第七部 海月視点07

 人気のない院子は惜しいことに半月だった。
 突きつけられた短剣はしまわれている。
 きちんと話し合う気はあるようだった。
 判断が早い。
 軍略を携わる者としては立派すぎる決断力だ。
 ただ理性が強すぎるな、とロウタツは思った。
 あとはゆっくりと青年が納得するまでの話をしていけばいい。
 そう思っていたのだが、理解は……やはりついていなかった。
 あるのは利害の一致。
 裏切りを恐れているわけではないだろう。
 ならば殺せばいいだけなのだから。
 病死した、とでもすればいい。
 青年がこだわるのは、十六夜公主だった。
 それだけかけがえのないものなのだろう。
 それに危害を加えるのは許せない。
 つまり『敵』とみなす、ということだろう。
 あまりにも残酷なことをしてくれたな、と鳥陵皇帝を思い出す。
 妹公主を任せるのにふさわしく、執着させて、教育を与えて、位階までお膳立てしてやった。
 利用するだけの駒にしては、別格の扱いだ。
 自分が死んだ先を見越してだろう。
 大切な妹公主を絶対に傷つけることなく、守らせるために、育て上げた、ということだろうか。
 いくら話し合っても平行線だ。
 こちらがどれだけ内情を話しても、信じてはいない。
 少し強引だが事態を収束することにした。
 これ以上、長話をしていたら他者に気がつかれてしまう。
 ロウタツは懐から鉄扇をできるだけゆっくりとした動作で開く。
 それに気がつかないほど愚かではないだろう。
 本当に攻撃を与えるためなら、こんな悠長なことはしない。
 暗器は不意打ちをするのが効果的なのだから。
 青年はためいきをついた。
 すでに幼い心は限界なのだろう。
 まるでお手本通りに青年はおっとりと微笑んだ。
 きっかけの一つには、なったようだ。
 情動の種は撒かれた。
 それも教育を施した皇帝ではなく、親族でもなく、赤の他人に。
 収穫がなかったわけではないだろう。
 ロウタツは片手で鉄扇を閉じる。
 院子にパチンっと金属音が鳴った。
 そして、懐にしまう。
 この異常事態を上手に収めてくれるような人物がいればいいのだが、とロウタツは思案する。
 意外に行動の早そうな翔将軍を思い出す。
 旗下の中でも、情報網がしっかりしているだろし、緘口令を敷くのは得意そうだ。
 そして、不器用なほどの激情家だ。
 怯みもせずに、歳下の上官を怒鳴って正論を振りかざしてくれるだろう。
 大司馬、という立場を再確認させ、青年を落ち着かせるだろう。
 あとは大人の副官に任せるか。
 良心に富んだ人格者、らしいから。
 綺麗に読み解いて、諭してくれるだろう。
 優しい父のように親身になって。
 そんなことを考えながら与えられた寝室に戻ると、部屋の中央に所在無げに寝着姿のゲッカが立ち尽くしていた。
 ロウタツを見ると、抱き着いてきた。
「沖達!」
 高く澄んだ声が心配だった、と告げる。
 細い体を抱きとめる。
「見ての通り無事ですよ。
 怪我一つありません」
 ロウタツは黒く長い髪を指先で梳く。
「でも、鉄扇、持ち歩いてた!
 ずっと。
 ……海月から。
 絶対、今までそんなことしなかったよ!」
 ゲッカは顔を上げて、言い募る。
 やはり頭の回転は速いし、聡い。
「そうですね。
 確かに、開きましたが、それだけです。
 確認してみますか?」
 幼い体をゆっくりと引きはがしながら、ロウタツは言った。
 あいかわらず異性への警戒心が薄い。
 ロウタツは懐から鉄扇を差し出す。
「血もついていません」
 小さな手に置いてやる。
 日に焼けた手がパタパタと鉄扇を開く。
「本当だ」
 大きな黒い目が確認する。
 それから、そろそろと鉄扇を閉じる。
 小さな金属音が鳴る。
「実は今夜の交換条件は、ちょっと特殊です。
 できますか?」
 ロウタツは膝をつく。
 夏用の敷織物は機能性だけではなく、趣味も良い。
「え?
 ……ボクが、できることなら」
 人が持つには過分な稀有の瞳が見下ろす。
「ではお願いします。
 今夜あったことは悪夢だと思い、大司馬から何か尋ねられたら、素直にお話しください」
 ロウタツははっきりと言った。
「え、でも。
 だって。
 白厳は……沖達を。
 ……殺そうとしていたよ」
 感じやすい大きな瞳が潤む。
「話をしただけです」
 ロウタツは断言した。
「見ての通り怪我はしていません。
 鉄扇も汚れていないでしょう?」
「う、うん。
 でも」
「私は気にしていません。
 かなり強引だったかもしれませんが、おおよそ計算通りでした」
 ロウタツは言った。
「うーん。
 沖達が言うなら、そうなんだね。
 わかった。
 明日、白厳から言われたら話せばいいんだね」
 かつてのように、あっさりと少女は納得した。
 総領時代、そうであったように。
「その時は、どんな事柄であれ、お心のままに、素直にお答えくださいね」
 ロウタツは念を押す。
「うん。
 ……どうして、こんな、その。
 おせっかいをしたの?
