藤薫る宵の語らい

 灯燭がなくても明らかなほど御簾が揺れた。
 春雷と呼ぶには遅く、五月雨の頃にも相応しくなく。
 だからこそ藤姫は眉をひそめた。
 就寝前の時間だから、女房たちはみな退出している。
 いや、傍にいたとしても、この風を止めたりはしなかっただろう。
 物語に出てくるように信頼していた女房が手引きしたかもしれない。
 藤姫もそういう覚悟をしなければならないのだ。
 母親違いの姉が帝のお傍に仕えるために入内した歳と同じ歳になった。
 これから起こることのへの恐怖を覚えながらも、じっと御簾の先を睨みつける。
 藤という花は簡単に手折られるようなものではない。
 その蔓は他の木々にしがみつき、枯死させてまでも己自身は薫り高く咲く花なのだ。
 しっかりとした足取り。
 季節外れの香り。
 秋風のようなもの悲しい薫香は侍従。
 それを好む男性を藤姫は幾人か知っていたが、こんな場所に恋文ひとつなしに忍び込んでくる男性はひとりだけだ。
 藤姫の間近に置かれていた灯燭で容貌が明らかになる。
 都中の女人たちが憧れる、という公達がいた。
「やあ」
 唐猫よりも気まぐれな男性は当たり前のような顔をしてやってきた。
「どのようなご用ですか?
 ずいぶんと夜が更けましたが?」
 藤姫の声は自然と硬いものになる。
 憎々しいと思っているわけではない。
 吐き気がするほど嫌悪しているわけではない。
 ただ、上背のある公達にはいいように幼子のように弄ばれているような気がするのだ。
 思い交わす仲でもない、というのに、このように子の刻に近い時間に訪れてきたのも不審すぎる。
 友雅は気にした風ではなく、勧めもしないのに藤姫の目の前に腰を下ろした。
 侍従の香が強くなった。
 鼻につくような嫌味な香りではない。
 が、どうしても藤姫には気になる。
「君に贈り物をしようと思って来たんだよ」
 気にした風でもなく友雅は自分の用件を伝える。
 藤姫のささいな感情の変化などどうでもいいように。
 本当に捉えどころのない風のように。
 漆の小箱の中に収めておけないように。
 水とて小箱に入れれば、合わせてその形になる。
「藪から棒ですわね」
 藤姫は床に視線を落とす。
 おおらかに笑ってなどいられなかった。
 秋風だというのなら、形も残さず去っていってほしい。
 そんな日には藤姫の心は野分のようにちぢ乱れるだろうか。

「今日は私の誕生日と貴女の誕生日のちょうど間だろう」

 友雅の言葉に藤姫はパッと顔を上げる。
 あの時と違って頭には牡丹を模した冠が乗っていないから金属音は耳元で響かなかった。
 けれども藤姫の心の臓をぎゅっと握るには充分だった。
 指先までもが震える。
 友雅はほろ苦いものでも口にしたように笑っていた。
「……覚えていらっしゃったのですか?」
 声の震えを止めることはできなかった。
 藤姫は瞳が熱くなるのを感じる。
 歓喜からではない。
 そんな単純な喜びという感情ではなく、もっと複雑に折り重なったものだ。
 一つの言葉では言い表せられない想いで、心が揺れる。
 五月雨のように。
 音がした。

「まだ……」
 藤姫はどうにか笑みらしきものを浮かべた。
「あれほど鮮やかな女人だ。
 何年経っても忘れないだろう」
 友雅は静かに紙扇を取り出すとゆっくりと片手で開いていく。
 パタパタと扇が音を立てる。
 その様子を眺めながら
「『真ん中ばーすでー』でしたわね」
 藤姫は口の端に乗せた。
 公達との距離が近づいた分だけ、いっそう秋風の香りを聞く。
 二人の誕生日の真ん中。
 二人の心にいる女人が教えてくれたことを。
 二人そろって偲ぶ。
「どうして止めなかったのですか?」
 長いことを藤姫の中でわだかまっていた疑問を尋ねた。
 女人たちが蕩けるように魅力的な瞳が興味深そうに藤姫を見た。
「おや、まるで私と神子殿が情を交わすような間柄だったような口振りだね」
「違うのですか?」
 藤姫は問いを重ねる。
 友雅は困ったような笑顔を見せた。
「確かに情熱を思い出させた女人だった。
 でも、それだけだった」
 清々しいほどさっぱりとした口調で友雅は言った。
「『恋』ではなかったのですか?」
 目の前の公達は八葉に選ばれたから急激に変貌
した。
 以前を知っているだけに、藤姫が別人になってしまったのではないか、と。
 心変わり、とすませられないほどに変わったのだ。
「……そうだね。
 私に変化をもたらしたのは間違いない。
 八葉なんて重大な大任を任されて、人ならざるものと渡りあえば、私のような老人であっても価値観は変わる。
 天女は天界に帰るのが一番だ」
 懐かしいと思うけどね、と友雅は付け足すように言った。
 それでも藤姫には納得できなかった。
「さて、肝心の贈り物だ。
 神子殿は誕生日には『ぷれぜんと』がつきものだと言っていたからね」
 友雅は一抱えのある小箱を藤姫の方に差し出す。
 皮肉だろうか。
 黒い漆塗りの小箱には螺鈿の見事な藤の花が咲いていた。
「いつまでも忘れないように」
 友雅に促されて、藤姫は小箱の蓋を開ける。
 ふわりと秋風の香りが肌を撫でていく。
 閉じ込めておけない風がそのまま空を舞い上がっていく。
 空薫《そらだき》のように。
 小箱に収められていた桜色の布の絵巻物に藤姫は手を伸ばす。
 軸木に香木が使われているのだろう。
 おそらく沈香。
 特別にあつらえたものだと藤姫にわかる。
 華やかな紫色の巻緒を藤姫は慎重に解き、絵巻物を床に置く。
 友雅と藤姫の間に、二人の間に、それは広がった。
 生き生きとした龍神の神子の活躍が描かれていた世界がある。
 瞳が潤むのを感じる。
「記録を残すのは星の一族だけではないよ」
 友雅の優しい声が耳朶を打つ。
 藤姫は袖で目頭を押さえた。
「素晴らしいですわね」
 やっとのことで、それだけの感想を絞り出した。
 伝えたいことはもっとたくさんあったのに。
 想いがあふれかえってそれだけを言うのがやっとだった。
 藤姫が屋敷にいて、見られなかった神子の姿が絵巻物の中には閉じ込められていた。
 おそらく上背のある公達が実際に目にしてきた姿だろう。
 どのような想いでこの絵巻物を造らせたのだろうか。
 それを誕生日の『ぷれぜんと』として間に合わせのだろうか。
「気に入ってもらえたのだったら光栄だ。
 これならいつまでも覚えていられる。
 二人でこれからは絵巻を見ながら懐かしもうじゃないか。
 今はここにはいないけれども、心の中に住んでいる女人について」
 友雅は穏やかに提案した。
「それはよろしい楽しみですわね」
 絹の衣が涙を吸っていくのがわかる。
 愛惜しいまでの哀しみだった。

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