咲く未来

 怪我の健康回復を兼ねては朝の散歩を一人でしていた。
 まだ暑くなる直前。
 花びらたちには露が静かに置かれている。
 贅沢にも百花の王の牡丹すら咲いている庭だった。
 さすが名門司馬家というところだろう。
 値千金だということも優ですら知っていた。
 裕福な家庭では競って咲かす花で、曹魏の宮城にもたくさん咲いていた。
 さわってダメにしたら護衛武将のお給料なんて全額ふっとんでいく、というありがたい先輩たちの忠告により、近づいたことはあってもふれたことはなかった。
 たった花一株に負ける護衛武将の生命の値段は……とはですら思った。
 ふいに魯氷花(ルピナス)が目に止まった。
 牡丹よりも珍しい花だ。
 故郷では見たことがなかったし、図鑑の中でしか花が咲いているところが見たことがなかった。
 そもそもの思考パターンは花が咲いたら実を結んで飢えをしのげる、というものだった。
 曹魏で護衛武将として採用されて、だいぶ心の余裕はできたものの、16年間という価値観はなかなか変えられないものだった。
 食べ物になる花の方がぶっちゃけ好きだった。
 その辺のところをよくわかっている曹魏の事実上のトップである甄姫からは可愛がられて、収穫の時期になるとがひとりでは食べきれない量を惜しみなく与えてくれた。

「……懐かしいな。
 みんな元気かな?
 私がいなくても」

 は帰ってこない日々を思い出して、思わず言葉を漏らした。
 涙の代わりに。
 短い時間の中ではあったけれども、護衛武将として司馬懿に仕えていた時間はどれもキラキラと輝いている。
 苦しいことが一つもなかった、といえば嘘になるけれども。
 それでも幸せだった、と胸を張れる日々だった。
 二度とは戦場に立つことはできない。
 ずっと見続けた背中を追いかけることはできない。
 司馬懿が用意した屋敷の中で過ごしていかなければならない。
 ずっとなりたかった「お金持ちのお嫁さん」になるのだ。
 亡くなった父も喜んでくれるだろうし、病弱な母の治療費だって面倒を見てもらっている。
 賢かった弟にはすでに学力に見合った私塾で学んで、やがては都に来るとも聞いた。
 自分の名前すら書けなかった寒村出のお転婆な娘にしては破格な出世だ。
 至れり尽くせりで、不満を漏らすことすら間違っている。
 沈み込んで、溺れそうな奥底に絡めとられないようには顔を上げた。
 空にはすでに太陽が昇り始めている。
 陽光で天日干しをしてもらうためには深呼吸をした。
 様々な初夏の花たちに囲まれて。
 ただ咲いているだけで幸せそうな花と同じになるために。

「よし、頑張らなきゃ」

 最近は司馬家の侍女の璃に言われて仕事が追加されたのだ。
 花嫁修業というよりはお城の侍女がする仕事だ。
 が自由に歩き回っていい庭――つまりまだ複数の庭を所持していているという考えるだけで恐ろしいお金持ちの金銭感覚はひとまず置いておく――から、司馬懿の書斎に飾る花を詰んで、相応しい花瓶に活けるという役割だった。
 どの花を摘むか。
 その花は過不足なく咲いていて、たとえ司馬懿が興味を持っていなくても邪魔扱いはされない程度に部屋を彩れるか。
 花びらが損なわれていることはないか。
 葉は瑞々しいか。
 切る際は花瓶にあった丈を切ることができるか。
 そんなテストである。
 美的センスが問われ、花を観察して、香りの強さなども考慮しなければならない意外に難しい仕事であったが、今のところは合格点を貰っていた。
 金目のものが大好きな少女は曹魏の宮城ですっかりとこの手のことが学習済みであった。
 あの曹丕がいて、あの甄姫がいて、あの張コウがいたのだから、優が目にする範囲に飾っている花が特級品じゃないはずがないのだ。
 自然に身についてしまった教養というものだ。
 弓を握るのには小さすぎて、何度も悔しい思いをした手は艶やかに咲き誇る牡丹ではなく、魯氷花(ルピナス)を選んだ。
 紫を2本、薄紅色が1本。
 花房が天頂をめがけて咲いているから、茎の丈は短く鋏では切った。
 それを絹織物の袖に置いては急ぐ。
 引きずるほど長い裳では護衛武将時代のように気軽には走れないし、そもそも怪我も完治していないのだ。
 裳裾を踏まないように気をつけながら、淑女としては大胆なぐらいな足早で歩くのが限界だった。
 花が活き活きしている間に。
 司馬懿が起床する前に花瓶に活ける。
 それがミッションだった。

