26年度版ヴァレンタインデー

「ハッピーヴァレンタインデーです!
 司馬懿さま♪」
 この季節に相応しくない明るさで は飛び込んできた。
 仕事中の司馬懿がちらりと己の婚約者を見た。
  の細い腕には少し大きめの紙袋。
 これはヴァレンタインデーの催事場で買ってきた時についてきた紙袋です。
 と言わんばかりの洒落たデザインの袋だった。
「もう、そんな時期か」
 司馬懿はためいきをついた。
 行事を軽んじるつもりはないが、決済待ちの書類の山を見ると、さすがに後回しになりがちであった。
 それもこれも元教え子である曹丕のせいだ。
 自分自身が楽するためなら、何でも使う。
 曹魏の帝王であれば、司馬懿も逆らうわけにはいかない。
「まるでお中元かお歳暮のような扱いをしないでください」
  は不服を訴える。
 軽やかな絹の衣をまとう少女はとトコトコと司馬懿の書卓まで近づいてくる。
 裳裾が波のように動いて、蝋梅のような黄色の小さな糸履がのぞく。
 見た目だけなら、妙齢な女性になっただろう。
 歩き方が護衛武将の名残があって、典雅ではなかったが。
 護衛武将時代の癖らしく、足音が鳴らない。
 弓兵だったのだから足音を気を使うのは、当然だろう。
 武将に随伴するとはいえ、死角から矢を放つのだ。
 混戦状態でなければ、敵兵に見つかってはならない。
「あまり変わりがないだろう」
 司馬懿は書きかけの竹簡を見る。
 手にしていた筆を硯に戻すと、チリンと甲高い音を立てた。
「ホワイトデーのお返しを期待していなくても渡す乙女心を忘れないでください」
  の小さな手が書卓に乗る。
 貴婦人たちが憧れるような玉のように白い手ではない。
 健康的に日に焼けて、ところどころに傷がある。
「お前にもそんなものがあったのか」
 司馬懿は優を見る。
「あります!」
 大きな黒い瞳は真剣だった。
 完全無欠の黒。
 昼間であっても染まることを嫌うように輝いていた。
「では、賄賂か」
「司馬懿さま〜。
 それじゃあ、打算的かつ夢のカケラもありません」
  はしおしおと言った。
 珍しい態度だった。
 何を言われても気にしない。
 柳に風ではない。
 台風だろうと、大災害が来たとしても、折れたりはしないほど幹を持つ木のような生命力がある少女だったからだ。
 さすがにいじめ過ぎたか、と司馬懿は思った。
「それで肝心なものはどうした?」
「もちろん用意しました!
 どうぞ!」
  は紙袋から西方の絵画が描かれている缶を置いた。
 かつては、板チョコや純ココアの粉状態のものを持ってきた少女だった。
 上出来すぎるヴァレンタインギフトだろう。
 漆塗りの螺鈿が美しい木箱にしろ、と言うつもりは司馬懿にもない。
 缶に塗装された絵柄も珍しいとは思うが気に障るほどのものでもなかった。
 司馬懿自身、 に手作りチョコレートを期待していることもない。
 料理の腕前的に計量から正しい手順を守らなければ作れない物を が作れるはずがない、ぐらいの判断はできた。
「司馬懿さま、何か問題でも?
 手作りじゃないのがあれですけど、きちんと選びましたよ」
  は小首を傾げながら言った。
「量が多いだろう」
 司馬懿は長く息を吐きだした。
 元教え子と違って、もともと甘味が入る方ではない。
 標準とされる量でも多いと感じる。
 それを短くはない護衛武将時代に は学習済みなはずだ。
  が書卓に置いた缶は両手のひらを広げたよりも大きいのだ。
「残してもいいです。
 司馬懿さまが食べられるだけでいいです」
 ケロッと は言った。
「残してどうする気だ?」
 司馬懿は確認した。
「もちろん私がひとりで食べます。
 捨てるなんてもったいないですから!」
  は力説した。
 食べる物も困る寒村出の少女らしい発言だった。
 冬場に暖を取るのに身を寄せ合う。
 薪や炭など買うお金はなく、家族が身を寄せ合って、そのぬくもりだけで厳しい冬を過ごす。
 そんな生い立ちをした が捨てるのを前提で買うはずもない。
 が、司馬懿には腑に落ちなかった。
「一緒にではなく?」
「この缶が綺麗で、一目惚れしちゃったんです。
 でもヴァレンタインギフトってあって。
 最近は自分へのご褒美チョコがあるっぽいですけど。
 でもチョコレート自身も美味しそうだったんですよ。
 だから、司馬懿さまにも食べて欲しくなっちゃったんです」
  はいつものようにペラペラと話し出した。
 自分自身のためだけに購入できなかった。
 それだけの金を所持していても。
 難儀な性格をしている。
 他者に利用されやすいほど、善良だ。
「お茶を淹れてこい」
 司馬懿は言った。
「はーい」
 疑問を持たずに はクルリっと方向転換する。
 その時に裳裾が広がって、花が咲いたように書斎が華やぐ。
「二人分だぞ」
 駆けだしそうな背中に司馬懿はキッチリと言う。
「へ?」
  は振り返り怪訝な顔をした。
「一緒に食べる」
 司馬懿は言った。
 単純でお人好しで、誰からも愛されて、曹魏の城で愛玩動物扱いされている少女は鈍すぎる。
 好意の区別がついてない。
「残飯処理をするつもりなら、その方が効率が良いだろう。
 ちょうど休憩を取るつもりだった」
「明らかに仕事の最中っぽいんですけど?」
 大きな黒い瞳はさっと司馬懿の書卓を確認する。
「お前が飛び込んできた時点で集中力が切れた」
 司馬懿は事実の半分を告げた。
 約束のない来客があれば多少の集中力は切れるが、その後に仕事に再開できないほどではない。
 どんな局面であっても、柔軟に手を変えて、刻々と変わる戦況の先を読んでいくのが軍師としての役目だ。
 敵兵が思い通りに動くなど稀だ。
 事前情報をどれだけ集めても、腹の読み合いになる。
「申し訳ありません」
  はわかりやすいほど項垂れる。
 真昼の照明器具。
 無駄に明るい。
 そんな綽名がつくほど明るい少女は、司馬懿のたなごころではコロコロと転がる。
「今更なことだ。
 早く行ってこい。
 私は忙しい身の上なのだからな」
 司馬懿は の背中を一押しする。
「それぐらい、知ってますよ!
 司馬懿さまが曹魏のために一生懸命に働いている人だって。
 じゃあ、すぐに用意してきます」
  は長い黒髪を揺らして、軽やかに出て行った。
 わずかとはいえ、誰にも邪魔をされない時間が確保ができたことに司馬懿は小さく笑う。
 雛鳥の餌付けるように にチョコレート一粒ずつ食べさせてやっても面白そうだ。
 単純に美味しいと喜ぶか。
 それとも最近は覚えてきた羞恥心で頬を染めるか。
 強く拒否するのを命令して食べさせるか。
 いずれにしても面白そうな、近い未来だった。
 司馬懿は優がお茶を抱えて戻ってくるまでの時間を計略を練るように楽しんだ。

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