第五十二章
南城で軍議が大広間でされなくなって久しい。
どこで、策が練られるかというと、それは城主の書斎である。
そこで会議とはいえないほど大雑把に方針が決まるのだ。
春もたけなわ。
外はぽかぽかの陽気だというのに、男たちは書斎にいた。
書卓に竹簡を広げ眺めている城主。お茶を淹れる副官。兵法を読む家令に、通俗本に笑う切り込み隊長に、辞書を引く護衛官。
てんでんばらばらである。
そこに協調性を見出すことができる者がいるなら、お目にかかりたいほどの、個性である。
「やっぱり戦わなくてはいけませんか。
読み通りとはいえ……少し悔しいですね」
ソウヨウは呟く。
どこが悔しいのかわからないほど、おっとりとした声の音と表情である。
この青年の治らなかった癖である。
おおよそ、状況に相応しい表情ができない。
それはのんびりしてるからではなく、人間として欠けている部分があるためだ。
補えきれなかった、とモウキンは苦笑する。
静かに副官は卓の上に茶器を置く。
ソウヨウは無言でそれを受け取り、口を潤す。
「戦いにおいて、刃を交えるのは下策」
兵法の基本理念を呟いて、ソウヨウは顔を歪める。
正確には、歪めて見せた。
悔しいと思うよりも、面倒だと思っている方が、強い。
つまり、この表情は世渡りのために選択されたものなのだ。
「シデンを使いますか?」
シュウエイが言った。
暗殺を仄(ほの)めかす。
「魅力的ですが、それは駄目です」
ソウヨウはためいきをつく。
その言葉は、暗にその手はもう考えたと言っていた。
「ギョクカンの王城に私自身が乗り込みたい気分です」
彼はそう言って、お茶をすする。
視線が集まる。
やりかねない、とこの部屋にいる誰しもが思ったためだ。
「嫌ですね。
そんなことしませんよ。
言うだけなら自由でしょう?
やりませんよ。
責任がありますから。
まあ、シュウエイに策を預けて、とんずらするのもありですが」
ニコニコと青年は言う。
「やめてください」
不機嫌にシュウエイは言った。
「予想通りの言葉、ありがとうございます」
曖昧な色の瞳は竹簡を見る。
「しかし、総力戦ですね。
こちらにも被害が出ますよ、これじゃあ」
戦いにおいて損失が皆無ということはありえない。
だからといって、勝つために大きな損失を受けては意味がない。
それは戦術の上でも、戦略の上でも、敗北につながる。
「次男と三男が軍を率いている上に、王自らのお出ましです」
国境沿いに布陣するであろう、ギョクカン軍の構成。
兵の数に、軍馬の数、補給物資の量に、武器の量。
それらがこと細かく、竹簡に記されている。
情報を制す者は世界を制す。
この情報源はシュウエイの実家の手の者だ。
翔家はどんなものでも商う。
優秀な密偵を抱えた闇の商人なのだ。
「やっぱり、怒ってますかねぇ」
ソウヨウは暢気に言う。
「目の前で花嫁を掻っ攫えば、誰だって怒りますよ」
カクエキがケラケラと笑う。
「仕方がないじゃないですか」
ソウヨウは唇を尖らせる。
「皇帝陛下の勅命ですものね」
ユウシは微笑む。
それはこのチョウリョウの逆らうことを許さない、絶対の法なのだ。
「……。
それも、ありますけど。
ちょっと、間違いです。
私が、あんなクソ野郎に姫を渡したくなかったんです」
城を任された将軍に似つかわしくない単語が紛れ込んだのは、お友だちの影響である。
おっとりとした笑顔でそれを言うのだから、底冷えするような違和感が漂う。
「じゃあ、陛下にも返さないおつもりですか?」
カクエキが混ぜっ返す。
「都には帰します。
姫はシキョ城を恋しがると思いますから」
質問と微妙にズレのある返事をする。
「公主が将軍と離れたくない、と言ったらどうするおつもりですか?
