ただの好機

 ゴキブリ並みの生命力を持っているとしか思えない少女がようやく床払いをすませたわけだった。
 が、本人は不満げな顔をしていたのが司馬懿には納得できなかった。
 元・護衛武将のは仕立てられたばかりの衣に着つけてもらいながら『げんなり』としか言えない表情を浮かべいていた。
 その姿を司馬懿は椅子に座って眺めていた。

「司馬懿様〜、これ高そうです」
「高そうではないな。
 高い、だ。
 お前の一年分の給金が飛んでいく額だな」

 司馬懿はあっさりと答えた。
 名門に数えられる司馬家にとっては、はした金だ。
 それほど高価なものではなかった。
 とりあえずあった絹の織物を小柄な少女のために仕立てただけだ。
 織り方が独特なわけでも、凝った金糸や錦の刺繍が入っているわけでもない。
 衣に玉が燦然とついているわけでもない。
 屋敷の中で普段着にする程度の衣だった。

「そ、そんなものいただけません!!」
 は大きな瞳をさらに大きくして答えた。
 朝の陽射しで見ても無欠の色だった。
 これ以上、染まらない黒。
 だというのに、玻璃のような魂を映し出すのか透き通って見えた。
 夜光の杯でもこうはいかないだろう。

「お前は私の妻になるのだ。
 この程度のもので満足してもらっては困る」
「つ、つ。妻!!」
 は拒絶反応をする。

 素直すぎるのも考え物だな。 
 と司馬懿は思った。

 外野を黙らせたことが徒労に感じてくる。
 肝心の少女は自分の価値がまったくわかっていない。
 後ろ盾もない平民の少女を側女にせずに正妻にするというのは、それなりに難儀であった、というのに。
 いくら司馬家の当主が司馬懿とは言え、まだ故郷には父が健在であり、親戚は多い。
 今まで司馬懿の女関係が身綺麗すぎたから、折れてくれたようなものだ。

「丈の長い女性ものに早く慣れるように。
 それでは今までのように走り回ることもできまい」
「無駄に裾が長いですよ。
 絶対に踏んづけます!」
「そうならないように着慣れるように。
 私は仕事があるから、花嫁修業でも勤しんでいるように」
「……はい」

 絶望したような声でも、きっちりとは返事をした。
 あいかわらず命令には逆らえないようだった。

 司馬懿唯一の護衛武将。

 それが少女の持つ絶対の価値であり、永遠に語り継がれる伝説になるだろう。
 司馬懿にしては長く続いた護衛武将だった。
 他の武将が引き抜きに来るほどの腕前を持った天下の神童。
 弓兵の中では一番の腕前を持っていた。
 鍛錬をくりかえせば、また戦場に復帰するのも難しくはないだろう。
 が、司馬懿はそんなことを優にさせるつもりはなかった。

 作戦のために駒は切り捨てる。

 曹魏がくりかえす遊戯盤に乗っているのは司馬懿とて同じだが、少女を二度と乗せるつもりはない。
 司馬懿の書斎の書卓に置かれている水色の弾棋の駒と同じ。
 鬱屈した帝王が宝石で造らせた駒は天青石。
 透明な水色の駒。
 弾いたら砕けるほどの強度しかない。
 そんなものを生命をかける遊戯盤には乗せられない。
 司馬懿はためいきをつく代わりに息を飲み込んだ。


   ◇◆◇◆◇


 司馬懿が屋敷に戻れたのは、いつもの刻限。
 月が天頂に昇り切る前だった。
 教え子がこき使うことだけは有能なのは面倒だと思い始めてきた。
 曹魏に仕え続ける意味はあるのだろうか。
 個人的な幸せを味わい始めたせいか、時たま感じるようになってきたことだった。
 平和という時代を知らずに生まれ落ちた。
 乱世の中で生きてきた。
 才を買われて無理やり仕官させられたのだ。
 戦を終結させて、禅譲という神代の形式で位を譲られた帝王が王道を歩み道をこの目で見てみたい。
 そんな野望を持っているから、まだ見限ることができずに、職分として今の地位を捨てられない。
 それに少女の夢は『お金持ちのお嫁さん』なのだ。
 無位無官になった司馬懿についてくる、可能性はあるのだろうか。
 司馬懿はつらつらと考えながら屋敷の奥へと向かっていく。
 この時間だと健康的な生活を送っているからのお出迎えは期待できない、と知りながら。
 寝室で夢の世界で遊んでいるだろう。
 よくて、必死に起きていて、寝ぼけながら挨拶するのがせいぜいだろう。
 躾けのきいた侍女たちの出迎えを受け、屋敷の中で起こった報告を聞いている最中だった。
 軽い足音が聞こえてきた。
 が護衛武将だった頃によく聞いていた音だった。

「おかりなさいませ、司馬懿様」

 明るく元気よく出迎えの挨拶をしただったが……見事に裳裾を踏んづけた。
 それを司馬懿は抱きとめる。
 学習能力がない。
 とまでは言わないが、予想通りの展開だった。
 手入れをされた艶やかな黒髪から花のような香りがした。
 香油が塗られ、櫛で良く削られたのだろう。
 蜜蝋の中でも特級品の絹のように艶めいて見えた。

「スミマセン、事故です!」

 真っ赤な顔をしては謝罪をする。
 このまま手放すのも持ったいない、と考え

「そうか、事故か。
 だが、言いつけを守れないようなら、それなりの対応策を考えなければならないな」

 司馬懿は冷ややかに目を細める。
 感情豊かな少女の顔面は蒼白になる。

「どんな罰ですか?」

 闇夜のような黒い瞳にうっすらと水の膜が張る。
 腕の中で小柄な体は小さく震えている。
 男だったら一度や二度は覚える加虐心を煽るには充分なほどの態度だった。

「大人しく抱き枕になってもらうか」
 司馬懿は嘆息をついた。
「それって、いつも変わらないじゃないですか?」
 きょとんと大きな瞳は見上げてくる。
 真昼の照明器具と呼ばれて、曹魏の城で権力者たちから愛玩された存在は、これっぽっちも変化がなかった。
 年頃の乙女らしい格好をさせても、内面まではそうそう変えられないということだろう。
 繕っただけだ。

 だが、変わらない。というのも貴重なのかもしれない。
 今まで見てきた女人たちのように、媚びへつらう姿が見たいわけではない。

「期待に応えて、足りないなら追加で罰を考えておこう。
 まだ時間はあるからな」
「期待なんてしていません! 司馬懿様〜」
「こちらは空腹だ。
 先に食事をさせてもらう。
 これだけ元気なんだ。
 夕餉は食べ終わっていても、果実水ぐらいは飲めるだろう?
 付き合うように」

 司馬懿はそう言うと、を腕の中から解放してやる。
 するっとした身のこなしで蝶のように、少女は出ていく。
 先ほど衣の裾を踏んで転倒しかけたとは思えないほど、軽やかな姿だった。
 夜気に包まれたしっとりとした部屋でも、絹の衣が広がるさまも、長い黒髪がそれにならうのも美しかった。
 は真夏の太陽のように暑苦しく、容赦なく、公平で、どこまでも照らす笑顔を見せた。
 それに司馬懿は満足した。


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作成者:憂@torinaxx
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ただの好機 
抱きとめる、事故、真っ赤な顔
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