桜の残香

 季節は巡る。
 一つ二つと重ねて、静かに。
 目に見える形でまたやってくる。
 初めて龍神の神子が降臨した季節が再びやってきた。
 ハラハラと散りゆく薄紅色の桜は、彼の人によく似ていた。
 そして、それを無言で見送る上背のある公達に、藤姫はそっとためいきをついた。
 孫庇に座り込んで、橘友雅は庭をずっと見ている。
 陽光の中、桜の花びらが風に舞っている姿は風情があったが……どこか寂しい。
 それを眺めている友雅はもっと寂しそうだった。
 藤姫は硯に筆を置く。
 静かな空間に玉のような音が響いた。
 それほど大きな音ではなかったが、友雅はゆるりと振り返った。
 癖のある長い髪がそれにならう。
「お邪魔だったかな?」
 艶やかな笑みを浮かべて友雅は尋ねる。
 藤姫が見ていた背中とは、まったく別ものだった。
 秋の除目で位階が上がって中将になった華やかな噂が多い男性に相応しく。
 女性たちを蕩けさせるような完璧な笑みだった。
「何をいまさら」
 藤姫は公達を見る。
 立ち上がり、御簾をくぐって、孫庇まで出る。
 以前だったら牡丹の花を模した金属の冠の音がして、きららかな音を奏でただろう。
 衣を引く音だけが続く。
「冷たいね。
 そんなに私は邪魔者かい?」
 まったく気にした風ではなく友雅は表情を崩さず、言葉を重ねる。
「慣れてしまいましたわ」
 藤姫は友雅の近くに座る。
 室内で見るよりも桜が鮮やかに見える。
 そして頬にそよと風を感じた。
 公達の目は藤姫を透かして、どこか遠くを見ていた。
 遠い昔を見るように。
 かつての……神子が来る前の姿に戻りつつあった。
 それが稚い少女の胸を打つ。
「気が回らなくて失礼したね。
 もうこちらには訪れない方が良いかな?」
 友雅は紙扇をパタパタと開き口元を隠す。
 焚きしめられている香は侍従。
 秋風の香りだ。
 この季節には合わない寂しい香りだった。
 置き去りにされた季節のように、友雅の心も置き去りにされたように、藤姫には思えた。
「それは寂しくなりますわね。
 こちらに訪れる方は少なかったですから。
 神子殿がいらっしゃる前から」
 藤姫は微かに笑みを浮かべる。
 土御門の大臣と呼ばれ権力を振るう父であっても、世間では公表されていない末の姫であれば、邸宅の端にしか居場所はなかった。
 『星の一族』の血を引く、というだけの価値しかない。
 それも京が救われたのだから、血筋を残すという意味だけで婿が決まりそうだった。
「でも、友雅殿にとってはそちらの方がよろしいのではありませんか?」
 藤姫は言った。
 ここに訪れれば嫌でも思い出すだろう。
 龍神の神子がいた、という時間を。
 じっと藤姫は友雅を見つめる。
「はしたない、と女房たち怒られるよ」
 友雅はすっと目を逸らした。
「それよりも私は友雅殿の本心が聴きたいのです」
 藤姫はキッパリと言った。
「……本心。
 覗いてみても面白いものではないよ」
 大人の余裕のように友雅はたしなめる。
 まるで頑是なき子ども言い聞かせるように。
「どうして手を放してしまったのですか?」
 誰の、と藤姫は言わなかった。
 それで通じると思っていた。
 友雅は長く息を吐きだした。
 それからようやく藤姫を見た。
「私よりもふさわしい相手がいたから。
 では答えにならないかな?」
 深い色の瞳は哀し気に細められた。
 痛々しいほどに傷ついていた。
「友雅殿には必要な手だったのはありませんか?」
 藤姫の言葉に友雅は紙扇をゆっくりと閉じていく。
 秋風の香りがより濃く匂う。
「鋭いね、星の姫君。
 貴女には敵わないようだ」
 友雅は掃き清められた板敷に視線を落とした。
「幸福になって欲しい、と願ってしまったんだよ。
 私では幸福にしてあげることはできない。
 それが分かっていたからね」
 何もかも諦めた口調で言う。
 桜のように散ってしまうのではないか。
 友雅の頼りのない雰囲気に藤姫は袖の中の指を握りしめる。
「どうすれば友雅殿は幸福になりますか?」
 稚い少女は真心から言う。
「貴女が私を幸福にしてくれるのかい?」
 友雅は視線を上げる。
 信じられないものを見るように藤姫を見て。
 それから幼子のように無邪気に……笑った。
「それはいい。
 二人で駆け落ちでもするかい?
