第五十八章
もうすぐ、都に帰る。
ホウチョウはウキウキしていた。
ここの花も綺麗だったけれど、やっぱり一番はシキョ城の院子の花薔薇なのだ。
みんなと帰れると思うと、嬉しさは増す。
が、最近良くない話を耳にした。
ホウチョウが一人歩きしていると、また耳に入った。
侍女たちの控えの間。
休憩中の侍女や、今日は休みの侍女たちが会話に花を咲かせていた。
衝立の向こうにホウチョウがいることを知らずに、話していた。
「カエンはここに残るんでしょう?」
誰かが言った。
カエンはホウチョウと都から来た侍女だ。
チョウリョウ美人で、侍女名も華婉という。
「ええ」
カエンらしき声が言う。
ホウチョウは唇を尖らせる。
何故だかわからないけれども、最近こういう話を聞く。
メイワは、ホウチョウの耳に入れないように気をつけているのだが、忍び歩きが得意の姫の前ではあまり意味がない。
「どうして?」
衝立から飛び出して、ホウチョウは訊いた。
侍女たちは驚いて、固まる。
「どうして、カエンは都に帰らないの?」
幼子が不満に声を尖らせるように、ホウチョウは言う。
カエンは困ったようにうつむく。
「それはカエンに良い人ができたからですよ」
他の侍女が助け舟を出す。
「良い人って?」
ホウチョウはきょとんとする。
「三世を固く契った男性ですよ」
「?」
難しい言い回しに、ホウチョウは小首をかしげる。
「姫もお座りくださいな」
椅子を勧められ、ホウチョウは座る。
皆、歳が近い。
奥侍女とは違い、侍女のほとんどが庶民だ。
その分、気安く、ホウチョウを仲間に入れてくれる。
「カエンには、名を交わした男性がいるんです」
その言葉に、ホウチョウはようやく理解した。
つまりは、恋人のことだ。
恋人と離れ離れになるのは、誰でも嫌なものだ。
物語でも、それは良く題材にされている。
「それに、越えてはならない一線を越えてしまったんですものね」
「姫様の前で、そんなこと言わないでください!
恥ずかしい!」
カエンは耳まで真っ赤にして、怒鳴る。
また、知らない単語が出てきて、ホウチョウは困惑する。
「越えてはいけないのに、越えてしまったの?」
いけないって言われてたことを、してしまった。
それって、怒られるんじゃあ。
ううん、叱られるだけじゃなくて、鞭打ちとか、杖打ちとか、痛い思いをするんじゃあ。
ホウチョウは実際に見たことはないが、行われている刑罰を思い浮かべてブルッと震えた。
「まあ、でも。
庶民には多いんですよ。
姫のようにやんごとなき御方には、信じられないかもしれませんが」
「そうそう、持参金が足りないとか」
「仲人が見つからないとか」
「後は、披露目の宴まで待てなかったとか」
「相手が遠方の人だと多いって聞いたわ」
侍女は口々に言う。
みんな、楽しそうに笑う。
ホウチョウだけが理解が追いつかず、難しい顔をしていた。
「越えてはならない一線って、どんなことをするの?」
全く具体的ではない単語に、ホウチョウは無邪気に尋ねた。
「そんなするだなんて」
「いけませんわ。
そんな、ズバリと言ってしまっては」
黄色い歓声が上がる。
ホウチョウの疑問には、誰も答えてくれないようだ。
「そんなことをして、怒られないの?」
仕方がないので、違う質問をした。
「そりゃあ、親は怒るかもしれません」
「でも、名を交し合ったら、親は最後には許してしまうわ」
「だってね、鴛鴦(おしどり)は生涯に伴侶を一人しか持たないんですもの」
「許してもらえるまで、逃げてしまえばいいのよ」
「子どもの一人でもできれば、大丈夫。
披露目の宴をしなくても、みんな認めてくれるもの」
これには、きちんと答えが返ってきた。
つまり、怒られるけど、最終的には許してもらえるらしい。
ホウチョウは一つの単語に結びついた。
「それって、夫婦になったってこと?」
「はい」
カエンはうなずいた。
ようやく自分なりに答えが出て、ホウチョウは納得した。
「姫!」
メイワの声が、乱入した。
「こんなところにいられたんですか?
