「ハッピーホワイトデーです! 司馬懿さま」
3月14日。
曹魏の城でも夢見る乙女は存在していた。
黒く長い髪をなびかせて、勢いよく司馬懿の書斎に入ってきた。
大きなクリっとした瞳は期待でいつにもまして輝いている。
「お返しをください!」
はハッキリと言った。
どこの世界に、そんなホワイトデーのおねだりの仕方があるのだろうか。
と、まあ、思う人間もいるだろうが、曹魏の城では少数だ。
もちろん、大多数に司馬懿も入っている。
こいつならやりかねない。
で、ある。
「押しつけていった物に丁寧に返す義務があったとは知らなかったな」
竹簡を読みながら司馬懿は言った。
書卓の上には山積みの竹簡。
つまり、軍師として司馬懿に割り当てられた仕事である。
調整をしたのは曹魏の帝王である曹丕だ。
自分が楽をするためだったら、何でもでする性格に育ったので、元・教師だった司馬懿も教え子を正道に戻すのは諦めている。
「それは義理チョコの話です。
今年は本命チョコとでした!」
は恥じらいという単語すらなく言った。
色気もかけらもない。
恋の駆け引きを知らない少女らしい発言だった。
紆余曲折があったものの、二人は婚約者同士だった。
何故、速やかに結婚ができていないか、というと、その方が面白そうだと思った人物が曹魏には山のようにいたからだ。
その代表格は曹丕である。
さすがに曹魏の国民であれば、皇帝陛下の許可がなければ結婚はできない。
もちろん反旗を翻して、他の国に渡るという手段もなかったが、優の方は考えもつかない発想だったし、司馬懿は司馬懿で今まで敵対していた勢力のところに行くのも面倒だ、という事情もあった。
食べるのには困らないキナ臭さもない宮中生活なのだから、しばらくは平穏に身を委ねているのも悪くない、と司馬懿ですら考えていた。
「だからと言って、100%返す必要も感じられないな」
司馬懿は言った。
ようやく書類から目を離し、を見た。
「今日、お返しが貰える贈られたチョコレートに入っていたのは真心ではなく、下心だったというわけだ。
お中元、お歳暮というが、それでは賄賂だな」
「そ、それを言われると……」
は必死に考えて、考えまくって
「本当にお菓子がないんですか?
会議で出された余り物とか!?」
と言った。
余り物が欲しい。
もしくは司馬懿が持っていると確信している。
なかなか失礼、いや大胆な発言だが、れっきとした理由がある。
が過去に経験した判断から弾かれた計算式なのだ。
「私が護衛武将をしていた頃は貰ってました。
甘味は好まないから無視していたら、甄姫さまとかに無理やり押しつけられたって。
私が遠慮しないで食べるからって。
そういうのでいいんです!」
は言った。
護衛武将時代、何かと物を貰っていた少女である。
食べ物をくれる人は良い人、という公式が頭の中にあるには理由はきちんとあった。
好き嫌いもできるはずもないほど貧しい寒村の出だったからだ。
どれぐらい貧しいかと言ったら、飲み水が透明で、濁っていないし、小さな砂粒が入っていないと歓喜するレベルだ。
曹魏で武将と名の連ねるほどの者にとって、そこまでの貧困は知らないから、余計に同情心を煽り、ついでに庇護欲も誘ったわけだ。
は最下層の出であるが、この時代の平民としては、16歳まで生きの伸びて、護衛武将として仕官できたのだから、かなり豪運の持ち主とも言える。
雑草よりも逞しく生きてきた少女だった。
「やたらと食い下がるな」
「今日は3月14日なんです。
ホワイトデーに司馬懿さまからお菓子を貰った、って事実が大切なんです。
乙女の夢で、憧れなんですよ!」
は力説をした。
会議に出た薄い焼き菓子一枚でも良かったのだ。
むしろ、それぐらいでいい。
にとって期待度はそんなものだった。
「叶える気にもならないな」
司馬懿はあっさりと言った。
「そうですか……」
はわかりやすいぐらい項垂れた。
泣きはしなかったが、それぐらいにはショックだった。
しかも相手は有言実行なのだから、折れるしかない。
「もっとも、子どもにはちょうど良いものがあるがな」
「へ?」
司馬懿に手招きされて、ひょこひょことは書卓を回る。
大きな机の、竹簡の林を抜ける。
「手を出せ」
「はい」
は何の疑いもなく、手を出した。
小さな箱が置かれる。
木目が美しく、艶が出ている上等な木箱だった。
箱の大きさに比べて、ずっしりと重たい。
の頭の中にソロバンを弾く音と共に、ハテナマークが大量に飛ぶ。
「弾棋の駒だ。
いつまでも殿から貰った物を使っているからな。
硬さはそれなりにあるが宝石ばかりだろう」
「はぁ、そう言われればそうですねー。
高く売れそうな物ばかりです。
もちろん、さすがに皇帝陛下から貰った物は売りませんけど」
のんびりと優は答えた。
小首を傾げながら。
「次からはこれを使って、遊んでもらえ」
「いいんですか?」
「さして価値のあるものではない」
「え!?
めちゃくちゃ高そうなんですけど!!」
は失礼に失礼を重ねた結果、パカリッと小箱のふたを開けた。
高そうではなく、高いものだった。
少なくとも、の審美眼は【高級品】と訴えていた。
「ただの木材だ」
「こんな良い香りがするものが、たたの木なわけないじゃないですか!?
木目も綺麗に揃っているってことは芯になる中央部分だし。
材木で加工して出た端材でもないじゃないですか!?
しかも年輪から言って、かなり太い樹から削られていますよね!?」
は言った。
似たり寄ったりの主従だということも良く分かった。
たかが弾棋の駒。
遊び道具を宝石で揃える曹魏の皇帝に、特級品の材木から作り出した品々を用意する臣下。
の価値観からすれば、五十歩百歩だった。
「気に入らないのか?」
「気に入りました!
これからは司馬懿さまから貰った駒で遊びますね♪
ありがとうございます!」
間髪入れずには答えた。
冬の太陽のように淡い色の瞳が一瞬、眇められる。
悪いことをしたつもりは一切ないというのに、の心拍数は上がる。
護衛武将時代の訓練で武具を背負った上で、さらに負荷をかけられて、全力疾走した時よりもドキドキとしている。
自分でも動転する心の動きに、はたと気がつく。
「って、あれ!?
これってホワイトデーじゃ!?」
声だって自然にひっくり返る。
定番のお返しは、マカロンだったり、マドレーヌだったり、キャディーだったりと多彩ではある。
胃に自信があるならバームクーヘンだってあり得る。
が、食べておしまい、ってわけではないのがホワイトデーだ。
「好きにしろ」
「はい、好きにします!」
は満面の笑みで答えた。
確かにホワイトデーでお菓子は貰えなかったけど、一生モノの物を貰ったのだ。
一朝一夕で用意できるものじゃない、お返しで。
ドキドキは続くものの、小さな心臓は喜びではちきれんばかりになった。