 すべての役目を投げ捨てて、手と手を取り合って、物語のように。
 どこまでも遠くに。
 誰も知らない場所まで逃げようか?
 私は貴女が草に置かれた露を勘違いしても、きちんと白玉だと答えるよ。
 鬼に食われてしまっては盗み出した甲斐がないからね」
 友雅の声は弾んでいた。
 まるでお伽噺を語るように楽し気に。
 そんなことはできない、と知っていながら。
「今宵、貴女をさらいにこようか?」
 友雅は声を潜めて告げる。
 しっとりと落ち着いた艶めいた声が藤姫の耳をくすぐる。
「まあ、素敵ですわね」
 藤姫はついクスクスを声を漏らしてしまう。
「本気の恋だと思っていないようだね」
 侍従の香を聞きながら
「友雅殿は一途ですもの。
 すぐに次の恋はできないと思っていますわ」
 藤姫は答えた。
 女人の数にも入らない身だ。
 花の名を冠すれども、香りで惹きつけられるとは思っていない。
「ずっと貴女のことを思っていました」
 友雅は藤姫の手を取り、真剣な表情で告げる。
「……そう言っても、貴女は信じないのだろうね」
 困ったように友雅は言う。
 トクンっと藤姫の心臓が飛び跳ねた。
「いつ、気がついたのですか?」
 震える声を気取られないように、藤姫は慎重に尋ねる。
「手を放してから」
 思い返すように友雅は言った。
 元の世界へ。
 天界へと戻ってしまった乙女を追いかけるように。
「では偽りの恋だったのですか?
 情熱的に想っているように見えましたけど」
 藤姫は睫毛を瞬かせる。
 にわかには信じられないことだった。
 何もかもに飽いていたような公達が変わっていく姿を間近で見ていた分だけ、突然の告白に驚く。
「他の男に託すことができる。
 それが答えだ」
 友雅は懐かしむように微笑む。
 確かに時は過ぎていった。
 藤姫の身の丈も、髪も伸びたように。
 季節は巡ってきたけれども、時間は流れていった。
 同じ春はなく、もう過去にしてもおかしくはない。
「少し前まで子ども扱いしていた相手に恋をささやくのですか?」
 藤姫は動揺を隠しながら言った。
 真っ直ぐと友雅を見つめる。
「……これは私の負けのようだ」
 友雅はパチンを紙扇を閉じ切った。
 まるで区切りをつけるかのように。
「遊びの時間はおしまいのようだ。
 貴女が完全に大人になる前に摘むのは無粋だからね。
 ……そうだね。
 この庭の木蓮が咲く頃に文を贈るとしよう」
 友雅は悪戯を思いついた時の子どものように笑う。
「恋文ですか?」
「もちろん。
 貴女に捧げる歌を詠もう。
 もう二度と手を離さなくてすむように」
 友雅はすっと立ち上がった。
 それにつられるように藤姫も立ち上がった。
 本当に公達は上背に恵まれている。
 藤姫は首が痛くなるほど顔を上げなければ視線が合わせられない。
「楽しみに待っています」
 傷ついた心が癒えるように、気持ちを込めて。
 藤姫は言った。
「ますます敷居が高くなるね。
 期待を裏切ってしまってはいけないからね」
 友雅はかがむ。
 長い髪が揺れて、藤姫の目の前に滝のように落ちてくる。
「私のただ一人の姫君」
 耳元でささやく。
 陽光でできた蜂蜜よりもとろけるような甘露のような声音だった。
 藤姫は顔が熱くなるのを感じる。
「調子のよいことばかり言わないでくださいませ!」
「拙い文だと添削はしないでおくれよ」
 カラカラと笑って友雅は離れる。
「それでは失礼するよ。
 これ以上、貴女を怒らせる前に。
 次は夜に逢いたいものだ」
 機嫌よく友雅は言うだけ言うと歩いていってしまう。
 残された藤姫は唇をかみしめる。
 また悪ふざけに付き合わせたのだ、と思った。
 ふいに孫庇まで桜の花びらが一枚だけ……落ちた。
 風に乗ってきたそれを見つめて、藤姫は手を伸ばす。
 朽ちたというには鮮やかで、しっとりとした花びらだった。
 舞う姿は美しいものだったが、それでもどこか寂しい。
 遠ざかっていく足音を聞きながら、藤姫は友雅の背中を追いかけた。
 完全に見えなくなって、女房たちに怒られるまで。
 孫庇で見つめ続けていた。

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