さあ、お部屋に戻りましょう。
皆さんの迷惑ですから」
メイワはにっこりと笑うと、ホウチョウの手を掴んだ。
「じゃあね」
ホウチョウは引きずられるように部屋を出た。
「どうして、メイワ。
私があそこにいるってわかったの?」
ホウチョウはメイワを見上げた。
「声がしましたから」
メイワは答える。
「ふーん。
あ、そうだ」
ホウチョウは良いことを思いついた。
二つ年上の、姉のような侍女は、いつもホウチョウにわかりやすく答えをくれる。
「メイワに訊きたいことがあるの」
「お部屋に戻ったらです」
「うん」
「でね、メイワ」
「何ですか?」
お茶を淹れながら、メイワは答えた。
「越えてはならない一線、ってなあに?」
無邪気にホウチョウは訊いた。
メイワはためいきをついた。
「どこで、そんな言葉を覚えてきたんですか?」
「さっき。
みんなで話していたときに出てきたの。
……もしかして、はしたないの?」
「ええ、はしたないですね。
殿方には質問しないでくださいね」
メイワは茶器をホウチョウに渡す。
「うん、わかったわ。
男の人には、絶対訊かない」
ホウチョウはニコッと笑う。
「越えてはならない一線を越えるとは、夫婦になることです」
「夫婦になることは、良いことなんでしょう?」
「手順を守れば、それはとてもめでたいことですよ」
「つまり手順を守らないから、いけないことなの?」
「どんなものにも、守らなければいけない作法があるのです。
たとえば、美味しいお茶を淹れるためには、茶器を温めなければいけません。そして、お湯を使って、充分茶葉を蒸さなければなりません。
急須のふたを開けたまま放っておくと、味が落ちます。
それと同じです。
恋にも作法があるのです。
それを守らないと、周りから非難されます」
メイワは言った。
「叱られるの?」
ホウチョウは不安になる。
「場合によっては、石を投げられるかもしれません」
メイワは穏やかに言う。
石を投げつけられる自分を想像して、ホウチョウは怖くなった。
「正しい手順を守れば、大丈夫ですよ」
メイワは優しく主の頭を撫でる。
「じゃあ、カエンは石を投げつけられてしまうの?」
「……。
カエンの両親しだいです」
「みんなは最終的には許してもらえると言ってたけど」
「そうですね。
何年もかかるでしょう。
だから、それを恐れたカエンはここに残るんです」
「それって、良くないことなの?」
ホウチョウは問う。
メイワは寂しげに床に視線を落とす。
「姫の言葉を借りれば。
運命の人に出会ったのです。
カエンはその手を放したくないと思ったから、全てを捨てる覚悟をしたんです」
「……」
「もう二度と、両親や友人に会えなくてもかまわない、と。
今、恋人と離れ離れになるぐらいならと、決断したのです」
メイワは静かに言った。
「どうして、カエンは正しい手順を踏まなかったのかしら?」
「正しい手順は、あまりに時間がかかるのです。
その間は、恋人と会うのも大変です。
とても手間がかかって。
一瞬が貴重な恋人同士には、地獄のような時間がかかるのです」
「大変なの?」
ホウチョウが不安げに問う。
「大丈夫ですよ。
白厳様は、きっと姫のために苦労をしてくださるでしょうから」
メイワは寂しそうに笑った。
「どうして、シャオの名前が出てくるの?」
ホウチョウはびっくりする。
「名を交わしたのでしょう?」
「え、うん。
……いけなかった?
その、順番が違った?」
メイワに問われ、正直にホウチョウは白状した。
「皇帝陛下でも、二人の仲を引き裂けません。
鴛鴦はたった一人の伴侶しか持ちませんから」
メイワはそう言いながら、寂しげだった。
それが、ホウチョウには気になった。
「もしも、皇帝陛下が仲を反対なされたら。
どうぞ、ご自分の心に正直に。
運命の人の手を放さないように」
メイワは言った。
「うん」
うなずきながら、ホウチョウは漠然とした不安が胸に広がるのを感じた。
何となく、都に帰るのが嫌になった。
今のままが良い、と思った。