第二章
柔らかな日差しの中、少年は目を覚ました。
目を開いた瞬間、飛び込んできた鮮やかな色彩に戸惑う。
たとえば、飴色の卓の上に敷かれた緻密な刺繍がなされた浅黄色の布、その上に置かれた白磁の花瓶、活けられた赤みの強い鬼百合の花。
石造りの床に引かれた敷物は藍色の宇宙と星宿を意味する四天の色。
派手ではあるが、悪趣味の一歩手前。
生まれ故郷にはない色の豊かさに、気圧されてしまう。
あどけないその顔に、自己嫌悪が走る。
ここは少年の生まれた地ではない。
それよりも遥かに北に位置する、広大なるチョウリョウ。
少年は寝台から降り、木戸を開いた。
朝の光が室内を満たす。
少年は深呼吸する。
新しい一日の始まりだ。
今日も生きていかなければならない。
シ・ソウヨウは朝日を見つめた。
午前の講義が済み、ちょうど鐘が昼を知らせる時分。
ソウヨウは廊下を渡っていた。
シキョ城の、内宮。
後宮と施政宮の中間に位置する。
飛の姓を持つ者と、供人、ごく一部の官僚のみが立ち入ることを許された私的な空間だけに、歩く人影も少ない。
ソウヨウはホウチョウの遊び相手として、この奥の一室で教育を施されている。
人質としては破格の扱いである。
大人たちの考える謀略はソウヨウにとってもまだ遠いものではあるが、世の中全ての事柄が善意で成り立っている訳がないことぐらいは知っている。
生かされていることを感謝しながら、信頼しきらないように気をつけている。
あまり後悔をしないように……。
「おはよう!」
柱三つ分先から声が飛んできた。
ホウチョウだ。
少年のような姿で、走ってくる。
飾り気のない実用本位な格好だと言うのに、どこか華があるのは少女の持って生まれた美質の一つだろうか。
着飾ればさぞや、と宴の折のことを思い出してしまうのは詮のないこと。
ソウヨウの知る限り、平時の少女はいつもこのようだった。
「おはようございます」
ソウヨウはゆるゆると礼をする。
陽が中天に差し掛かる頃に朝の挨拶と言うのもずいぶん間の抜けたものであるが、目の間の少女がこれだけは譲らないのだから仕方がない。
その日初めて逢った時の挨拶は、おはようでなくてはならない。
たとえそれが夜眠る間際であっても。
それが、少女のこだわりであった。
「また、お勉強?
学者になるつもりなの?」
ソウヨウが小脇に抱えていた竹簡を目ざとく見つけて、明るい茶色の髪の少女は問う。
「それも、いいですね」
そんなことはありえない、と知りながら少年は微笑んだ。
「竹林で書を読むなんて、ヨボヨボのおじいちゃんに任せておけばいいんだわ。
男なら立身出世。
一国一城の主でしょ?」
さも当然と、少女はニコニコと言う。
群雄割拠の時代、常識となりつつある考えだ。
婦女の発言としてはいささか無粋だが、兄たちの影響であろう。
「そんな……大それたことを。
……望んでは、いません」
ソウヨウはホウチョウの言葉を否定する。
少年は絲一族の長。
父亡き後、直系の男子は彼しかいない。
仮初めであったとしても、傀儡であったとしても、紛れもなく彼は『絲』を背負っているのだ。
望んではいけない。
シキボを取り戻して、その主として君臨する、と言うことは。
それは、少女の父兄を討つということ。
反乱を起こすということ。
人質としてチョウリョウに生かされている身だと、幼い少年は自覚している。
そんなことを口にした瞬間に待っているものは、一つ。
「覇気が足りないわ!
雛兄だって、もう少しマシよ」
怒ったようにホウチョウは言う。
「私は……ただ静かに暮らしていければ、それで良いんです」
ソウヨウは静かに言った。
偽らざる本音だった。
「戦乱に飲み込まれてしまうわよ」
まるで赤瑪瑙そのものの瞳が、見据える。
「……だとしたら、それが私の天命でしょう」
緑がかった茶色の瞳は、よく磨き上げられた床を見つめた。
塵一つなく掃き清められたそこには、小さな影が二つ揺らいで映っていた。
鮮やかな緋色の衣をまとう影と、鈍い暗緑色の衣をまとう影。
「そんなのダメよ!」
ホウチョウは不満の声を上げた。
少年は顔を上げた。
シユウの末娘は、顔を真っ赤にしていた。
……怒っているのだろう。
「あなたは大切なお友達なんだから!」
大粒の涙を瞳の端にためて、ホウチョウは言い放った。
ソウヨウは鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
唖然として、一つ年上の少女を見つめた。
胡蝶の君は、大切に大切に箱の中で育てられている。
だから、わがままで……。
信じられないほど無垢で、泣きたくなるほど純粋で……。
人質を友、とするなんて。
彼の価値観からは考えられなかった。
人質は所詮、人質でしかないのだ。
役に立たなければ塵や芥のように打ち捨てられ、裏切るようなそぶりでも見せれば殺される。
人間以下なのだ。
無論、人と人の間には、国やしがらみを越えて絆が育つときがある。
けれども、それは希なことであるから美談とされるのだ。
ホウチョウは手の甲でゴシゴシと涙をぬぐった。
「わたしを置いて、死んだら許さない!」
理不尽なことを言い切った。
赤瑪瑙の瞳はソウヨウを射抜くように見つめる。
彼の胸の内にある、慣習やこだわりを打ち砕くように。
「……努力します」
「約束だからね!」
「…………はい」
少し迷ったものの、ソウヨウはうなずいた。
うなずいてしまった。
否とは応えられなかったのだ。
「絶対だよ?」
ホウチョウは念を押す。
「はい」
少年は答えた。
少女はパッと顔を輝かせた。
「あ、そうだ。
あのね、昼ご飯の準備ができたから、呼びに来たんだよ。
院子(中庭)で、食べるの。
今、すっごく綺麗なんだから。
早く、行こう!」
少女は少年の空いている方の手を取る。
ソウヨウは、そのぬくもりにドキッとしながら、安心した。
強張っていたものが自然と解れていく。
息が楽にできる。
そんな力が、伝わってくる。
「院子にはとっても変わった木があるのよ。
そうびなんだけれど、香りが全然違うの」
歩きながらホウチョウは、ニコニコと語る。
この手を離す日が、いつか来る。
ソウヨウは全てに盲目的にはなれなかったから、予感を無視できなかった。
ぬくもりを知ってしまえば、繋がった絆が見えてしまえば、もう元には戻れない。
『いつか』ができるだけ遠い日であることを願う事しかできない。
ずいぶんと甘い考えだと言うことは、ヒシヒシと実感している。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
夢を見たい、と少年は思った。
現実はあまりに辛すぎるから。
生きていくために、仕方がないと切り捨てるものが多すぎるから。
今だけは、と。
甘い夢にいたかった。