まだ、降嫁を願うには身分が足りてませんよ」
シュウエイが現実的なことを言う。
「そうですねぇ。
でも、この戦いが終われば列将軍らしいですから……冗談でしょうけど。
褒美として、おねだりしましょう。
それで、何とかなるでしょう」
ソウヨウは微笑んだ。
夢を食べて生きている恋人よりは、格段現実的なことを考えているのだ。
いざとなったら、いくらでも手段が。と呟く辺り参謀よりも軍師向きである。
「歓談中失礼しますが。
布陣はどうなさいますか?」
モウキンは話題の軌道修正をする。
「ツーに先陣きってもらいましょう。
配下は、五の五で一両、二十五人。
全部騎兵で……あ、シュウエイが見繕ってください。
馬を操るのが得意で、柔軟な思考の人物か、命令違反ができないほどの堅物が良いです」
「私の旗下に加えるつもりですか?」
シュウエイは訊く。
できることなら厄介事は引き受けたくないと、言外に匂わせている。
「まさか。
独立させますよ。
私の直属で」
「兵をもっと割いた方が」
一両では、少なすぎる。
シュウエイが言う。
「そんな馬鹿なことしてどうするんですか。
兵を無駄にしたくはありません。
余力が乏しいんです」
各地から、この南城に兵が続々と集まってきてはいる。
それでもその兵は、同盟軍が抱えている兵の総量の三分の一にも満たない。
それだけしか、皇帝は兵を出さないのだ。
ギョクカンを侮(あなど)っているわけではないのだろうが、数の上では不利感を拭えない。
「間違いなく突っ込んでいくぞ、あの馬鹿は」
カクエキは言う。
部下として目をかけていただけに、性格の方はしっかりと把握(はあく)済みである。
「ええ、もちろんです。
それで良いんです。
ギョク・キンレイの首を取ってきてもらいます」
ソウヨウはにこやかに言う。
「それで、相手の士気が低下するでしょう。
混乱に乗じて、次男の方にも壊滅してもらいましょう。
それにはシュウエイに当たってもらいます」
ソウヨウは華麗に策を広げていく。
彼の瞳には、決められた未来が映し出されているのだろう。
「伝令よりも、早くたどり着いちゃ駄目ですよ。
意味、なくなっちゃいますから」
シュウエイが率いる部隊の機動力を知っているだけに、ソウヨウは釘を刺す。
「わかっています」
シュウエイはうなずく。
「俺は暇みたいだなぁ」
切り込み隊長はぼやく。
「まさか。
カクエキには敵本陣に夜襲をかけてもらいます」
「……夜襲かよ」
カクエキは腐る。
面倒この上ない、仕事である。
「混乱させれば良いですから。
兵を失うのは駄目です。
敵の緊張が緩みきっているときが最も効果的ですから、どっかで小さく負けておきましょう。
作戦上、カクエキが最初でないと意味を持たないのですから。
ほら、ちゃんと、先陣です」
ペテンのようなことを青年は笑顔で言う。
「はいはい、かしこまりました」
投げ遣りにカクエキは言った。
「もっと策を弄(ろう)さないといけませんね」
策を練るではなく、策を弄すると言う辺りで、この青年の性格が垣間見える。
愉しげに策を編んでいく。
一つ一つはささやかな策だ。
それが珠のように連なって、大きな成果を挙げる。
均衡の取れた積み木の、最も危ういところを引き抜いたときのように、一気に崩壊するのだ。
安定していたものが、信じきっていたものが、自分の足元から一気に崩れる。
それはおぞましいほどの恐怖だ。
青年は敵にそれができる。
何のためらいも、罪悪感も、覚えずに。
だからこそ、南城の城主で居続けられるのだ。
計略の奇才はうっとりと微笑んだ。
確実に起こる未来に。
彼自身が作り出す定められた未来に。