬は怖い夢をちっとも見なくなったから、不満はない。
毎晩、筋肉がついた腕を枕代わりにしている。
翡翠でできた立派な枕が寝室には用意されているのに、使ったことがなかった。
広い胸板に耳を寄せて眠りにつけば、怖いことは一つもなかった。
小喬の手に比べても大きな手は淡い色の髪を梳ってくれる。
下ろしたままの長い髪。
いつもは邪魔だから高い位置で結んでしまうのだけど、眠る前だから解いている。
「欲しいものは?」
蜂蜜よりも甘い声が尋ねる。
小喬に欲しいものが一つもなかったわけじゃない。
わがままだから欲しいものがたくさんあって、欲張りな方だ。
お姉ちゃんからよく注意されていたぐらいに。
でも、今の小喬に欲しいものはなかった。
欲しいものは全部、手に入っている。
何でも願いを叶えてくれるから。
「やってみたいことや、して欲しいことは?」
再度の問いかけに小喬は顔を上げた。
「どんなことでもいいの?」
忙しい人を困らせたくなかった。
大好きな人だったから嫌われたくなかった。
「私が叶えられる範囲なら」
周瑜は断言した。
「あのね。
この前、お姉ちゃんが孫策様とお出かけしたでしょ?」
ずっと羨ましいと出来事を小喬は口にした。
「ああ。江の近くまで遠乗りに出かけたな。
休暇を取って私たちも」
「ホント!?
あのね。お弁当を周瑜様に食べて欲しいの!
お姉ちゃんほど上手じゃないけど」
小喬は望みを言った。
「出かけたいわけじゃないのか?」
驚いたように大好きな人は言った。
「お庭で充分だよ。
初めて見るお花も咲いているから。
その側でお昼ご飯としてお弁当を食べて欲しいの」
屋敷には当然、調理人がいるから、小喬が料理を用意するような場面はない。
お茶菓子ですらきちんと手配されているのだ。
一応、小喬も人並みには料理ができるようには教育されていた。
まったくもって結婚してから発揮されていなかった。
お姉ちゃんと一緒に台所に立つのも楽しかったけど、誰かのために。
大好きな人のためにお台所に立つのは楽しそうだった。
「……駄目だった?」
小喬は不安になる。
「いや、そんな簡単なことならいくらでも」
「わたしにとっては大事なことなんだよ」
小喬は力いっぱい断言をした。
「すまない。こちらの価値観を押しつけるつもりはなかった。
結果的には小喬の意見を否定してしまったが」
「じゃあ、今度のお休み楽しみにしているね!」
忙しい人を独り占めにできる。
誰も見ていない場所で。
穏やかに。
小喬が作ったお弁当を美味しいと喜んでもらえるだろうか。
天気が良いと嬉しいな、と小喬は思った。
「私も小喬の手料理を楽しみにしている」
優しく髪を梳っていた大きな手が小喬の頬にふれる。
それから口づけを一つ、額に落としてくれた。
「お揃いだね」
ふわふわとした嬉しい気持ちで体がいっぱいになる。
このまま月まで飛んでいけそうな気もしてくれる。
小喬は安心してまぶたを伏せた。
この腕の中なら、怖い夢は見ない。
安心して眠りにつける。
これまでも、これからも。