 ボクのためじゃないよね。
 確かに、海月は鳥陵だけど」
 ゲッカはしどろもどろに言った。
 やはり、気がつかれたか。
「同じですよ。
 海月のためです。
 まあ、多少、情がわいたのは否定しませんが」
 ロウタツはため息をついた。
「白厳に?」
「将来のための布石ですよ。
 彼には、これから先、乗り越えてもらわなければならないことがあるんです。
 こんなところで鳥陵に倒れられては困りますからね」
 ロウタツは言った。
「鳳のせい?」
「……まあ、そう遠からずと言ったことでしょうか」
「やっぱり、鳳が悪いんだ!」
 確信をもってゲッカは憤慨する。
「おそらく悪気はないんでしょうから本人には言わないでくださいね」
「でも」
「皇帝ですから、しなければいけないことがあるんです。
 人にはそれぞれ領分があるのです。
 できること。
 できないこと。
 全部が全能にすることはできません。
 ですが、皇帝は違います。
 完璧でなければいけません。
 少なくとも、国民はみな思っています」
「皇帝だって同じ人間だよ。
 お腹が空けば、ひもじいし。
 寒ければ、凍えるし。
 暑ければ汗をかくし。
 悲しいことがあれば辛いし」
 ゲッカはさも当然のことのように言う。
「華月様。
 こちらにいらした間、そんなことを陛下とお話ししていらっしゃったんですか?」
 ロウタツは確認する。
「あ、ダメだった?」
 黒い目は困惑を浮かべる。
 ゲッカが差し出したのは、迷いがなく、混じりけのない親愛だった。
 ロウタツは、皇帝が号を与え、傍に置き続けたことを理解する。
「いえ、華月様らしいと思いました」
「でもね。
 ボクの一番は沖達だよ!
 それを言う度に、鳳の機嫌が悪くなちゃって。
 でも、最後には笑って許してくれたけど……」
 思い返しているのだろう。
 ゲッカは小首をかしげる。
 黒く長い髪がさらさらと流れる。
 鳥陵皇帝のあまり知りたくない一面だった。
 ずいぶんと両極端だ。
 本当に情緒が育っているのか、納得できなくなった。
 大司馬である青年の空虚さや欠落の大きさは、まだ予測できる範囲内だ。
 これから先、いくらでも、人間らしさを身に着ける機会はあるはずだろう。
 仕向けられたとはいえ、上手いことに皇帝から教育を施されている。
 一応、秋まで片付いてもらわなければならない不安要素があるが。
 幼い、と言ってもいいほどの精神の脆弱さだ。
 歳上の人間に命令されることに慣れきっている。
 骨の折れる作業になるだろうが、周囲の同情なり、諦めなりを得られれば、どうとでもできる。
 何といっても、まだ多感な年頃だ。
 叩き込めばいいだけだ。
 地位的にいえば、かなり格下である太守風情にたった数日で精神を疲弊され、翻弄されたのだ。
 おそらく矜持は低い。
 いや職務やら、それに通じるものには、それ相応の覚悟はあるだろう。
 同じ歳よりも責任感は強い方だろう。
 ただ本質的に矜持なんてものは持っていないだろう。
 だが、皇帝はすでに二十六歳なはずの男性なのだ。
 成人前の童女といってもいいはずの少女が差し出した同情心で満足されては困るのだ。
 生まれついてのものだろうか。
 それとも育ち方に問題があったのか。
 情報が端的過ぎて、推測よりも憶測が大きいが。
 ……劣等感を抱えすぎている。
 重度すぎる。
 その内面を補えるほどの后を迎えてもらわなければ、血統が途絶える。
 また乱世が戻ってくるのか。
「沖達?」
 ゲッカが敷物の上にぺたんと座り、大きな瞳で覗き込んでくる。
 返事がなかったことに不審に思ったのだろう。
「申し訳ありません。
 少々、考え事をしていました」
 ロウタツは国の未来への恐怖を感じながら、隠した。
「ふーん。
 そうなんだ」
「あんまり近づくと、交換条件じゃなくて、くちづけしますよ」
 ロウタツは一応の忠告する。
「いいけど?」
 ゲッカはあっさりと言ってのけた。
 だいぶ慣れたのだろうな。
 慣らしたというのが近いのだろうが。
 ロウタツは細い腰を引き寄せる。
 細い腕が首に伸びてくる。
 ゆっくりと黒く長い睫毛が伏せられる。
 紅も塗られていない唇に唇を静かに重ねた。
 一応、鳥陵の離宮の一つであり、王都の中心にも近い。
 ここに根ずく豪族たちは、強固で一途な『恋』をする。
 醜聞が広がるのも問題なので、ロウタツは普段よりも軽めに唇を離す。
 間近で大きな瞳が見開かれる。
 明らかに、物足りないと語っていた。
「お楽しみは海月に戻ってからです」
 ロウタツは小さな背を軽く叩く。
「早く、帰りたいなぁ。
 ファンに会えて、楽しかったけど」
 そのまま、ずるずると幼い少女はもたれかかってくる。
 眠くなってきたのだろう。
「……そうですね」
 ロウタツは小さな体を抱きかかえながら、ためいきをついた。
 二か月前には感じられなかった恐怖だった。
 殺されるのを覚悟の朱鳳入りだった。
 蓋を開けてみれば、この国の血統を残すという繊細な話題になってしまった。
 あまりにも『運命』なんておぼろげなもので、決めてほしくない。
 抱えている小さな体は、すでに夢の中だ。
 安堵しきって、健やかな寝息を立てている。
 起こさないように気をつけながら、紗をくぐり、寝台に横たえる。
 ロウタツは面倒事を考えるのを放棄して、寄り添うように己の体を置く。
 軽い夏用の布団をかけて、目を伏せる。
 どうせ今頃は、大騒ぎが起きているだろう。
 昼頃には、また騒ぎが起きそうだが、傍らで眠る少女が解決するだろう。


 カイ・ロウタツは、この大きなお世話のおかげで、意外な未来が待っていることを知らなかった。
 後の史書に列伝を立てられるほどの身分になり、複雑な縁を結ぶことになる。
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