「トッリク・オア・トリート!」
芽衣は元気よく言った。
それに呆れたような視線が返ってきた。
銀縁眼鏡の奥のホーリーグリーンの瞳は出会った頃と同じような色をしていた。
自分を芽衣の保護者だと言っていた頃と同じ。
「いつまで子どものつもりだ」
キールはためいき混じりに言った。
その響きには甘さの欠片もなく、冷たい。
この世界に来て2回目の晩秋。
芽衣はクライン王国に慣れたように、相手も芽衣に慣れきってしまった。
「学習能力がないのか?
お菓子なんて用意していない。
いつまでたっても子どものままじゃ俺が困るからな」
キールは言った。
芽衣がいた世界の言葉にも違和感を覚えていないし、習慣に詳しくなった。
……否定しないでいてくれる。
ちゃんと受け入れてくれてる。
他の誰かに言っても、こうはならないだろう。
風変わりな習慣をやんわりと止めて、こちらの世界の流儀を教えてくれるだろう。
それをキールはしない。
芽衣には純粋に嬉しかった。
キールは読んでいた分厚い本を閉じる。
パタン、って大きな音がした。
片手で持つ方が辛いほどの……鈍器みたいな本だ。
辞書みたいに厚みがあって、堅い表紙がついている。
机の上には院で一年前にも見ていたように、大量の本が積まれている。
あの時と今はだいぶ状況も環境も変わった。
ここはクライン王国の王都だったけど、魔法研究院内ではない。
こじんまりとした小さな家だった。
芽衣の苗字も藤原から変わったばかりだ。
手続きから、引っ越しまで、ドタバタしていたせいで、甘さの微塵もない新生活だった。
周囲の方も芽衣の扱いが変わらないのも大きい。
一番変わっていないのがキール……と言いたいところだったけど。
「お菓子はいらない。
代わりに悪戯をしてもらおうか?
そういう行事で、そういった魔法に近い合言葉だったよな?」
確認するようにキールは尋ねた。
狭いとは言えない机の上に読んでいた本を置く。
嫌な予感がしてバスケットを抱えてきた芽衣はじりっと半歩退がる。
自分から部屋に乱入してきて、逃げ出そうとしていた。
全力で追いかけっこをすれば逃げ切ることも不可能ではないが……あくまで見知った範囲内だ。
活動範囲と許された半径が今まで狭かったために、知らない場所まで逃げて帰れなくなって、キールに回収されたのは記憶に新しすぎた。
迷い猫が迷子犬みたいなことをしてしまった。
おかげで首輪をつけられる羽目になった。
センスのある友だちのおかげで、魔法探知などモロモロが入った魔法具には見えない首輪だったけれども。
今現在でも、芽衣の胸元で揺れている。
親指と同じサイズのグリーンの宝石が入った銀色の鎖の首輪だ。
ぱっと見は大き目な宝石がついたシンプルなデザインのネックレスだ。
恋人同士や夫婦同士がお互いの色の瞳の宝石を身につけるのは、こちらでは愛情表現の一種らしいので違和感は持たれていない。
魔法をちょっとかじった人物たちは『キールは過保護だね』で笑ってすましてくれている。
芽衣自身も過去の行いに反省しきゃいけない面もある、とわかってるから首輪を受けいる状態だった。
それにクライン王国では……という習慣は、年頃の女性としては心が弾まないわけがない展開だった。
「ちょうど試してみたい魔法がある」
キールは口角を上げただけの笑顔で言った。
「間に合っています!
遠慮するから!
季節感って言うの?
お約束をやってみたかっただけだから!」
芽衣は胸に抱えていたバスケットを大きな机の上に置いた。
本がない隙間に小さなバスケットはぴったりと収まった。
まるであらかじめ計ったように。
「俺がこの手の物を食べられないを知っているだろ?」
牛乳に対してアレルギーがある青年は言った。
完全に食べられないわけではなく、ある程度の上限もあるのも、芽衣は知っていた。
じゃなきゃこの世界で、暮らしていけない。
芽衣のいた世界で完全除去をしないといけないほどのアレルギー体質だったら、乳製品が全部口にできないだけじゃなくて、それと一緒に作られた料理の調理器具ですら、反応が出る。
普通に院の食事をしていたし、王宮で招かれれば最低限の物を口にしていた。
できるだけ避けるようにしていたけど。
「ちゃんとキールでも食べられるような物にしました。
豆乳を使ったから大丈夫だよ」
「あの豆の絞った汁か。
よく思いつくな。
こっちじゃ珍しい」
キールはバスケットからクッキーを一枚、手に取った。
焼きたてだから、まだほんのりとあたたかいはずだ。
「試しに作ったら美味しいって言ってくれたから。
キールには色々なものを食べて欲しくって」
褒められて芽衣の声は自然と喜びに彩られる。
「まあ、悪戯をされても困るからな。
これでお茶にするか?」
キールは芽衣を見て優しく微笑んだ。
「え、いいの?
研究中だったんじゃ?」
芽衣は目を大きく見開く。
キールは秘密主義なところがあるから、どんな研究をしているのか教えてくれない。
部屋にこもっている時間が長く、熱心に過去の文献や他国の文献を読んでいるんだから、キールにとっては重要な研究なんだろう。
それぐらいしか芽衣には知らなかった。
「そういうのをぶち壊したのはお前の方だろうが」
「ちょっと根を詰めてるっぽいから休憩して欲しかったけど」
芽衣は願望を口にした。
構って欲しくて寂しかった、って言えるほど子どもじゃなくなった。
新生活になってから一緒にいる時間は長くなったし、三食は健康的に研究を続けるために必要不可欠、と芽衣が押し切ったおかげで、小さなテーブルを囲んでゆっくりとした食事の時間をキープされている。
たまに考え事をされてしまうが、芽衣の他愛のない話を聞いてくれるし、些細なことでも覚えていてくれる。
女の世間話なんて退屈で時間の無駄遣いだ、なんてバッサリと切られるかと思ったけど、そんなことはなかった。
「それでお菓子か」
「頭の栄養になる、て聞いたことがあるし」
芽衣は答えた。
料理に興味はあったものの、栄養学を学ぶほどじゃなかった。
レパートリーだってもう少し増やしておけば、こっちの世界でも活かせていただろう。
基本的にヨーロッパに近い食材が多い。
市場に並んでいる野菜を見て、奇妙な色や形の野菜たちに驚き、店主から調理法を訊くことが少なくない。
食べて見れば馴染みのある味になったりするから不思議だ。
「あいかわらず高度な文明だったんだな」
クッキーを一枚、手にしたままキールは静かに言った。
微かに苦みのある笑顔を浮かべていた。
……まだ後悔しているんだ、と芽衣は思った。
こっちはもう気にしていないのに。
第一、キールが召喚してくれなかったら、芽衣はキールに会うことなんてできなかったのだ。
毎朝、エーベ神に感謝してるぐらいなのに、通じない。
「せっかくだ。
こんな所じゃなくて、もっとマシな場所で休憩にしよう。
家の中と、公園のどっちがいい?」
キールは立ち上がった。
「家の中!
せっかくテーブルクロスを買ったから」
芽衣は機嫌よく答えた。
少しずつ増えていくファブリック。
シンプルで……いわゆるナチュラルテイストと呼ばれるものだったけど、それでも新しい生活が始まったのだ、と幸せな気分に浸れる。
この世界で始めた二人っきりの新生活は芽衣にとって幸福そのものだ。
それはお菓子を貰うよりも甘い暮らしだった。