 は司馬懿が寝ているはずの屋敷で現時点で一番上等の寝室をスルーして、書斎に向かった。
 朝が弱く寝ているはずの司馬懿に別段、気を使ったわけではない。
 そこまで深く考えられるほどの頭があったら、もっとマシな方向に使われて、司馬懿の屋敷に監禁されるような暮らしを送らされてはいないだろう。
 治療の療養と言われているが、自分の家族が遠方に住んでいるから手紙のやり取りするのが精いっぱい――ぐらいの建前は通るだろうが、司馬八達と呼ばれる司馬懿の弟たちとまったく面識がないというのは、普通だったら異常事態だと気がつくはずだ。
 司馬懿の将来の妻として扱われているのだから、男性は会わせられない――ぐらいまでは可能性として考慮してもいいだろうが、通常であれば複数つけられるはずの侍女が璃の一人だけしか知らないというのも、充分に違和感を覚える展開である。
 は所詮は貧しい家の平民の娘なのだ。
 裕福な家庭は知らないし、一握りの『お金持ちの家』について知識はまったくなかった。
 ので、何も疑問を持たずに現在に至る。
 は書斎の扉を開いて、固まった。

「司馬懿様、どうして起きているんですかっ!?」

 朝にはふさわしくない大絶叫である。
 しかも護衛武将として生命をかけてまで守ったほどの好きな相手との朝の会話がそれである。
 ずっと傍にいたい、と願い。
 婚約者として上にも下にもない扱いで屋敷に置いて貰っている状況である。
 好きな人に朝一で会えた場合、もう少し違った会話が普通だったら交わされるだろう。
 護衛武将だったとしても上官なのだから礼儀正しく朝の挨拶からスタートだろう。

「起きていたら何か問題があるのか?
 お前だって起きている上に、大声を上げるほど元気だろうが」

 不機嫌さを隠しもせずに司馬懿は言った。
 まあ、朝に弱い人間が起き上がっている状態で機嫌が良いことは稀である。
 三國一キレやすい軍師とみんなに言われているのだから、不機嫌じゃない時を探す方が難しいだろう。

「まだお城に行くには早いですよね?
 支度するにしたって」

 は焦りながらも璃から与えられた仕事を忠実にこなそうと作業を始めた。
 水をたたえた花瓶はすでに用意されていた。
 そこに魯氷花(ルピナス)を活けていく。
 といっても初夏の光を弾いてい輝かんばかりに咲く花だから、が気を使わなくても単純に花瓶に入れるだけでも充分に華やかなので苦労はない。

「魯氷花(ルピナス)か。
 紫と薄紅の色に限った上で、三本にした理由を訊いておこう」

 寝着に一枚、衣を引っかけただけの司馬懿が尋ねる。
 普段であれば固く結い上げらている髪もただ下ろされている。
 身支度が完璧にすんでいないしどけない姿で艶っぽさでも感じて、胸がときめくような状況かもしれないが、はそれどころじゃなかった。

「も、もしかしてヤバかったですか!?
 あの庭にある花はどれでも切って、ここの書斎に活けて大丈夫って璃さんが言っていたんですけど。
 お屋敷は司馬懿様のものだから勝手にやったらダメだったかもしれないですよねー。
 紫とか司馬懿様っぽくって綺麗だと思ったんですが」


 明らかに高そうな花だったし。
 珍しいことには間違いないし。


「花にも意味があることを教えたはずだが?
 その様子だとしっかりと忘れて摘んできたようだな」
「鳥頭でスミマセン。
 今度から辞書を片手に摘んできます。
 っていうか、辞書なんて持ち歩いていたら重すぎて、摘めません!
 しかも花言葉が載っている辞書はやたらと分厚いじゃないですかっ!!
 一つ一つ花を確認して、色も確認して、全部調べてから活けろってことですか!?
 私はまだ無理です!!」
 は必死に訴えた。
「……まだ、か。
 努力するだけの意欲があるようだな。
 今回は見逃そう。
 そんなに花言葉を覚えるのが難しいのだったら四季咲きの月季花(バラ)でも活けとけばいいだろう。
 誤解も少なく、この屋敷でも年がら年中咲いているからな」
 司馬懿は淡々と言う。
「はあ、月季花(バラ)ですかー。
 司馬懿様のお好みなら、次からはそうします」


 せっかく頑張って摘んできたのに。
 確かに月季花(バラ)はずっと咲いているけど。
 だったらわざわざ書斎に活けなくても、庭に出ればいいだけで。
 璃さんからは、これもテストだって言われたし。
 そもそも月季花(バラ)なんて香りが強い花を置いたら書類とかに匂い移りとかしそうだけど、そういうのは気にならないのかな?
 あれ、月季花(バラ)の花言葉って……。


 項垂れながらも、無駄なことをつらつらと考えていた の思考がピタリと止まった。
 真っ白になったといっても過言ではない。
 桃の花の次だったり、蓮の花の次だったり、男性に贈るには問題のある花言葉しか思い出せななかった。
 例外が一個ぐらい、と思ったけど、の知識の中には残念ながら入っていなかった。
 赤い色合いが印象的な月季花(バラ)の花言葉はストレートだ。


「し、司馬懿様っ!
 誤解が少ないって!!」
 の声は見事にひっくり返る。
「お前の気持ちはその程度のものだった、と。
 ずいぶんと薄情だな」
「そんなことありません!!」
 は間髪入れずに答えた。
 条件反射ぐらいの勢いで。


 月季花(バラ)の花言葉は「あなたを愛しています」だけど。
 間違っていはいない。
 そんなものを毎日、花瓶に活けるなんて恥ずかしすぎる!!
 ……あれ、魯氷花(ルピナス)の花言葉ってなんだっけ?
 あとでちゃんと調べなきゃ。
 司馬懿様から抜き打ちテストとかされそうだし。
 されそう、というか確実にするだろうし。


「早く目覚めた分だけ、軽くお茶の時間にするか。
 朝餉の前だからほどほどにしないと璃に文句を言われそうだな」
「司馬懿様が勝手に起きただけじゃないですかー。
 私は起こしていませんよ」
「私と過ごす時間が増えるのはお前にとっては不満か?」
「そ、そういう意味で言ったんじゃ!
 私よりも遅くまで起きているみたいだから、時間ギリギリまで眠っていて欲しいってだけですっ!
 他意はありません。
 お日さまに誓っても良いです!」
「ではお茶の用意をしてこい。
 快癒していないとはいえ、お茶の準備ぐらいはできるだろう?」
「はーい。
 じゃあ、行ってきます。
 お茶はこの部屋まで運んでくればいいんですか?」
「私だけの分だけではなく、二人分だ。
 自覚はないようだが、私の未来の妻だからな」
「!」


 改めて言われると恥ずかしい!
 司馬懿様はさらって言うけど。
 璃さんも、そういうために花嫁修業をさせてくれているけど。
 本当に司馬懿様のお嫁さんになるんだって、まだ実感とかなくて。
 むしろ、何があれば実感になるんだろう……?
 あ、お茶の準備をするように言われたんだった。
 すぐに淹れてこなきゃ。
 茶葉は何がいいだろう?
 もう新茶の季節だから、香りが爽やかで甘みがある茶葉が良いかなぁー。



 なので、昼間の照明器具と呼ばれるほど明るく元気な少女はすっかりとまた忘れ去ったのだ。
 何故、司馬懿が魯氷花(ルピナス)に目を止めたのか。
 花言葉の意味を尋ねたのか。
 司馬懿が優に確認したかったことは一つだけ。
 花に興味を持たない青年があえて訊いた。


 魯氷花(ルピナス)の花言葉は「いつも幸せ」。

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